23. 花と酒 元亀2年3月(1571年)
春が来た。学校でも一之宮でも桜が七分ぐらい咲いた。
「明日、天気が良ければ教職員、学生全員で花見に行く。弁当を用意してくれ」
乳母の梅を通して寮母に依頼しておいた。学生、教員、用務員、寮母など総勢150人だ。中に一人だけ幼児がいる。置き去りにするのもかわいそうなので、私の乳姉妹の辰も一緒だ。
花見だが、酒は禁止だ。学校行事だからな。
場所は前世で都立桜ヶ丘公園になっている山だ。学校からは目と鼻の先だ。
私はよく知らないが、多摩市がアピールしているところによると、このあたりの山は多摩の横山といい、万葉集に出てくるところだそうだ。明治天皇が興味を持って花見に来たのだそうだ。1度きりというわけではなく、数回来ているらしい。
それを利用して--印象悪いな--そのことにちなんで京王は関戸駅を聖蹟桜ヶ丘駅に改名した。聖跡とは天皇にゆかりがあるという意味だ。好感度爆上げだな。
この世界では府中を東京にしようと思っているから、府中-八王子間の鉄道を引けば京王線になる。
そして、この世界でも八王子という地名がある。北条が連合に押されて撤退していくときに高尾山の近くに城が築かれて、八王子権現が勧進されて八王子城となった。前世でいうと元八王子という場所だ。
武田信玄の娘で織田信忠の婚約者だった松姫が北条を頼って亡命し、信松尼となった尼寺が近くにある。もちろん今世のこの時点では松姫は甲府にいるはずだがな。
しかし、今世でそこから八王子の町に発展するかどうかは、今の時点では分からん。だから京王線もできるかどうか、まだ未知だ。
そして、皇室については全くの未検討。遷都するかどうかも考えていないから、関戸が聖蹟桜ヶ丘になるかどうか・・・ 今日の行事にちなんで、聖跡なしのただの桜ヶ丘ならあり得るな。
うーん、花を眺めながら思考が過去や未来に飛んで行ってしまった。
ちょうど入学から2ヶ月ほど。学生も教員も慣れてきたが、どうも学問に馴染めない感じの学生もいる。そこでだ。
「では全員に絵を描いてもらう」
「「「絵?」」」
「桜の絵を描け」
あらかじめ各自に持参させておいた紙と筆、墨を出させる。
「これまでの絵師は心の目で見た情景を絵にしておった。それはそれで絵を楽しむ分には良いのだがな、学問を行う者としては見たものを見たままに正確に描いてもらいたい」
「正確にとはどういうことでしょう?」
「うん。本物と見まがうような絵じゃ。例えばな、描いた絵にこの花を合わせると寸分違わず重なり合うほどの絵じゃ。今日は墨だけなのでな、色は気にせずに輪郭だけ、形と大小関係をしっかり模写せよ。花びらの枚数が違ったり、切れ目が描かれていないもの、傾き加減が違うものはダメだぞ」
芸術は別の機会に学ばせるとして、観察力と写実という考え方を身につけてもらう必要がある。私は数学、電気工学と物理学を中心に指導するが、自然科学や医学も発展させたい。
残念ながら私にはそちらの知見が少ないからそっちの分野は直接指導できない。せいぜい方向付けだけだ。彼らに自発的に取り組んでもらいたい。模写はそのための基礎練習だ。
工学の方でも今後図面に取り組む。その下地にもなるだろう。
疲れた学生には気分転換にもなるだろう。今は毎日毎日数学に追われているからな。
寮母や学生寮担当教員の話によると、学生達はなかなか平等が理解できないようだ。実家の実力の上下を自分たちの関係に投影しているそうだ。旧上杉家家臣の息子が国衆の息子達を下僕のようにこき使っているらしい。ほかにも家格がどうとか先祖がどうとかいろいろ言うらしい。
そろそろ実力試験でもやって、成績で上下関係を作ってやるか。多少は身分というものが壊れるかもしれない。教科ごとにランキングを発表してやれば、人それぞれに良いところもあれば悪いところもあるということがわかるだろう。
問題は何をやってもランキングが低い者が少なからずいるだろうということだ。勉学もできない、運動もできない、芸術もダメ・・・そんな学生を腐らせずに学業を続けさせる必要がある。
そこは個別に対応するしかない。とりあえず試験をやろう!
