7. 告白 永禄12年10月(1569年)
また秋が来た。満年齢で1歳9ヶ月ほどの私は結構しっかりした足取りで歩いている。侍女の目を盗んで毎日筋トレしているからな。同じ年頃の子供よりは体ができているはずだ。
自分が転生者であることを父上に告白しようと決めてから早1ヶ月。なかなかチャンスがやって来ない。
だいたい、父上が家にいないのだ。連合内のもめ事や領民の指導のために勢力圏内を飛び回っているらしい。まあ仕方が無いな。そういうお立場だ。
と思っていたら、突然父上が帰ってきた。姉兄と揃ってお迎えをした。2、3日は家にいるらしい。ここがチャンスだ。
「ちちうえにあげる」
幼児らしさを出して、庭で摘み取った花を掲げて乳母に懇願する。
「まあ、姫様はお優しいですね。ではお父上様にお届けに参りましょう。ただし、お父上様はとてもお忙しいのでお目にかかれないかも知れません。そのときは我慢するのですよ」
「あーい」
この歳で会話が成り立っても良いのだろうか? と思ったが、決心は揺るがないのであった。
乳母に手を引かれて父上の部屋の前に来た。乳母が迷彩服を着た父上の小姓に取り次ぎを頼む。
しばらくすると小姓が戻ってきた。会ってくれるという。やはり父上は優しい人だ。
「ちちうえどうぞ」
部屋に入ると礼儀作法もなしに父上に近づいて花を手渡す。この方が子供らしいだろ。
父上も迷彩服を着ていた。この人はこれがデフォルトなのだな。
「おお、クー。ありがとう。ささ、こっちにおいで」
父上は受け取った花を小姓に渡すと、私を抱っこして頬ずりしてきた。あまり気持ちの良いものではないが、ここは我慢だ。
あぐらをかいている父上の左腿の上に座らされた。
「あのね、ちちうえおしえて」
「何をかな?」
「ちちうえはラノベよんだことあるの?」
一瞬で父上の表情が固まった。私の目を見たままゆっくりと右腕が動き、腹をまさぐって脇差しに延びた。
だが、脇差しを抜くことはなかった。あらかじめ回しておいた私の小さな手に触れたからだ。幼児の手など簡単に振り払えるだろうが、父上は私の手に触れたままジッとしていた。
「私は父上と同じようです。決して父上のお邪魔はいたしません。ただ、同じ境遇の者としてお話がしたいのです」
乳母と小姓に聞こえないように、父上の耳元で小さく、しっかりとした大人の言葉で伝えた。
しばらく固まっていた父は突然笑い出した。
「よしよし。一緒に庭を散歩しよう」
父上は私を抱きかかえると縁側に出た。すかさず小姓が履き物を揃える。
父上が外に出るとすぐに小姓と乳母が付いてこようとする。
「よいよい。用があれば呼ぶからそこで控えていなさい」
そう言うと私を抱いて庭に歩み出した。
「ここまで来れば誰にも聞かれないだろう。腹を割って話をしよう」
「はい、父上」
「私が転生者だと気がついたのか?」
「はい。お爺さまにお聞きました。2歳で椎茸栽培や正条植えの指導をされたとか。それは私の前世でラノベという類いの読み物によく出てくる定番の手法です」
「そうか。お前は同じ世界から来たのか」
「いえ、それは解りません。平行世界をご存じでしょうか? この世界は私の前世の歴史とは少し違う様です。よく似た別の世界かも知れません」
「そういうものか。私は物理学は知らない」
「私の知識はSFの類いです。物理学は存じませんが、そういうもののようです。先ほども申しましたが、私は父上のお邪魔は決して致しません。可能であれば前世の知識と経験を生かして父上のお役に立ちたいと存じます。ただ、その前に価値観が同じかどうか確認したいのです」
「価値観か」
「はい。似ているとは言っても異なる世界かも知れません。異なる世界では価値観にも違いがあるかも知れません。父上の異にそぐわないことをしないために、失礼とは思いますが確認させてください」
「うむ。そうかもしれないな。よし、確認しよう」
「では、私の前世についてお話しいたしましょう」
