18. 書く 元亀元年10月(1570年)
ようやく洋書が手に入った。父上にお願いして昨年のうちに手配したのだが、到着まで1年近くかかってしまった。
内容は航海術の初歩的な教科書だ。このくらいなら日本人に売っても問題なかろう、と思ったんだろうな。高値を提示したから。
こっちは内容を知りたいのではない。これから日本独自に編み出したという体裁で現代数学を広めるのだが、表記方法を洋式にしたい。
そうでないと、インテグラルとかルートとかギリシャ文字に代わる表記方法を考えなければならない。それは面倒だ。そんなことを考えていられるほど私は暇ではないし、私の代わりに任せられる人材はまだ育てていない。
だから、洋書からパク・・・じゃなくてインスパイアして同じ表記方法でさらに発展させました。というテイにしたいのだ。
中身をざっと見ると・・・!!!
活版印刷ではあるが、フォントが! なんて言ったっけ? ひげ文字? こりゃまずい。普通にゴシックの英数字が欲しかったのに、参考にしましたとは言えんな。
内容は・・・ポルトガル語だから・・・スペイン語? いや、ドイツ語か、イタリア語か、ラテン語か? まあいいや、本文はさっぱりわからないが、数式は・・・あれ? この時代は20世紀とは表記法が違うのか? 図はなんとなく分かるが・・・
どうしよう。これを参考にして独自に表記法を考えたら、後世のヨーロッパ式とほぼ同じになりました。で良いいのか?
数学上の真理は1つだからな。ま、いいや。このくらいの謎は後世の陰謀論マニアのおやつに残しておいてあげよう。
しかし、期待したよりも扱っている範囲が狭いな。継続していろいろな学術書を購入するように父上にお願いしておこう。何冊か用意すればごまかせるだろう。
1年近く前から教科書の体系は考えている。多摩に来てから執筆も開始している。
基本は国語と数学だが、来年受け入れる学生は皆大人だ。読み書きそろばんは一通りできることが入学条件になっている。だから、国語の時間は少なめだ。国語審議会が選択した当用漢字に慣らさせて、論理的な文章を読解できるようにすることが中心だ。
数学の方は大変だ。アラビア数字と四則演算の記号、縦書き、横書きの手計算方法、分数と小数など、小学生レベルからやらねばならない。そこから方程式とか関数、負の数、グラフ、論理と集合、基本的な幾何学までは教えたい。
三角関数と解析学、統計学も教えたいし、電話や無線を実現するためには虚数とか極座標とかまで扱いたいのだが・・・
前世の私の世代は超詰め込み教育だった。私より少し後の世代は受験戦争がひどかった。落ちこぼれ、などと呼ばれる人達に対する扱いも悪かった。
その反動でゆとり教育とか個人を尊重した教育が産まれて国家が衰退していった。
どうも日本人は極端なんだな。教育システム以外でも、学術そのものやビジネスなどで大成功と衰退ばかりしている。ほどほどの成功を長期間持続させるということが苦手なのか?
この世界では基本的には詰め込み教育としよう。そして、学問について来られない人々には学問以外で活躍できるように指導することにしよう。多様性だ。学生よりも指導者を育成しなければならない。大変だな。
「それでな、これが原稿だ。これを印刷できるように活字を組み合わせたいのだ」
「へぇい・・・これは確か2の文字でございましたな。なぜこのように小さく、上の方に書いてあるので?」
留蔵は数学の教科書の原稿を見て目を白黒させている。
「ああ、それは2回かけ合わせるという意味だ。2だけじゃないぞ。別の所では3も4も100も5万も何でも出てくるぞ」
「え!・・・そんな活字は作っておりませんが」
「そうであったか。これはしたり。では作ってくれ。活字そのものの縦の長さは他の文字と同じにしてな、幅を狭くしてくれ。それでな、文字部分は小さく上の方に寄せて下は空けておいてくれ。0から9まで10種類で良いからな。2桁以上の数は数字を並べれば良いのでな」
「へぇー」
また無茶振りされた、って顔だな。産みの苦しみって奴だな。頑張ってくれ。
「ところでこっちのひん曲がったバッテンは何でございますか?」
「それは小文字のエックスじゃ。南蛮文字じゃな」
「えぇっ! 南蛮文字でございますか!?」
「ああ、そうだ。数学は南蛮の書き方を拝借することにしたのでな、南蛮文字がたくさん出てくるぞ」
『聞いてねぇよ』
留蔵が小声でボソリと言う。
「言い忘れておったかな。済まん済まん。私も忙しいのだよ。ゆるせ」
「へい」
「あとで手本を渡す」
当用漢字は2000字にしたが、かなとカナで100字超、数字が10字、記号は今のところ20字ほどだ。あとで爆発的に増えるがな。それに英字が大小52字。
そして今回上付き文字を指示した。これが10字。手本を渡すときについでに下付文字も追加しよう。取りあえず数字だけ10字。後で英字を追加する。来年にはギリシャ文字も追加だ。
英数字と記号は見慣れていないから彫り師もやりにくいだろう。手本は大きめに書いてやろう。
「姫様、お母上様からお手紙でございますよ」
乳母の梅が持ってきてくれた。
「・・・梅、読んで」
「姫様はご聡明なのに、なぜ母上様のお手紙は読めないのでしょうね?」
母上の手紙はかな文字だが、崩されているので読みにくいんだよな。全部かなだと同音異義語の区別が付かない。
楷書の漢字かな交じりっていうのは良いもんだな。早く普及させたい。
梅が読んでくれた内容を要約すると、
一つ、元気か? 家族は元気だ
一つ、寒くなってきた。父上が沃度うがい薬を作ってくれたから送る 流行病の予防のために使いなさい
一つ、府中に屋敷ができたから来月転居する。挨拶に来なさい
一つ、くうは父上に頻繁に手紙を送っているのに、なぜ母には月に一度も書いてくれないのか
だ。
「ですから姫様、お母上様にお手紙を書かれませといつも申しておりますのに・・・」
「相済まん。早速返事を書くことにする」
だいたい、私の世代の男の子は親、とくに母親が苦手なのが普通だ。手紙なんて書いていられない。
父上は業務上の上司だから頻繁に報告書や計画書を送っているだけだ。手紙を書いているわけではないのだ。
ん!? 私は女の子であったな。これはしたり。




