14. 製造マニュアル 元亀元年5月(1570年)
4月に改元されて元亀になった。次の天正と合わせて信長の絶頂期だ。気になると言えば気になるが、他人事と言えばそれまでだ。
「姫様、お父上からお手紙と荷物が届きましたよ」
乳母の梅が差し出してくれたのは底面が20cm四方、高さが30cmぐらいの木箱だ。開けると藁に包まれて壺が入っている。油紙で蓋がしてあり、『火気厳禁』と書かれている。開けてみるとちょっと匂う。気化しているな。危ないな。
「これは一体?」
すっかり私の秘書になった梅の夫の宮内が不思議そうに見ている。少量を柄杓で汲んで白磁の皿にあけてもらう。
「ほー、縁が茶色ですな。黒く見えますが、濃い茶なのですな」
「茶というよりは赤褐色だな。これは下総で産する『かん水』だ。沃度というものが溶けている。このままでは毒だが、薄めると穢れを祓うことができる」
「なんと!」
手っ取り早く銭を稼ぐために、前世の平成にはすっかり使われなくなったヨードチンキを売ることを思いついたのだ。前世で私が子供の頃は一般的な医薬品だったが、結構な毒物なので次第に使われなくなった。この時代はヨードの毒性よりも感染症の方がずっと怖いだろう。薄めて売ることにした。
上総、下総、武蔵東部には南関東ガス田がある。ここにヨードが大量にある。世界でも屈指の埋蔵量だと令和の新聞報道で読んだことがある。液晶パネル製造にも使われるので重要な資源だ、と報じていたことが印象的だったのでちょっと調べておいたのが功を奏した。
その天然ガスとヨードが溶けている地下水がかん水だ。東京下町付近ではかなり深いところにあるが、千葉では浅いところにある。千葉県民の中には勝手に天然ガスを採取して自宅で使っている人もいる。
地中から漏れ出た天然ガスが鉄筋コンクリートの建物内に充満して爆発事故が起きたこともあった。要注意だ。
かん水を壺に入れて蓋をしていると、溶けている天然ガスと気化したヨードが出てくる。どっちも危険だ。取扱注意だ。
化石燃料を普及させたい折、ガスはガスで使いたいところだが、この時代では気体を扱う技術がなさそうだ。職人たちにまず、そこから技術開発してもらわなければならない。天然ガスの実用化はしばらく先だ。まずはヨードだ。
「怪我をしたときにな、傷に塗るのだ。すると傷が腐ることがない。また、さらに薄めてうがいをすると、流行病にかかりにくくなるのだ」
「これもご神託で?」
「まあ、そうだ。河越を出る前に父上に取り寄せていただきたいとお願いしていたのじゃ。線香を1本、火をつけてを持ってきてくれるか?」
用意された線香をかん水が入った皿にかざすと、かん水に火が付いた。やはりまだ天然ガスが溶けている。これを抽出しなければならないな。
「油のように火が付きますな。夜の明かりに良さそうです」
「まあそうだが・・・留蔵を呼んでくれ」
留蔵は河越から一緒に来た下僕だ。なかなか器用で気が利くので、助手のように使っている。
「へい、姫様、お呼びでございますか?」
「うん、これを見てくれ」
もう一度かん水に火をつける実験をする。
「この黒い水の中にな、燃える気が混じっておる。その気を取り出すと残った水は薬になるのだ。故に、そなたに燃える気の取り出しを頼みたい」
「へい、いかようにすれば宜しいので?」
「節を抜いた竹竿のようなものを差し込んでな、風を送り込みながらよくかき混ぜるのじゃ。すると入れた風と燃える気が混ざりあって外に出てくる。残った水に火が付かなくなるまで続けるのじゃ」
「へい、承知しました」
「それとな、出てきた気は火が付くからな。火事にならぬよう、火の気のないところで行うのじゃぞ」
「へい、気をつけます」
「万一、火が付いてしまったときはな、水を掛けてはならぬ。水を掛けると火が付いたかん水が更に広まって大火事になる。砂を掛けて消すのじゃ。作業場に砂山をくっておけ」
「へい、承知しました」
「それともう一つ。その出てきた気の中には沃度の気も混じっている。少量なら問題ないがたくさん吸うと毒じゃからな。吸い込んではならんぞ。風を吹き込むときは鞴を仕え。息を吹き込んではならん。誤って吸い込むかもしれんからな。くれぐれも風通しの良いところで作業するようにな。沃度の気も燃える気とともに外に出すのだ。外に出て薄まれば毒でもないし火も付かん」
ここまで説明すれば良いだろう。だが、事故は起きるかもしれない。軽度の事故なら学習になるが、大事故にならないことを祈ろう。
「それで、お前の役目だがな。ただこの作業をすれば良いというものではない。本当の役目は作業手順書を作ることじゃ」
「作業手順書?・・・」
「そうじゃ、沃度を大量に作って売る。そのための職人を育てる。職人たちが間違いなく作業できるように、風はどのくらい送り込めばよいか、かき混ぜはどのように行うべきか、燃える気が抜けたかどうかを危なげなく確かめるにはどうするべきか、そういったことを考えて書物にするのだ。壺は5つある。いろいろ試せ。足りなければまた取り寄せる」
「あっしは字が書けませんが・・・」
「とりあえず宮内に書いてもらおう。作業手順を考えて宮内に伝えよ。留蔵にもおいおい字を覚えてもらう」
「はあー」
戸惑いながらもかん水の入った壺を持って戻っていった。
「あいつならば大丈夫だろう。宮内、済まないが手順書の作成を手伝ってくれ。手順書ができたら量産させよう」
「リョウサン?」
「たくさん作ることだ。兵に持たせれば戦の怪我で死ぬ者が減る」
「ああ、怪我の後、ブルブル震えて苦しんだ末に死ぬ者がおりますな。あのようなことが無くなるのでございますか?」
破傷風のことだろう。傷口から破傷風菌が感染することによって起こる恐ろしい病気だ。戦国時代では傷口に泥や馬の糞を塗るという恐ろしい民間療法のために、多くの人が破傷風やその他の病で死んでいた。
前世で私が子供の頃はまだまだ恐ろしい病気だった。一命を取り留めたものの、後遺症に悩まされている人を何人か見たことがある。予防接種が行われるようになって昭和の終わり頃にはまず見なくなった。
今世で予防接種ができるようになるのはいつか分からん。だが、怪我した直後にきちんと消毒をすればリスクを減らせるはずなのだ。
「無くなるとは言えないが、減らすことはできよう。領民にも安く売ろう。他国には高値で売って銭を儲けるのだ」
「他国に売るのですか? 敵兵は死んでもらった方が良いのでは?」
「敵と言っても同じ日の本の民だ。我らが天下を取った暁には慈しむべき領民となる者たちだ。死なせたくはない」
「姫様はお優しいですな」
「その前に敵の領主からはガッポリ銭をもらうのだがな」
「・・・」