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私は1945年、太平洋戦争敗戦目前の昭和20年4月に岩手県の県南の中規模農家に次男として産まれました。家には戦争による直接の被害は無かったようですが、兵役で亡くなった親類縁者は何人もいたそうです。
幼少の頃、『マッカーサーに土地を取り上げられて小作農に分け与えられてしまった』と父はいつもぼやいていましたが、それでも一家が暮らすには十分な農地が残りました。実家は兄が継ぎ、私は長じて東京の大学に進学させてもらうことができました。暮らしは楽ではなかったようですが、将来、農地はすべて兄に譲るという条件で行かせてもらいました。
選んだのは工学部です。せっかく大学に入ったのに、間もなく学生運動が激しくなりました。授業は休講続きで自習ばかりでしたが、工場でアルバイトすることで実践的な経験を積むことができました。なんとか卒業して大手メーカーに就職することもできました。
私に与えられた仕事は電話のデジタル化でした。アナログ電話をISDNというデジタル電話に置き換えるための技術開発です。当時はまだ規格化されていませんでしたが、電電公社からの要請でライバル企業と垣根を越えて協力して先を見越した基礎技術の研究開発を行ったのです。
新しい分野の研究は難しかったし、忙しかったですが楽しかったですね。あの頃、高度成長期と言われた時代はまだ貧しかったですが、未来に対する希望があった。私の仕事も既存インフラの未来化です。夢と希望で溢れていました。
1975年、昭和50年ですね。30歳の時に結婚しました。職場結婚です。翌年娘を授かりました。名前は真理の「まり」です。
結婚の少し前にデジタル電話の国際規格ができて、様々な機材の試作が行われました。あの頃が仕事のピークでしたね。
そして仕事が一息ついた1985年に40歳で息子を授かりました。息子には飛翔の翔の字をあてて「かける」と名付けました。ピークを過ぎたとはいえ、管理職にもなって仕事が忙しく、あまり家庭のことを顧みることはできませんでしたが、自分なりに子供達と対話したつもりです。
そんな中、1995年に阪神淡路大震災が発生しました。私は電話網の復旧のため毎日泊まり込みで仕事をしていました。妻に聞いたところによると、当時まだ10歳だった翔は倒壊した高速道路や広範囲の大火災の映像に強いショックを受けていたようです。私は忙しさにかまけて、そんな息子に声を掛けてやることもできませんでした。
やがて娘の真理は結婚して家を出ました。息子の翔は高校3年になると防衛大学に行くと言い出しました。阪神淡路大震災の後も各地の災害に出動する自衛隊の姿を報道で見て決心したようです。私の世代には自衛隊アレルギーの人が多かったですが、私は賛成しました。人々の役に立ちたいという息子の決心が嬉しかったのです。
息子が防衛大に在学中に、私は定年退職しました。苦労をかけてしまった妻とゆっくり過ごそうと思っていましたが、残念なことに病で先立たれてしまいました。それからは一人暮らしです。
間もなく息子は自衛隊に入隊しました。年に何度か会いましたが、会うたびに体が大きく、心が強くなっていて嬉しかったですね。災害派遣にも何度か行ったようでした。
ところが2020年。悪い病気が流行って息子は・・・翔は死んでしまいました。感染するからと、見舞いもさせてもらうことができず、いきなり骨壺を渡されました。悔しかったです。
それから10年以上生きました。流行病が治まった頃には心も落ち着きました。悠々自適、余生を楽しみました。娘と孫に時々会っていましたから寂しくは無かったです。
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「私の人生はこのような感じでしたね。ああそうだ。その前に歴史がどうなったかを説明すべきでしたね。えーと戦国時代は信長、ひで・・・」
話を続けようと思ったのだが、突然顔に水滴が落ちてきた。雨か?
見上げると父上が泣いている。
「どうされました? 父上」
「父さん、父さんなんだね・・・ 俺だよ。翔だよ」
かける?・・・ なに!? 翔だと!