43. なぜ 元亀4年4月(1573年)
府中の連合本部で出陣式が行われた。奥羽遠征の開始だ。
武蔵で訓練をしていた職業軍人を引き連れて越後へ向かい、現地で招集した農民予備兵と合流する。
まずは越後北部、下越地方の揚北衆と佐渡に侵攻する。
表向きの名目は揚北衆が度々中越地方で略奪などを行っているためだ。ついでに寺泊で養成していた水軍に佐渡を攻略させる。本間氏を倒したら佐渡に出羽を攻略するため後方支援の基地を建設するのだ。
裏の目的が金と石油であることは父上と私だけの秘密だ。
兵農分離は進んでいない。食料生産の拡大には時間がかかる。兵にできる余剰人員が生まれないのだ。
賃金を支払う常備兵、職業軍人を作ったが、まだまだ人数は少ない。当面は農民兵にも頑張ってもらう必要があるし、農繁期の作戦行動は兵力の制限がかかる。
だが、農民兵は農閑期に招集して訓練を行っている。そして、父上の軍制改革で指揮官の考え方が近代化されている。乱暴や略奪はしないーーと思うーーし、統制が取れて勝手な行動はしないはずだ。
信長はなぜあんなに上手く兵農分離できたんだろうか? やっぱり、尾張・美濃の生産力ってすごいんだろうな。
武蔵は広いけど水がないからな。田無なんて地名があるくらいだから、思ったより食料生産が良くない。
前世では米所として有名な新潟県も、この世界ではまだただの湿地帯だ。土地の改良にも人手が居る。歯車がかみ合うまでにはまだ時間がかかりそうだ。
寺泊港を拠点にしている越後水軍は父上が監修した西洋風の帆船で訓練を積んでいる。ここに三浦水軍から人が派遣されて支援している。
安房の里見水軍は、いずれは太平洋側から奥州に侵攻するが、しばらくは対北条の備えとして残している。
父上とはまたしばらくお別れだ。家族も笑顔で見送っているが、どことなく寂しそうだ。
それにしても群衆は手に手に日の丸の小旗を持ってバンザイを叫んでる。まるで映画やドラマで見る太平洋戦争の出征のようじゃないか!
行進している兵士の戦闘服がカーキ色じゃなくて緑系の迷彩服ってことと、刀を差して槍やボーガンを装備していることが違うが・・・
誰がこんなスタイルにした? 父上じゃないよな。自然発生? これは改めた方が良いな。
学校では第3期が始まった。
今回の入学生は318名だ。留年3名と合わせて1年生は321名。大所帯だ。農民や商人の子弟も増えてきた。
教員も増えたので、私は担当授業を減らした。研究開発に力を入れようと考えている。
この3ヶ月で研究の方向付けはできた。そこで、一息ついて、今まで他の教員に丸投げしていた修身、作法、歴史などの伝統授業と体育を見学してみた。
ものすごい違和感を感じた。
「手と足が揃っておるな」
「殿と同じようなことを仰せになりますな」
安中宮内は私の疑問に答えずに妙な感想を返す。
目の前で学生が隊列を組んで行進している。体育の授業なのだが、教えているのが防衛方からの出向教員なので軍隊式になる。
ところが、右手と右足、左手と左足が同時に動いている。前世の軍隊の行進とは明らかに違う。
「右足を前に出すときは左手を前に出すものだろう?」
「不思議なことを申されますな。それでは体が不安定になります。そもそも歩くときに手は使いません。手を腿に添えているので足の動きにつられるように少し動くだけです」
「そうなのか」
「校長ももう(数え年で)6歳です。一緒にやってみては如何ですか?」
うーん。そうだよね。体力はまだまだ不十分だが、体はそれなりに動くからな。ちょっとやってみよう。
校庭の隅っこで宮内からマンツーマンの指導を受ける。
「まずは立ってみて下さい。手は横ではなくもう少し前に。そうです」
気をつけの姿勢をとったら手が違うという。腿の少し前側に手を置くように直された。
「如何ですか? 肩に違和感がないでしょう?」
手を腿の横に置いたり、腿の前側においたりして確認する。たしかに真横より少し前に手を置いた方が肩にストレスがない。
そうか! 骨格の違いだ!
明治に西洋式が採用されたが、それはヨーロッパ人の骨格に合わせた立ち方、歩き方だったのだ。それまでの日本式は日本人の骨格に合わせたものだったのだ。
ならば宮内達の方法で指導する方が自然だ。西洋式を何十年も続けると体の不調の原因になるかもしれない。
! 令和のおばさんやおじさん達が何かというと体の不調を訴えるのは、こういうことの積み重ねのせいかも知れん。私は筋力で抑え込んだが。
「では歩いてみましょう。一歩前へ・・・停まって!」
一歩踏み出したところで止められた。
「校長、今の校長の姿勢はこうです」
宮内が見せてくれる。足を前後に開き、体が真ん中にある。前世で日常的によく見る姿勢だ。何が問題?
「足を前に出しすぎです。これでは体がふらつきます。踏み出すときはこうです」
ほとんど前に出ていない。というか、足と一緒に体も前に出しているのか。停まったところを見ると、逆に後ろに足を出しているような姿勢だ・・・
しかも足はあまり上げない。すり足か。
「父上もこの歩き方を?」
「殿は我らに妙な歩き方をさせようとしておられました。そう、今の校長の歩き方のようでしたな。
ですが、一同で反対しまして、剣術などで使う歩き方でやらせて頂いています。
今では殿も我らと同じように歩いておられます」
全然見ていなかった。そうなのか。今度父上に聞いてみよう。
学生が行進しているところをよく観察すると、頭がほとんど上下動していない。ほぼ水平に移動している。なるほど、バランスが良いのだな。
そう言えば、前世にものの本で読んだことがある。
明治にヨーロッパ人の指導者がたくさん入ってきたが、彼らは日本人の歩き方が可笑しいと笑ったとか。
前世では明治維新と太平洋戦争敗戦で日本は無条件に欧米式を取り入れたり押しつけられたりしてしまった。砲艦外交で脅されたり、敗戦で自信を失っていたということもあるだろう。善し悪しの評価もせずに切り替えてしまった。
だが、和式の方が我ら日本人には利点が多いようだ。今世ではこういった和式の良いところを残せるように頑張ろう。
4月下旬。急報が入った。
『4月12日 武田信玄死す』
ついに逝ったか。南無阿弥陀仏・・・ こりゃ一向宗と同じか。縁起が悪いな。
4月上旬に武田が軍を引いているという一報が入っていた。前世と同じく撤退途中で病死したようだな。
ひょっとすると陣中で既に死亡していて、隠しきれずに撤退途中で発表したのかも知れん。
2月には足利義昭が信長に対して挙兵していたが、あれは武田を期待してのことだったのだろうな。
そして何だかよくわからんが、4月上旬に信長が義昭対策として都の上京を焼き払ったとか。この辺りの細かいことは前世で調べていないからちょっと驚いたよ。
ま、そろそろ義昭追放、室町幕府滅亡ってことだろう。信長の時代だ。
筆者が考えている和式の歩き方は弓道の「送り足」です。剣道の送り足は間合いを詰めるときに使うようですが、弓道では入退場など、道場内を歩くときに使います。本文ではこのイメージで行進を描写しています。
剣道家の皆さん、間違っていたらごめんなさい。
弓道にもいろいろ流派があるので違うというご意見もあるかと思います。気になる方はお調べください。
上京には義昭を支援する者が多く住んでいたために信長が掃討したようです。




