最終話
僕は目覚めた。
ぼんやりとして、平衡感覚をすぐに掴むことができない。
ああ、そうだ。
またここに来てしまったのか。
僕は六十年前に寝っ転がっていたベッドに腰を下ろし、自分の頬を小さく叩く。
そうそう、早く美紗子に手紙を書かなくっちゃな。
文机の上からサインペンを取り……、そのまま、またペン立てに戻す。
終わりにしたんだった。
美紗子への手紙は、お礼の言葉でおしまい。
いつものように郵便局の顔なじみの職員に小包を渡し、「お、また彼女か」「いいから早く受けつけてくれって」「わかったわかった。わかったから、配達いってこいよ」などというお決まりの会話をしなくてもいい。
美紗子の未来をけして変えないように気をつけ、過ぎ去った悲しい出来事についてのみ彼女を励ます必要もなくなってしまった。
だったら、僕の意識は、ここらでお役御免というところだろう。
たった一ヶ月前のことだった。
僕は『特発性肺線維症の急性増悪』だと診断された。
ちょっと息苦しい、と思っていただけなのに、いつの間にか意識が混濁するようになった。今では一日のうち、99パーセントくらいは寝ている。たまに起きると、カーテンが木漏れ日の中ゆらゆらと揺れていて、すぐに視界は黒く沈む。
だけど神様はチャンスをくれた。
僕の意識だけを、青春を過ごした頃に戻してくれたのだ。
意識が戻るのは朝の二時間だけ。僕はその二時間を、たった一つのことに費やした。
五年前にこの世を去った、妻の美紗子への手紙を書くこと。
そしてその手紙を同僚に渡し、自らの配達物の中に入れること。
だから僕はせっかくの機会を、昔の僕に譲った。美紗子の顔をひと目見たいという気持ちをぐっとこらえて、若い二人に運命を渡そうと決意したのだ。
後の配送と、美紗子との会話は、昔の僕がうまくやってくれる。
そう信じて、僕はペンを走らせた。
彼女の良い思い出も、辛い思い出も、きっと彼女の糧になると信じながら。
美紗子が僕のお勧めどおり、日記をつけるようになってくれて本当によかった。彼女が遺品として残した日記を読んで、僕はかつての彼女に訪れた事件と悩みを知ることができたのだから。
でも。
見たかったな。
もう一度でいいから、あのきれいな美紗子を見てみたかったな。
指でつつけば弾く肌。臈長けた、アーモンド型の瞳。そして、芯の強さが感じられる、利発そうな唇。
そうだ、美紗子はそういう女だった。
喜怒哀楽が激しいけれど、世の中を愛そうと努め続けた。
僕がカレーラーメンをつくりたいと言ったら、本気で協力してくれた。
パソコンを二台並べて、二人で詩をつくり合った。
『ウォーリーをさがせ』で、本気の勝負をした。
久石譲の音楽を聴きながら、一緒に梅酒を楽しんだ。
見たかったな……。
僕にはもったいない、最高の彼女を。
だけどもしも会えたら、きっとこう言われるだろう。
「なんでニヤニヤしてるの? あ、ゲームセンターでいいの取れたんだ?」
車座のカーネリアンを巻いた腕を、大きく振って。
桐原美紗子は、そんな、素晴らしい女だった。
了
ED theme:春泥棒(by ヨルシカ)
URL:https://www.youtube.com/watch?v=Sw1Flgub9s8




