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『黒鋼ノ戦旗 ― 奪われた未来を取り戻すために』  (裏)  作者: 田舎のおっさん
第4部

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第十七話(裏)

――黒鋼は、丘を数えない


 雨は、北嶺の斜面を静かに叩いていた。

 霧が低く垂れ、視界は削り取られたように白い。


 黒鋼は馬上で、地図を閉じた。

 黒嶺尾根へ至る進路は、すでに頭の中に刻み込まれている。

 何度もなぞった線だ。誤差はない。


「進軍は予定通り。夜明け前に前衛を丘陵帯へ」


 淡々と命じる声に、ためらいはない。

 周囲の将校たちは、その確信に引きずられるように頷いた。


「雷返しの丘付近は、どう見ますか」


 副官が控えめに問う。

 黒鋼は一瞬だけ視線を上げ、霧の向こうを見据えた。


「丘は丘だ。

 足場が悪く、視界が乱れる。

 それだけの場所だ」


 言い切りだった。

 彼にとって地形は、数値であり条件であり、突破可能性の集合体に過ぎない。


「敵が出るなら、迎え撃つ。

 出なければ、通過する。

 それ以上でも以下でもない」


 副官は言葉を飲み込み、命令を書き留める。

 黒鋼の戦争は、常にそうだった。

 “意味”を付与しない。

 “感情”を挟まない。

 ただ、勝利に必要な最短距離だけを選ぶ。


     ◇


 夜半、前衛からの報が入った。


「敵影、雷返しの丘に展開あり。

 数は多くないが、布陣が不自然です」


 黒鋼の眉が、ほんのわずかに動く。


「……布陣、か」


 地図を開き、丘の位置を指でなぞる。

 確かに、そこで待つ理由は薄い。

 正面衝突には向かない。

 撤退路も不安定。

 戦力差を考えれば、愚策に近い。


 ──普通の将であれば。


「誰が指揮を?」


「桜花将本人との報です」


 黒鋼は、静かに息を吐いた。

 笑みとも溜息ともつかない、短い呼吸。


「……やはりな」


 彼女は、丘を“数えない”。

 数字ではなく、場の“歪み”を見る。

 勝てる場所ではなく、勝ちを奪える瞬間を選ぶ。


「進軍を止める必要はない」


 黒鋼は言った。


「ただし、前衛の密度を下げろ。

 隊列を分割し、速度を変えろ。

 雷返しに“一点集中”を与えるな」


「桜花将の狙いは、奇襲かと」


「奇襲は形だ。

 本質は、“俺がそこで止まると信じている”ことだ」


 黒鋼の視線が、霧の奥を射抜く。


「彼女は、俺が丘を戦場として選ぶと読んでいる。

 ならば──俺は丘を“通過点”のままにする」


     ◇


 深夜。

 雨脚が一段強まった。


 黒鋼は天幕を出て、丘陵帯の方向を見た。

 遠雷が、雲の奥で低く鳴る。


「雷返し、か」


 その名を、口の中で転がす。


 かつてなら、彼は迷わなかった。

 桜花が立つ場所へ、正面から踏み込み、

 剣で、力で、意志で、決着をつけた。


 だが今は違う。


「……桜花。

 お前は俺に、“選ばせよう”としている」


 黒鋼は、わずかに目を細める。


「ならば俺は、選ばない」


 勝つために必要なら、会わない。

 避けるために必要なら、避ける。

 戦場は、衝突の場ではなく、結果を生む装置だ。


 それが、彼の戦争。


     ◇


 夜明け前、進軍開始。


 黒鋼軍は、雷返しの丘を“包む”ように動いた。

 正面は薄く。

 側面は深く。

 丘の視界の外で、流れを変える。


 丘に布陣する敵へ、圧をかけすぎない。

 引き寄せない。

 ただ、選択肢を削る。


「丘に踏み込まず、北嶺へ抜ける」


 命令が、静かに、しかし確実に伝播する。


 黒鋼は馬上で、最後に一度だけ丘の方角を見た。

 霧の向こうに、稲妻が走る。


「……雷は、落ちる場所を選ぶ。

 だが、進路までは選ばせない」


 彼は踵を返した。


 雷返しの丘は、戦場にならない。

 少なくとも──今は。


 だが、その選択が、次に何を生むのか。

 黒鋼自身も、まだ知らない。


 雷鳴が、二度、三度と重なって轟いた。

 それは、すれ違った意志同士が、次の交差点へ向かう合図のようだった。


 戦は、まだ終わらない。

 むしろ──ここからが本番だ。

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