第5話 オルフェルの物語 <泥沼>
【2026.01/10|タイトルの表記を変更】
・オルフェルの物語 ⑤<泥沼> → 第5話 オルフェルの物語 <泥沼>
精霊たちの声が織りなす旋律に身を委ね、オレは青い空を泳いでいた。
外の世界は光の繭に包まれ、暖かな日差しが肌の奥へと浸透していく。
母さんに似た魔力が、世界に満たされ染み込んでいる。
まるで、優しさに溢れた両手で抱かれているような。
闘技場と巨大通路を内包する、規格外の存在を確かめるため、オレは振り返った。
そこに在ったのは、城塞騎士という異名に違わぬ姿だった。
「で、でかい。これが、ペンタード……」
座すために誂えたかのような、山そのものの玉座に腰を下ろしている。
剥き出しの山肌に肘を預け、山の中腹に足を広げるように据えていた。
その場に座するだけで、山を渡る風の流れすら変えてしまう。
白を基調に青を配した鎧を纏い、随所に黄色の花を象った装飾。
外側へ大きく張り出した巨大な肩鎧——ポールドロン。
その縁からは紋章入りの巨大な垂旗が上腕を覆い、嶺風に吹かれて静かにたなびいていた。
幾つもの白い狭間が並ぶ、顔らしき建造物。
その頭部と思しき位置には、黄金の王冠が嵌められている。
顔を囲むように肩から上へと、巨大な城塞が頭部の一部として築かれていた。
巨大にして異様。騎士にして城塞。
異名に負けず劣らずの存在——城塞騎士ペンタードが、そこにいた。
「オレたちは……こいつの顔の中にいたのか……」
山を椅子代わりにする化け物が、序列三位。
城塞騎士ペンタードに畏怖の念を抱きながらも、オレは改めて新しい世界の広さを知った。
未知への好奇心に胸を躍らせ、討伐対象が生息する白亜の円蓋へと、空を進んでいった。
❇︎ ❇︎ ❇︎
直径100メートルはある巨木の幹。
その根は地表に露出し、高さ約40メートル、厚さ15メートルにも及ぶ天然の木の城壁を成していた。
太陽光は樹冠に遮られ、泥沼の荒野に重い影を落としている。
生温い腐敗臭と黴の臭いが滞留し、湿った空気が肌にまとわりつく。
黒褐色の水面には、泥や腐葉土などの有機物が混じり、虹色の油膜が浮いている。
沼地一帯には巨木が不均等な間隔で点在し、その幹の周囲には泥に侵食されながらも、露出した根が天然の足場を形成していた。
そこから一歩でも泥沼へ踏み出せば、驚くほど抵抗なく引きずり込まれる。
静寂が浸透する淀んだ場に、切迫した声が響き渡る。
相棒とともに魔物を相手に、眉間の皺を緩める暇もない攻防が繰り広げられていた。
跳ね上がる泥の腐臭が鼻を突き、休まらない神経をさらに逆撫でしている。
討伐相手の背丈は、相棒の三倍近くはある巨体。
この白亜の円蓋の中にある泥沼を住処とする魔物——コタ。
束になった根のような足で泥に立ち、前屈した赤い頭部には、魚じみた目が左右に張り出している。
緑色の蔓状の筋繊維が幾重にも絡み合い、その腕はゴムのように伸び縮みした。
コタの影響で、周囲およそ1キロは沼地と化している。
その地盤は水を孕み、完全に泥濘化していた。
行動できるのは、巨木の露出した根がある足場のみ。
オレにとって、この場は限定的な戦闘域だった。
しかも、コタとの距離は数百メートルもある。
思い通りの戦いができずに、オレたちは苛立っていた。
「おい、巫山戯るな! もっと威力を上げろ!」
四つ腕の悪魔から怒声が飛びかかってきた。
「やってる! 突破できねえんだよ!」
こっちだって魔力を大量に込めて焼夷灼質魔焔珠を何度も放ってきた。
ギネマタを倒したときと同等の威力でだ。今のオレではあれが精一杯。
だが、どれだけ威力を上げようが、コタには届かない。
放たれた火球は、瞬時に構築される厚みのある泥壁に阻まれ、すべて掻き消される。
異様に粘りつく弾力のある泥の壁が、灼熱のマグマ塊を深々と呑み込み、掌を閉じるように包み込んでいく。
熱を奪われ、泥団子へと変わり果てた火球は、ぼとりと沼地に落ちていった。
貫通すら許されない。その繰り返しだった。
植物を思わせる肉体構成。
初めて接敵した際、不意打ちの焼夷魔法が一度だけ通った。
炎を嫌がる素振りから、弱点が火であることは分かっている。
だが、直撃しても体表の粘液が瞬時に鎮火させてしまう。
泥壁を突破し、なおかつその粘液を剥がさないといけない。
今のオレたちの火力では、どうやっても有効打にならなかった。
それでも相棒の四つ腕の悪魔は、懲りずに焼夷魔法を連発している。
「こいつの弱点は炎だ! もっと炎の魔法で攻めろ!」
「違う魔法で攻めるべきだ!」
「オレに指図するんじゃねえ! テメエは黙ってオレの指示に従ってりゃいいんだよ!」
チッ。偉そうに言うが、効いてねえのはオマエも同じだろ。
馬鹿正直に焼夷魔法一辺倒で押し通しやがって。
「地嶽隆穿滅絶槍!」
沼地が深すぎる。地盤から錬成されるはずの岩槍は、形成されるそばから泥濘に呑まれ、尖塔すら顔を覗かせない。
どれだけ深いんだよ。
この足場では、接近は疎か、機動性を活かした攻撃そのものが成立しない。
「コタに近づくには……空でも飛ばない限り無理か」
