藤のある庭 1
私が彼とともにいたのは、ありあまるほどに存在する、単調さ、少しばかりの思考で容易に見通しのつく長さにおいては窒息さえ生み出しかねない私の生涯の中で、わずか数千分の一にも満たない日数でしかなかった。
それでいて彼は、だれひとりとして犯すことのできない禁足の位置というものは、たしかにだれの胸の中にも存在するのだということを私に気付かせ、そして私の中に空室となって眠っていたそれを探り出し、そこに入り込んだのだった。
それは、私の中ではとうに蜘蛛の巣が張り巡らされ、埃に薄汚れた、小さな片隅だった。
持ち主であるはずの私ですら慮ることの憚られる、辛うじて存在するだけだった小さな部屋。
そのさびついた扉を彼はいとも易々と開いてみせ、そして生涯唯一の個室として、幻影だけを忍ばせた。
とてもずるいことだと、のちに私は幾度も罵ることとなる。
年月とともに薄れ、褪せて、散っていくだけの幻。
だのになぜ、私はすがるのか。
なぜ、必死になって彼を思い起こそうとするのか。
3週間。
彼とはひと月にも満たない数日間しかともに過ごすことはなかったというのに。
説明のつかない不思議な異常さに、わがことながら惑わずにいられない。
さて。
そんな私ではあったが、しかし彼と特別親しかったというわけでもなかった。
親同士が友人であったとかいうわけでもなく、それまでになんらかの場で彼の姿を目端に入れていたというわけでもない。
私が彼を見たのはほかの者たちと同じく高校入学の日が初めてであり、その日を入れて数えての日数が3週間だったのだ。
そして同じクラス、続く席順だったというだけでは説明不足だろうか。
それでも、と言うのであれば、では、彼を述べればいずれの者であれ理解してもらえると思う。
彼は、名を玖珂 翠惟――といった。
家系図をたどればかつてその身に公家の血でも入っていたのかと思わせる、雅な高貴さを振り撒いている名なのだが、翠(私は、その呼びにくさから彼をそう呼ばせてもらっていた)自身、名にし負うと言うべきか、我々と同じ歳の男としてはとても端正な、それでいて洗練された品位をそこはかとなく身にまとっていた。
常に平静を崩さない面。容姿端麗にして眉目秀麗である。
が、そうして口にした途端その言葉の持つ要素すべてが色あせ、そしてそれはとうとう『翠にかなわないまでも』という言葉が上に付くようになってしまうほどだった。
そう、直接に翠を知る私たちがいなくなったあとも、この言葉は同校生徒の間で受け継がれてきている。
それほどに抜きんでて超越した美を持つ者だったのだ、翠という男は。
まるで、孤高たる胸の理想像を恋いわずらうばかりの女たちにより代々蓄積されてきた願望が結集し、受肉した、そしてその中でも生粋の純血を持つ者だと冷やかし混じりにだれかが言っていたのを覚えている。
今は遠い、はるか昔の言葉なのに。
そしてより鮮明に、その冷やかし文句前にしてもその怜悧な顔立ちをほんの少しもゆがませず、まばたきひとつしなかった、翠の総毛立つほどの美しさも。
実際、翠という男はどこか異国を思わせる雰囲気を持っていた。
決して相入れないものではないのだけれど、完全には触れ合わない。
それは絶対の確信だということを、私だけでなくほかの学生たち、教師すら、分かっているようだった。
翠は決して馴れ合わない。
小・中・高と続く学生生活の中で得た、親しい友人たちと過ごすことに慣れた、典型的なまでの――退屈とさえ表わすことのできる――日々の中で、翠が異質だったのだ。
翠だけが。
翠の加わった輪で、そしてそれがたとえどんなに小さな輪であったとしても、翠は自分1人をその異質さで包み込む。
どこか肌のけば立つそぐわなさを感じていたのは、本当に私だけだったのだろうか。
翠はみごとなまでにおおい隠し、隠蔽し、気付く者を許さない。
許さない。
そう、それはまるで拒絶のようにも感じ取れた。
それでいて気付かないことを愚鈍であると言うように、そのだれもに冷たい、拒絶にも似た侮蔑をちらつかせていた。
なぜなのかは今でもはっきりとつかめていない。
すべてがはるかかなたへと過ぎ去った今において、いまだ自らの思いすら把握できず、当惑気な私に、はたして翠のことまで理解ができようか?
ただ。
翠とは、そういう男だったのだ。
こんなこともあった。
翠と知り合った翌週の、月曜の朝。私とともに登校して来た翠の前を塞ぐようにして、突然1人の少女が現われた。
その着慣された制服といい、華やかなまでの服飾違反はどう見ても上級生で、表皮の造形の美しさよりも、その下に隠したふくよかな肉体で相手を魅惑しようとするタイプの女性だった。
少女(と、表わしていいものか……)は、堂々と翠に交際を申し込んだ。
「あなたにふさわしいのは、私を置いてほかにいないでしょう。あなたは私の横にいるべきなのよ」
翠を前にしてひるみもせず、自信満々、命令口調で言い切った。
ここは高校の敷地とは言え、まだ校門をくぐってすぐの場だ。
だから私は、翠の影に隠れるような位置にいながらも、この少女の発した声が道の前を往来する人々の足すら止めさせるほどに高い、はっきりとした言葉だったことは、ひどいやり方だと思っていた。
こうすれば男である翠は従わざるを得ない。
女に恥をかかせるような男ではないでしょう、と。そう確信しているような、計算づくの申し込みだ。
翠もまた私と同じ思いであったのか、その幽雅な面には不似合いなしわを少しばかり眉間に寄せ――けれどそれは決してその身を貶しめるほどのものでもなかったゆえに――私は、翠はこの少女の申し込みを、たとえこの場を収めるためとはいえ、受けるものだとばかり思って悔しさに少しばかり歯がみをしていた。
だが、よくよく見れば、少女の唇はかすかに震えていた。
両脇でにぎりしめられたこぶしは震え、ポーズもどこかぎこちなく、いまだ直立不動で身じろぎひとつしない。
虚勢を張っている。
そうと気付くと、途端に、それまで見えていたものが全く違うものに映った。
確信を持つ行為とはいえ、大勢の者たちの目前での行為に、まだ十代半ばの少女が緊張しないはずがない。
ましてや相手は翠。
おそらくは少女がこれまで出会ったことのない、並外れた美しさ、艶麗なまでの洗練された美貌を持つ、翠なのだ。
そうならないほうがおかしい。
そう思ったなら、緊張を気どられまいと懸命に強がる少女はとてもいじらしく、可愛いらしさをも感じられた。
この場限りでもいいではないか。彼女の求めに応じたあとで、2人だけになったとき、彼女の大胆不敵さと胆力を褒め、勇気を称賛し、そしてやんわりと釘を刺したのちにあらためて断りの返答をすればいい。私はそう思い、翠に耳打ちをしようとした。
翠は、けれど私ではない。
私は翠ではないし、翠もまた、私ではないのだ。




