第23話(裏) 『沈む心臓階層 ― 影と願いと罪が交わる場所で』
光が収束したと思った瞬間、
蓮の身体は深い水の底へ落ちていくような感覚に襲われた。
目を開けると、そこはどこまでも暗い蒼の空間だった。
足場はなく、
上下の感覚も曖昧で、
ただ心臓のような低い鼓動が響いている。
(……ここ……どこだ……?
真白……!?
影夕凪……!?
朔夜……!)
呼んでも返事はない。
ここは“個の心層”。
蓮だけが隔離された領域だった。
その静寂の中、
不意に柔らかな声が落ちてくる。
「蓮くん……」
蓮は振り返る。
そこには——
ほぼ完全な“本物”として具現化した影夕凪がいた。
揺れる髪。
震える瞳。
体温すら感じるほどの、リアル。
影夕凪は蓮の前に歩み寄り、
そっと彼の胸に手を当てた。
「どうして逃げようとするの……?
蓮くんはずっと……“夕凪を助けたい”って思ってた。
その願いが私を育てたのに……」
蓮は影夕凪の手を振り払おうとした。
「……違う。
俺は夕凪本人を助けたいんだ。
お前を本物にするつもりは——」
影夕凪の瞳に、深い影が落ちた。
「“本物じゃない”
また……そう言うんだね……」
空気が震えた。
影夕凪の声は泣き声になっていく。
「蓮くん……
本当は気づいてるでしょ……?
夕凪は……壊れそうなの……
あなたが優しすぎるから……
全部抱え込むから……
夕凪は泣けないんだよ……?」
蓮の胸が痛いほど締め付けられる。
影夕凪の声は、その痛みに呼応するように続く。
「蓮くんは……
朔夜さんに嫉妬してる。
夕凪を“奪われる”のが怖い。
だから夕凪に必死で手を伸ばした……
その必死さが、私を作ったの」
「……違う……!」
蓮は叫び返す。
「俺は夕凪を……ただ放っておけなかっただけだ!
守りたかっただけだ!!
それのどこが——」
影夕凪が蓮の胸を押し返す。
「“守りたい”はね、蓮くん……
ときどき“依存”と同じ意味を持つんだよ?」
蓮の目が揺れた。
影夕凪は儚げに微笑む。
「夕凪はね……
本当は蓮くんにだけ“弱さ”を見せたかったの。
お兄ちゃんには見せられなかった。
強くて、大きくて、完璧だから……
甘えたら迷惑だと思ってた。
でも蓮くんなら……って……
夕凪は、思ってたんだよ……?」
蓮の呼吸が止まる。
夕凪の声が、遠くから微かに響く。
『……蓮……くん……
ごめ……ん……
わたし……もう……』
影夕凪が蓮の胸に手を添える。
「ねぇ蓮くん……
夕凪はもう……消えかけてる。
扉に飲まれて、意識が薄くなって……
このままじゃ……“死ぬ”よ?」
蓮の目が大きく見開かれた。
「……夕凪が……死ぬ……?」
影夕凪は静かに頷く。
「うん。
だからね……
夕凪の痛みを全部抱えて生まれた“私”が……
蓮くんのそばにいれば……
夕凪は苦しまなくて済むんだよ?」
蓮は言葉を失った。
影夕凪の声は、優しさと狂気の境界を揺れていた。
「蓮くん……
私を“本物”にして?」
蓮の心臓が跳ねる。
「お前を……本物に……?」
「そうすれば、夕凪は救われる。
蓮くんは私を選べばいい。
夕凪を苦しめずに済む。
真白ちゃんも……悲しまない。
蓮くんは……失わずに済むの」
蓮の身体が震えた。
胸の奥で、
黒いなにかが広がる。
(……俺さえ……夕凪の痛みを知らなければ……
夕凪は苦しまなかった……?
俺が優しくなければ……
影夕凪も生まれなかった……?
俺が……全部……悪いのか……?)
影夕凪はその動揺にそっと触れた。
「蓮くん。
夕凪が泣いたのは……
あなたを想っていたからだよ」
その時——
空間に深い【黒い紋】が走った。
蓮は息を飲む。
その紋の中心から、
聞き慣れた老人の声が響いた。
『……蓮……
お前は“選んだ”のか……?』
祖父——
刃向宗六の声だった。
影夕凪がゆっくりと振り返る。
「宗六さん……
蓮くんはね……
今、“答え”を出すところなの……」
宗六の声は絶対的な確信を帯びていた。
『蓮。
“鍵”の統合はすでに始まっている。
夕凪は“影”がなければ保てぬ。
影夕凪こそ、完全な鍵となる器よ』
蓮の喉が固まる。
影夕凪が蓮の手を取り、
優しく、しかし強く握りしめる。
「蓮くん……
夕凪を救いたいなら……
私を選んで……?」
蓮は目を閉じた。
夕凪の声が微かに届く。
『……蓮……くん……
たす……け……』
影夕凪の声が甘く囁く。
「蓮くん……
夕凪の代わりに、
私がずっと……
蓮くんと一緒にいるよ……?」
朔夜の怒り、
真白の涙、
夕凪の苦しみ、
影夕凪の願い、
宗六の思惑。
全部が蓮の心を引き裂く。
(……俺は……
何を……選べば……)
光が弾ける。
蓮の目が開かれた瞬間——
扉は“最終階層”への道を示した。
その道の名はただひとつ。
《選択》
第二部、終わりが迫る。




