17. 彫る 元亀元年8月(1570年)
毎日、毎日忙しい。
夜明けとともに朝の神事に参加する。幼児だから特に何をするわけでもない。ただ同席しているだけだ。
神事に同席していると、天上春命のご神託があって、それを皆に伝えるという設定になっているので仕方が無い。朝起きて『夢の中でご神託受けました』と言うよりは受け入れられやすいだろう。宮司やほかの巫女たちが証人だというテイなのだ。
父上の場合、当初は山内家の家臣や国衆から竹林のじいさまの傀儡だと思われていたらしい。じいさんがいちいち父上に意見を求めるので『猿芝居もいいかげんにしろ』と言われたこともあったそうだ。そりゃ、幼児が知恵を出すなんて信じられないわ。
その話を聞いたんで、神様のご神託を受けることにしたのだが、お陰で朝が大変だ。ジジイの時は目覚ましより早く目が覚めていたが、この幼児の体は眠くて仕方がない。成長するために睡眠が必要だからな。自分で考えたアイディアだがトホホだよ。
! 閃いた。トランス状態というテイで居眠りしよう! 我ながら良い考えだ。
神事は夜もある。月次祭とか奉納祭なども定期的にあるのでそれらにも出席しなければならない。一応巫女だからな。ある程度大きくなったら舞を舞えと言われそうだな。私はダンスは苦手なのだが。
神事が終わると境内の掃除、その後皆で揃って朝飯だ。私は幼児なので掃除はしないが境内が広いので時間がかかる。待っている間に前日の報告書に目を通す。
「留蔵、活字はどうだ?」
「へい、やっとこさ200文字を10個ずつ、2000個ほどできたところです。漢字を彫り始めましたんで、彫り師が手間取ってます。鋳物師の方は手が空きそうですんで、同じ文字をもっと作ろうとしています」
食事が終わったので留蔵に報告書の細部を確認する。ちなみに侍女も下僕も皆同じ部屋で同じものを食べる。最初はひどく遠慮されたが、スキンシップが進んで情報伝達が早くなった。
宮内に聞いたところによると、練者の訓練でも武士から百姓まで全員揃って同じ釜のメシを食ったそうだ。最初のうちは身分による差別や対立がひどかったようだが、最後は全員で抱き合って泣いたという。どんだけ辛い訓練なんだ? 宮内は今でも百姓出身の同期の練者と懇意にしているというのだからたいしたものだ。
「そうか、これまではかなと数字と記号だけだったからな。彫り師も楽だったろうが、漢字が出てくると時がかかるな。頑張ってもらうしかあるまい」
教育を始める。その準備として教科書を作る。そのために活版印刷を始めることにした。少量の印刷ならば木版でも良いのだが、すぐに量産が必要になる。木版では数百部刷ったら版木を作り直す必要がある。今から活版印刷にチャレンジしておいた方が良い。
ヨーロッパでは15世紀の半ばに活版印刷が始まっているはずだ。もう100年以上経っている。見よう見まねでやりましたというのはアリだろう。
だから鉛で活字を作るのだ。鉛は毒だと知っているが、口に入らなければそれほど恐れることはないだろうと高をくくっている。口にくわえるなとか、よく手を洗うように指導してごまかしている。
その活字は鋳物、鋳造で作らせている。木で作った活字の型を砂に差し込んで穴を開けて鋳型とする。そこに溶かした鉛を流し込むと活字ができる。
日本の技術者は腕が良い。鋳物師もそうだ。最初は小さな鋳物に手こずっていたが、すぐにコツを掴んであっという間に量産体制を作った。だから今は型を作る彫り師の方が忙しい。
しかし、かなや数字は良かったが、漢字の活字を鋳物で作るのはたいへんだぞ。細かい部分は手彫りで修正して仕上げなければならないだろうな。ま、苦労は発達の父だからなーーそんな言葉ないか。
「それはそうと、木紙はどうだ?」
洋紙のことだ。私の造語だ。木材のチップで紙を漉かせている。
「へい、紙漉師に作らせておりますが、なかなか良いものができないようです」
「善し悪しの判断は紙漉師にやらせるな。私が見るから失敗も含めてできたものをすべて持ってこさせなさい。どの紙がどのような作り方にしたのか解るようにな」
「へい、承知しました」
「それと、油墨はどうだ?」
油性インクのことだ。これも造語だ。
水で擦った墨は鉛の活字に乗らない。ある程度粘度がある油性でなければならない。そして、油性インクがにじまずに小さな字も印刷できるのが洋紙だ。和紙とは繊維の長さが違う。金属の活字と油性インクと洋紙、この3点セットがないと大量の印刷物が作れない。
もっとも、洋紙の場合は長期保存ができないから、公文書などは和紙に普通の墨で筆を使って手書きする方針だ。長期間保たないと言っても100年ぐらいは楽に保つ。教科書としては十分だろう。どう考えても100年後には改訂してもらわないといけないからな。
初版は後世の文化財になるかもしれないな。長期保存した方が良いかな。
「へい、言われましたとおり大豆油で墨を擦って筆で書いたり活字に塗って判のように押してみましたが、どうも滲みますな」
「朱肉を詳しく調べてみよ。朱肉ならば鉛の活字でも判を押すように使えるはずじゃ。それができたならば同じように黒いものを作るのじゃ」
「へい、他の者に調べさせます」
「よろしく頼むぞ」
この世界、この時代、印刷に必要な技術要素は大体揃っている。あとはそれらを上手く組み合わせて工業化することだ。印刷ができるようになったら教科書を作る。教科書は学生の人数に合わせて毎年印刷する。版木を彫るよりは活字を組み合わせる方が能率が良いはずだ。
「秋のうちに完成させてくれ。年内にたくさん本を作るぞ」
「・・・」
また無茶振りをしてきたな、って顔してる。頑張ってくれよ。お前の名前は日本の工業史に残るからな。
「彫り師が・・・」
「ん? どうした? 彫り師が何か言っているのか?」
「仕事がなくなるんじゃないかと。活字がたくさんできたらもう版木は要らなくなるのではないかと・・・」
「そうだな・・・ いや、そう簡単には無くならんぞ。いろいろな種類の活字が必要だしな。それと今後は文字ではなく、絵図面を掘ってもらう必要がある」
「絵図面でございますか?」
「うん。これまでの学問は文字だけでものを伝えようとしておった。だが、読み手に伝わらなかったり、誤って伝わることが多かった。それでな、私は文字だけでなく絵図面をたくさん使おうと思っておる。それ故にな、その都度絵を描いて、それを木版に彫って刷り上げてもらわなければならん。絵図面を活字のように鋳型で作るのはかえって面倒じゃからな。むしろ忙しくなるぞ」
「なるほど、彫り師に安心するように言っておきます」
「ああ、そうしてくれ。それからな、不安や不満があったら遠慮せずに何でも言うように皆に伝えてくれ。一々怒ったり罰を与えるようなことはせぬ。皆の暮らしが良くなるように考えるのでな」
「へい、ありがとうございます」
抵抗勢力はどこにでも居る。新しく変わっていく世の中での自分の立ち位置が想像できないと不安になるからだ。だが、今よりもっと良くなると解れば協力者になってくれる。些細な不満も聞き逃さないことが肝要だ。面倒ではあるがな。




