第十七話(裏)
――黒鋼は、丘を数えない
雨は、北嶺の斜面を静かに叩いていた。
霧が低く垂れ、視界は削り取られたように白い。
黒鋼は馬上で、地図を閉じた。
黒嶺尾根へ至る進路は、すでに頭の中に刻み込まれている。
何度もなぞった線だ。誤差はない。
「進軍は予定通り。夜明け前に前衛を丘陵帯へ」
淡々と命じる声に、ためらいはない。
周囲の将校たちは、その確信に引きずられるように頷いた。
「雷返しの丘付近は、どう見ますか」
副官が控えめに問う。
黒鋼は一瞬だけ視線を上げ、霧の向こうを見据えた。
「丘は丘だ。
足場が悪く、視界が乱れる。
それだけの場所だ」
言い切りだった。
彼にとって地形は、数値であり条件であり、突破可能性の集合体に過ぎない。
「敵が出るなら、迎え撃つ。
出なければ、通過する。
それ以上でも以下でもない」
副官は言葉を飲み込み、命令を書き留める。
黒鋼の戦争は、常にそうだった。
“意味”を付与しない。
“感情”を挟まない。
ただ、勝利に必要な最短距離だけを選ぶ。
◇
夜半、前衛からの報が入った。
「敵影、雷返しの丘に展開あり。
数は多くないが、布陣が不自然です」
黒鋼の眉が、ほんのわずかに動く。
「……布陣、か」
地図を開き、丘の位置を指でなぞる。
確かに、そこで待つ理由は薄い。
正面衝突には向かない。
撤退路も不安定。
戦力差を考えれば、愚策に近い。
──普通の将であれば。
「誰が指揮を?」
「桜花将本人との報です」
黒鋼は、静かに息を吐いた。
笑みとも溜息ともつかない、短い呼吸。
「……やはりな」
彼女は、丘を“数えない”。
数字ではなく、場の“歪み”を見る。
勝てる場所ではなく、勝ちを奪える瞬間を選ぶ。
「進軍を止める必要はない」
黒鋼は言った。
「ただし、前衛の密度を下げろ。
隊列を分割し、速度を変えろ。
雷返しに“一点集中”を与えるな」
「桜花将の狙いは、奇襲かと」
「奇襲は形だ。
本質は、“俺がそこで止まると信じている”ことだ」
黒鋼の視線が、霧の奥を射抜く。
「彼女は、俺が丘を戦場として選ぶと読んでいる。
ならば──俺は丘を“通過点”のままにする」
◇
深夜。
雨脚が一段強まった。
黒鋼は天幕を出て、丘陵帯の方向を見た。
遠雷が、雲の奥で低く鳴る。
「雷返し、か」
その名を、口の中で転がす。
かつてなら、彼は迷わなかった。
桜花が立つ場所へ、正面から踏み込み、
剣で、力で、意志で、決着をつけた。
だが今は違う。
「……桜花。
お前は俺に、“選ばせよう”としている」
黒鋼は、わずかに目を細める。
「ならば俺は、選ばない」
勝つために必要なら、会わない。
避けるために必要なら、避ける。
戦場は、衝突の場ではなく、結果を生む装置だ。
それが、彼の戦争。
◇
夜明け前、進軍開始。
黒鋼軍は、雷返しの丘を“包む”ように動いた。
正面は薄く。
側面は深く。
丘の視界の外で、流れを変える。
丘に布陣する敵へ、圧をかけすぎない。
引き寄せない。
ただ、選択肢を削る。
「丘に踏み込まず、北嶺へ抜ける」
命令が、静かに、しかし確実に伝播する。
黒鋼は馬上で、最後に一度だけ丘の方角を見た。
霧の向こうに、稲妻が走る。
「……雷は、落ちる場所を選ぶ。
だが、進路までは選ばせない」
彼は踵を返した。
雷返しの丘は、戦場にならない。
少なくとも──今は。
だが、その選択が、次に何を生むのか。
黒鋼自身も、まだ知らない。
雷鳴が、二度、三度と重なって轟いた。
それは、すれ違った意志同士が、次の交差点へ向かう合図のようだった。
戦は、まだ終わらない。
むしろ──ここからが本番だ。