そんなことを考えながら、梅に抱っこしてもらって絵を描く学生達を見て回る。大抵はダメ出しだ。「そんな形はしておらんぞ」とか「大小関係が間違っておる」といった感じだ。指摘されて初めてものの見方が変わることは珍しくない。
期待したとおり、勉学がダメそうな学生の1人が見事に模写していた。
「そなたはよく描けているな。縦横比を確認してみよ。もっと良くなるであろう」
「たてよこひ・・・でございますか?」
「うん。そうじゃ。例えばな、あの岩を見るときに手をかざすのじゃ。高さが指何本分か、幅が指何本分かわかるな。同じように絵図に描くのじゃ」
「そうするととても小さな絵になってしまいますが・・・」
「そういうときは、2倍とか3倍とか、縦横同じだけ増やしてやるのじゃ」
「あ、なるほど」
勉学が苦手なものは自分でやり方を見つけられないことが多い。だが、やり方を教えてやればできることがおおい。教えたことはできるという人間は研究者にはなれないが、現場の技術者としては十分やっていける。それで良いのだ。
ひょっとすると、これを繰り返しているうちに自分でも新しいやり方を見つけられるようになるかもしれない。そうなると良いな。頑張れよ。
この前の休校日、父上から呼び出しを受けた。
渡し船に乗ろうと多摩川まで来ると、対岸に幾筋かの煙が立ち上っていた。
川を渡り、北岸を少し行ったところ、崖の近くに真新しい建物があった。煙突が3本建っていた。お願いしていたガラス工房ができたのだ。
「よく職人が来てくれましたね。明国からでしょ?」
「ああそうだよ。2年の期限付きだ。報酬は俺の給金より多いからな。大奮発だ」
「2年あれば職人も育つでしょう。ガラス容器が無いと化学系の実験がさっぱりできませんからね。助かります。原料の珪砂はどこから?」
「織田さんに頼んで尾張と美濃から取り寄せているよ。『ギヤマンが作れるならうちでもやりたい』とか言ってるから、技術が確立したら教えると言っておいたよ」
「ほー。それは良かった。確か、山形県でもとれるはずなので、奥州遠征の際はご配慮ください」
「ああ、わかった。奥州のことはまた後で聞くよ。今聞いても忘れちゃうからな」
「それもそうですな。で、父上。早速ですが、温度計を作りたいです。水銀を調達していただけますか?」
「水銀!? それはまた金のかかる話だな。アルコール温度計じゃダメなのか?」
「どうせなら精度の高い方が良いかと思ったのですが、やっぱり大量に作るには安い方が良いですかね」
「当たり前だよ。少ない予算で大きな成果。組織が小さいうちは仕方が無いでしょ」
「えーっと、基準となる温度計は精度の高い水銀で作りたいです。少量でいいので水銀も調達してください。量産はアルコールにしましょう。では、清酒を随時ご提供ください」
「あ、酒か・・・ 酒は需要が大きいからなぁ」
「味が今ひとつ、というものを工業用に回してください」
「そうは言ってもね、味は二の次で良いから飲ませてくれって言う庶民が大勢いるからね」
「そこをなんとかよろしくお願いいたします。ここで、ガラス用の炉の余熱を使って酒を蒸留してエタノールを作りましょう。あとで留蔵にやらせます」
「ウーン、仕方が無い。なんとかしよう」
父上と話すときはほかの者には席を外してもらっている。ついうっかり前世の話し方が出てしまうからな。
留蔵は便利な奴だ。非常に機転が利くし、人と課題のマネジメントがうまい。今は用務員長にしているが、助教とか役職を作ってやるか。
「それと父上、以前、帆船を作ると言っておられましたが、状況はいかがですか?」
「うん、三浦水軍の船大工に応援で宮大工をつけて試してる。小舟の実験船は成功したけど、大型帆船はまだ少しかかりそうだよ」
父上は前世で防衛大を出ている。防衛大では2年生進級時に陸海空の進路を決めるそうだ。父上は進路を検討する上で帆船の原理と船の基本構造も自習して覚えたそうだ。最終的には災害救助の最前線に行こうと考えて陸上に進んだそうだ。
航空機やヘリコプターについても調べたそうだ。軽くて強い金属材料と内燃機関ができれば空も飛べそうだが、そこは父上も私も詳しくない。欲張っても仕方が無い。当面は地上と海上に張り付いて頑張っていこう。
「ゴムが欲しいのですが、東南アジアに行くしかありません。現地で農場を借りて大量生産したいです。そのために武装した商船団を作らないと倭寇やスペインが・・・」
「それは俺の役目だね。考えておくよ」
「ところで父上、戦の支度は?」
「ああ、今、予備役を招集して訓練中だ。まもなく田植えだからな。いったん解散して田植え後に出動する」
「安房は同族だと言うことですが、宜しいので?」
「同族って言ってもね。何の思い入れもないよ。ああ、うちの家臣の中に里見勝広っていうお爺さんがいるけど、あの人は安房で揉めて逃げてきた人らしいよ。その息子さんも安房に思い入れはないみたいだね」
「はぁ、そんなものですか。この時代はもっと血縁を大切にするかと思っていましたが」
「いや、使えるって言うときは血縁を頼ったり大事にするけどね。一度炎上すると恨み骨髄って感じらしいね」
流石は元平成人だ。ドライだな。
いや、戦国人がドライなのか?
「しかし、安房はかつて連合に所属していたとか。こちらの手の内を知っているのではありませんか?」
「その通りだ。民衆も国衆も連合にいた方が良かったと思ってる。だから調略も簡単だったよ」
「もう終わっていると?」
「そう。上総と安房は行軍するだけ。安房里見家の家臣だけでは何もできないだろうね」
「ほー。そんなものですか。で、里見義弘の処分は?」
「主犯格は全員出家して寺に入ってもらおうかと思ってる。騒乱罪で禁固刑ってところだね。死刑にする必要は無いだろ?」
「この時代にそれで大丈夫ですか?」
「甘いかもしれないけれどね、もう二度と、誰も従わないし、殺す必要は無いよ。罪を憎んで人を憎まず。彼も国民の一人だから」
「鬼平みたいですね」
「長谷川平蔵ね。あの人の考え方も同じだけど、あの人が最初ってわけじゃないみたい。今世で歴史を勉強したけど、かなり昔からそういう考えはあるらしいよ」
父上もやっぱり平成人だな、と思ったら我が国の伝統なのか。まあ私も人は殺したくないから反対はしないがな。
「常陸は如何なりますか?」
「あっちも国衆の半分は調略済みだ。交易を盛んにしているから民衆もこっちに参加したがってる。激しい戦闘はないだろう」
「平和的ですな」
「そうだね。関東は時間をかけてきたからね。問題は奥州と揚北衆かな。あいつらは頑固だからね。戦闘は避けられないし、時間もかかるだろう」
「もう準備をしているので?」
「いや、うん、やっていると言えば・・・ そうだ。父さんに頼みがある」
だから父さんって言うなって。
「私にできることならば」
「今日じゃなくてね。準備ができたらまた声かけるからよろしく頼むよ」
「承知しました」
はて? 準備とは・・・




