第十六話(裏)
――黒鋼、北嶺にて影を撃つ
北嶺の空は、重く垂れ込めていた。
厚い雲が稜線を覆い、その向こうで雷が震えている。
黒鋼は馬上からその天を見上げ、わずかに口角を上げた。
「……雷か。あいつらしい」
遠くで響いたその音には、聞き覚えに近い“気配”があった。
斬撃が生む金属の唸り。
怒りと覚悟が混じる空気の震え。
あるいは──雷そのものを引き寄せるような“在り方”。
桜花が動いた。
そう理解するには十分だった。
「黒鋼様、配置完了しました」
影のように静かな声が背後から落ちる。
振り向くことなく黒鋼は答えた。
「北嶺突破の主力は、予定通り西側斜面だ。
……影縫いはどうした?」
「風裂谷へ向かった小隊、沈黙。応答が途絶しています」
黒鋼の瞳が、わずかに細められた。
「沈黙、か。
谷を封鎖したか、殲滅されたか……どちらにせよ、“想定外”があったのだろう」
影縫いは、通常の兵では崩せない。
彼らが敗北する状況は限られている。
一つ、敵が大軍で踏み潰した場合。
一つ──桜花が出た場合。
「ふむ……彼女が谷に入ったと見て間違いないか」
「はい。現地の斥候が発した最後の狼煙が、谷の入口方向でした。
つまり、敵が小規模で接近した可能性が高いと」
黒鋼は喉の奥で笑った。
「小規模で風裂谷へ、か。……桜花、お前らしい判断だ」
大軍では気配だけで影縫いに察知される。
だが、小勢であれば谷に潜り込み、敵の暗部に切り込める。
桜花が選ぶのは、常に“最も正しいが、最も危険な道”。
「黒鋼様、どういたしますか?
救援を送りますか? それとも、影縫い部隊の増派を──」
「不要だ」
黒鋼は即答した。
「影縫いは任を果たした。
桜花が出た以上、もはや谷は戦略上の価値を失う」
「……失う、とは?」
「桜花が絡んだ戦場は、もはや“計算できない”。
予測不能な場所に兵力を投じる必要はない。
戦略とは、勝てる場所に力を集めることだ」
副官は息を呑んだ。
黒鋼の言葉は冷酷だったが、そこには揺るぎない合理があった。
「だが──」
黒鋼は軽く拳を握り、手袋越しに骨の軋む感触を楽しむように言った。
「桜花が動いたという事実は、勝利の兆しだ」
その瞳に宿った光は、戦略家としての冷徹さではなく、
戦士としての純粋な高揚だった。
「桜花は、俺を追ってくる。
ならば俺は“待つ”のではなく、“迎え撃つ”側に回る」
黒鋼は馬首を西へ向けた。
眼下には、深い谷と連なる尾根。その先に、敵の主力が布陣する領域が広がっている。
北嶺突破は、この戦の行方を決める鍵。
この地を押さえれば、国境線は一気に崩壊する。
「全軍に通達。突破の時は近い。
明朝、黒嶺の尾根から雪崩のように下る」
「承知しました!」
副官が去っていく背を見送り、黒鋼はひとり残った。
風が吹き、黒いマントが大きく揺れる。
雷鳴がまた轟く。
まるで呼応するように、黒鋼の血が静かに熱を帯びていく。
◇
そのころ、影縫い部隊の残存者が、風裂谷から辛くも脱出しようとしていた。
全身を裂かれ、肩で息をする者。
仲間の亡骸を引きずりながら進む者。
その顔には恐怖と困惑が入り混じっていた。
「なんだ……あの女は……!」
「あれは……将の器ではない……
“剣”そのもの……!」
「黒鋼様の言っていた“雷哭”とは……あれのことか……!」
彼らが語る桜花の姿は、黒鋼が知っているものと同じだった。
だが──
「……なるほど」
風裂谷から漂う血の匂いを遠くで感じながら、黒鋼は低く呟いた。
「桜花、お前はまだ……俺に届くつもりでいるのか」
風が黒鋼の髪を揺らし、雷光が山の稜線を照らした。
「いいだろう。
ならば俺は、お前の望む“戦場”を完璧に整えてやる。
逃げることも、逸れることもできぬ──
お前と俺が、選ばざるを得ない場をな」
黒鋼の口元に、戦士の笑みが浮かぶ。
「桜花。
俺たちはいつだって、物語の中心で刃を交えてきた。
今回も──そうなる」
天が鳴る。
地が震える。
北嶺突破戦は、いよいよ幕を開けようとしていた。
読んでくださって、ありがとうごさいます。
こちらは黒鋼連邦から見た“裏の戦場”。
蓮の揺れる正義や、黒鋼の影の動きまで追っていただけて嬉しい限りです。
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