9. 情勢 永禄12年10月(1569年)
「クー、居るか?」
「まあ、殿、このようなところへ。お呼びだて頂けましたなら私めが姫様をお連れいたしましたのに」
「いやいや、気にしないでくれ。で、クーは?」
「はい、ただいま侍女が厠へお連れいたしました。申し訳ありませんがしばしお待ちくださいませ」
「ああ、解った。待たせてもらおう」
ちょうど部屋に戻るところだったので話は大方聞こえた。どうも父上はこの時代としては型破りの自由人のようだな。
「ちちうえーー」
幼児らしい声を出して部屋に入る。
「姫様はたいそうご聡明で、まだ2つだというのにもうおむつが取れました。ご立派でございます」
おむつは恥ずかしい。紙おむつも不快だろうが、この時代は布おむつだ。ほぼ意味がない。毎回侍女が洗濯と掃除をしなければならない。こちらは幼児だとはいえ、申し訳なくて仕方がない。
だから最初に発した言葉は「ちっち」にした。小便という意味の幼児語だな。乳母にしてみれば驚きだろうな。
ところが最初は通じなかった。お乳のことかと思ったようだ。そりゃそうだよな。幼児語は家庭によって全然違うからな。
「そうか。クー、偉いな。よし、散歩に行こう」
「あーい」
「お待ちくださいませ、殿。外は寒うございます。姫様に羽織を」
乳母が防寒着を着せてくれる。よく面倒を見てくれる人だ。
だがな、部屋も廊下も外と気温は同じだよ。そこのところは解っているのだろうか?
「父上、伝統的日本家屋は夏のことしか考えられていません。冬が寒すぎます。昨年は凍え死ぬかと思いました。なぜ防寒、暖房のことを考えないのですか?」
2人きりになったので早速文句を言わせてもらう。何しろ命がかかっているからな。
「え!? 寒い?・・・ 冬は寒くて当たり前でしょ。そんなこと言っていたら救助も戦闘もできないよ」
「父上! 私は自衛官ではありません! 一般市民で、しかも幼児です。寒いと死ぬかも知れません!」
「でも父さんが子供の頃住んでいた家は今の屋敷とさほど変わらないだろ? 断熱材なんて使ってないんじゃないの?」
「確かにそうだが、床は畳だし、布団には綿が入っていた。こたつやストーブもあったぞ。火鉢なんて何の役にも立たないし、幼児は危ないからあたらせてもらえない。しかも寒い夜に布きれ数枚で板敷きの上に寝ろとは・・・」
「そうか、ごめん、ごめん。冬になる前に何とかするよ」
「よろしく頼むぞ」
これでこの冬は凍えずに済むかも知れない。
「ところで父上は寒くないのですか? オンドルとは申しませんが、ストーブぐらい導入しても良いのでは?」
「クーは屋敷の外に行ったことがあるか?」
「? えーっと、お宮参りで一度・・・だけですかね」
「外の景色は見たかい?」
「視力が不十分でよく分かりませんでした」
「このあたり、ほとんど木が生えてないんだよ。荒れ野と湿地帯ばかりだ」
「は?」
「切り倒されて資材とか燃料にされちゃってるんだ」
「なんと!」
「この状態でオンドルとかストーブ導入しても燃料が足りないんだよ。燃料や資材を求めて山の奥まで木を切りに行ってしまう。そうすると『この山はうちの村のものだ』とか言って争いも起きちゃう。早く化石燃料とプラスチックを導入しないと地球が温暖化しちゃうんだ。水害が多いのも山に保水力がないことが原因の一つだ」
!!! そんな事態だったとは。これは解決すべき重要問題だ。
簡単には解決しないな。後で考えることにして話を変えよう。
「ところで父上、お忙しいのではありませんか?」
「うん、手紙をたくさん書かなければならないんだけど、今日は右筆に頼んだよ。直筆の方が良いんだけどね。父さんに相談したいことがあって、そっちが優先だね」
「相談? どのような?」
「政治だね。緩み掛けている連合の結束をどうやって固めるか、今後どう運営していくべきか。そんなところ。ラノベで仕入れた知識だけじゃ上手くいかないんだよ」
「まあそうかもしれないな。だが私はただのエンジニアだ。政治なんてやったことがないからどこまで力になれるか解らんぞ」
「うん、解ってる。話を聞いてもらえるだけでもありがたいよ」
「そうか、聞くだけで良いのならば話を聞こう・・・」
聞くだけでは終わらないとは解っているが、こう言うしかない。
「その前に、現在の社会情勢を教えてもらえないか?」
「ああ、そうだね。情勢ね・・・ 状況説明。我が方は北は日本海から南は相模湾まで、越後中越地区、上野、下野、武蔵、相模の大部分、下総、さらに常陸の一部を領有している。西方は武田と不戦条約を結び、日本海から山中湖付近まで国境を接している。防衛対象国として酒匂川より南西に北条、東方の常陸に佐竹、結城、小田、鹿島が、南東の上総安房には同族の里見がある。また北方には奥州と越後下越地区の揚北衆がある。奥州とは敵対関係とは言えないが、予断を許さない緊張関係にある」
さっきまで甘えん坊のような口ぶりだったのに、いきなり自衛隊モードに突入だ。防衛大に入ってから会話する機会がグッと減ってしまったが、こんな風に成長していたんだな。
「越後まで領地が広がっているのか? 謙信は、上杉謙信はどうした?」
「死んだ」
「え!? 謙信が死んだ? 何で?」
「弘治2年の春に長尾景虎が出奔した事件を知らないか?」
「ああ、年は覚えてないが、出奔したことは知っている。諸説あるが、家臣や国衆が勝手なことをするから嫌になって高野山に向かったとか。でもすぐに家臣に説得されて帰ったって・・・やらせっていう説もあったな」
「そのタイミングで俺が殺した」
「!!!」
「あれは危険な人物だ。奴が出奔することはラノベで知っていたからな。警備が薄くなったところにレンジャ部隊を送り込んで暗殺した」
「・・・」
「さすがに軍神だったな。当方も想定以上の損害を出してしまった。死体は極秘裏に処分したから越後勢は奴が死んだことを知らない。今もどこかで生きているんじゃないかと探している勢力があるようだ。お陰で越後は大混乱。こちらに内通する者が増えて、その結果、中越地区を領有することになった」
心優しい翔が、なんと非情な! そう言えば、昨日脇差しに・・・ おぉ怖!
「暗殺はこの時代でも良くないことだ。だが、奴を生かしておくと多くの兵や民が死んでしまうんだ。失う命は少ない方が良い。そのためには悪魔にでも鬼にでもなる」
「そうか。覚悟があっての行動ならば支持しよう・・・立派になったな」
「ふっ、生き残るために必死だっただけだ。国民を守る自衛官が国民の一人である景虎を暗殺するなんてね・・・そうそう、これは連合内でも秘密だからね。俺の他には実行部隊しか知らないことだからそのつもりで」
謙信がいない戦国時代・・・ 考えたことも無かった。随分と歴史を変えてしまったのだな。
「となると、川中島の合戦は・・・」
「起きていない。武田は順調に信濃を攻めて越後の上越地区まで領有している。念願の海を得たわけだ。我が方とは長大な国境線を有しているが、こちらに侵入する気配はない。武田の狙いは西と南だ」
「すると山本勘助は?」
「健在だ。武田信繁も生きている。武田家は盤石だよ」
驚きの連続だった。
「そうそう、そのレンジャー部隊といい、父上が今着ている迷彩服といい、髪型といい、すべて父上が?」
「ああ、俺が作った。最初のうちは評判が悪かったな。卑怯だとか、臆病者とか、散々な言われようだった。部下も大分泣いたな。だが実績を積んで、戦果を上げて、損害が少ないとなると、若い連中から受け入れてもらえるようになった。今でも古老には陰口を叩かれているがね。そうそうレンジャー部隊じゃ無くて、練者部隊だ。伸ばさないから気をつけて」
「練者? 彼らは練者と返事していたのか?」
「そうだ。練者部隊の返事はすべて練者だ」
ちょっと言葉を失った。若干マニアックだな。生粋の自衛官というか、自衛隊オタクなのか?
気を取り直して少し話題を変えよう。
「ほー、かなりの軍制改革をしたんだな。すると、兵農分離はしたのか?」
「いや、それはできていない。練者部隊は家臣団だが、一般兵は民から選抜した予備役でその都度編成している。予備役は給金を払って農閑期に招集して、戦闘訓練とか災害救助訓練を行っている。常備兵を持つには経済力が足りないんだ。そこは父さんに協力してもらいたい」
「なるほど。今後の課題としよう」
なかなか難しいな。この時代の金の流れとか、いろいろ調べて検討しなければならない。
それにしてもこの時代に災害救助訓練をしているのか。さっきは暗殺なんて言っていたが、やはり信念は曲げていないのだな。なんだか目頭が熱いぞ。
「それと、父さんはエンジニアだよね。欲しいものがあるんだけど」
「私に作れるものなら何でも作るぞ」
「えっと、まず自動小銃、それから榴弾砲、装甲車とかヘリコプターも欲しいけど、すぐには無理だね。輸送トラックでいいや。頼むよ」
「全部無理だ! 私はデジタル電話が専門だぞ。機械加工はほとんどできん!」
「えー・・・ あ! じゃ電話で良いよ。無線機がいいな」
「解った。それは請け負おう。20年ほど待ってくれ」
「え!? 20年! 人間50年の時代だよ。そんなに待てるわけないよ。1年ぐらいでなんとかならないの?」
「あのな、発電機はおろか電線も磁石もないのだぞ。銅線は作れてもビニールとかゴムすらないからな。絶縁材料を一から検討しなければ電線は作れん。それに1セットだけ開発製造しても意味がない。運用、維持管理、修理ができる技術者も育成しなければならん」
「えー、だってラノベでは未来の知識を使ってチャッチャッと作ってるじゃん」
「ラノベと現実は違うのだ!」
「え!? ここはラノベの世界じゃなかったのかい? 俺はてっきりラノベの世界に転生したんだと思ってたよ」
「!!!」
ラノベの世界? それは考えたことがなかった。
この世界は実在するのか? 世界が実在することを立証することは可能なのか? すべては己の認識の中、夢のようなものかもしれない。それは前世も同じだ。
物理学か、哲学か、難しい問題を投げかけられてしまった。まさに『我思う』だな。
それにしても昨日今日と話をしすぎた。顎と喉が痛い。こっちに生まれてからこんなにたくさん話したのは初めてだからな・・・痛みを感じるということは実在の世界なのか? それとも痛みも幻想なのか? 幻想ならば私の実態はどこにあるのか?
頭を使い過ぎた。おなかが減ったな。
ラノベ読者、作者の皆さん。ラノベを侮辱するような表現をお許しください。ここは笑うところです。
主人公とその父の会話ですが、前世と今世で立場が逆なので言葉遣いが混同しています。どっちの発言か、どういう心情か、考えることもお楽しみください。
化石燃料を導入しないと地球が温暖化する、というのは父上の個人的意見です。