戦闘行動域として使えるのは、この巨木の根だけ。
コタを中心に、一番近い外周の巨木との間が丸ごと沼地になっている。
こちらの攻撃が届くまでの時間を見越したかのような、絶妙な距離だ。
幸いなのは、奴の足だ。束になった植物の根のように張り付いているせいで、旋回移動がかなり鈍い。
攻撃手段も、腐食の魔法玉を飛ばしてくるだけだ。
当たれば一巻の終わりだが、弾道速度が遅く、回避は容易だった。
コタを中心に、相棒とは対角線上の位置を取っている。
当初は移動しながら、機動性を活かした攻撃……なんて考えていたが。
正直、手詰まりだ。
攻撃方法を思案していると、低く擦れる音が聞こえてきた。
猫が威嚇するような。
「——シャァァァァ」
黒く染まった沼地が広がる空間に、その音は静寂を切り裂いて響き渡る。
今は睨み合いが続き、動きが止まっている。
コタは体ごと相棒の方へ向けている。
オレに背を見せやがって、眼中にないってか。
「焼夷灼質魔焔珠」
気づかれないよう、言葉を小さく絞りながら、死角となる真後ろから魔法を放った。
また泥壁か。魔力で壁の強度を上げているんだろうな。
あれを何とかしないと、期日までに討伐なんて到底無理だぞ。
しかも、死角からの攻撃でも反応しやがる。
——魔力感知。厄介だな。
目視だけに頼らず、周囲の魔力の流れを察知して、敵の位置や魔法の動きを把握している。
しかも、魔力の膜は均一に薄く張られていて、気づきにくい。
器用なことをしやがって。
オレが今使える魔法は、焼夷灼質魔焔珠と地嶽隆穿滅絶槍だけ。
「おい! 焼夷系と地盤系の魔法以外何が使える? オレはこの二つしか使えない!」
沼地全体に、オレの張り上げた声が木霊する。
「五月蝿え! テメエは黙って背後から攻撃してろ!」
苛立つ気持ちは分からなくないが、冷静さを欠けば敗北を招くことになるぞ。
ここでオレが、冷静になるように促しても、反発するだけだろうな。
なんて、面倒臭い奴だ。
コタの攻撃性が低いからまだ、今は猫のような威嚇で済んでいる。
もし、これが攻撃性の高い魔物だったら……。
どうする? このまま睨み合いを一日中続ける気か?
おそらく相棒は、連携する気はない。
それでは駄目だ。オレ単独では勝ちの道筋が見えない。
思考しろ、考えるのを止めるな。観察を続けろ。
赤色で厚みのない頭部。魚のような目が左右に張り出した側方視寄り。
つまり、真横からの攻撃は危険。
至近距離の攻撃をするなら、前屈した頭部の構造上、下方は両目の視線が交差できず、像が曖昧になるはず。
だが……奴には常時発動している魔力感知がある。
身体的特徴から可能性を洗い出してみるが、決定打になる案が浮かばない。
それでも、何か手はあるはずだ。
❇︎ ❇︎ ❇︎
——くそ、くそ、くそくそ!
あのガキが囮になるはずが、役にも立ちゃしねえ!
組む相手を間違えた!
コタの野郎に、オレの思考誘導も通じねえ。
あのガキに突撃させようにも、距離が離れすぎてスキルが届かねえ。
生意気にも、オレに向かって「違う魔法で攻めるべき」だと命令までしやがる。
使える魔法の種類まで聞いてきやがって。
オレの指示に従ってりゃいいだけの、矮小な存在がよ!
許せねえ、赦せねえ、ゆるせねえ。
その言葉も、その存在も、全部だ。
目の前の魔物を片付けたら、絶対にあのガキを嬲り殺す。
それにしても……なぜ背後からの攻撃を目視もせずに防げやがる?
くそ、苛々するぜ。
コタの野郎、オレを見据えやがって。ガキのほうを見やがれ。
この巨木から動けねえじゃねえか。
……巨木?
イヒヒヒヒ。思いついたぜ。
この幹を登って、あの枝の上から真下へ焼夷灼質魔焔珠を叩き込んでやる。
流石に真上にまで泥壁は構築できねえだろ。
イヒヒヒヒ。なんてオレは頭がいいんだ。天才じゃねえか。
どうやって倒したか、ママにオレの智才ぶりを報告しねえとな。
ああ、考えただけで心が躍るぜ。
❇︎ ❇︎ ❇︎
あいつ、急に巨木を登り出した。何をする気だ?
「——シャァァァァ」
コタは相棒に向けて威嚇を続けている。
幹の遥か上、最も低い枝に立つその姿は、地上からでは輪郭すら判別できず、ただの黒い点にしか見えなかった。
「もしかして……真上からの攻撃か? それなら奴も泥の壁で防御できないはず」
ここから見える、前屈した赤色の頭部全体には、粘性の体液は見当たらない。
当たれば、有効打になる!
コタも、何かしらの防御策を講じてくるはずだ。
だが、それはさせない。
焼夷魔法で、奴の注意を引きつける。
よし、四つ腕の掌に火球を創り出した。
威力より、速射性に重きを置く!
タイミングはここだ!
「焼夷灼質魔焔珠!」
コタに届くようにわざと大声で叫ぶ。
こっちを向け!
「焼夷灼質魔焔珠!」
まだまだ!
「焼夷灼質魔焔珠!」
「焼夷灼質魔焔珠!」
「焼夷灼質魔焔珠!」
「焼夷灼質魔焔珠!」
なぜ、こっちを向かない!?
巫山戯るなよ、オレだってテメェの脅威だ!
どうしたらいい。考えろ、考えろ。
コタに少しでも近づければ、威力が上がるはずだ。
慎重に露出した根を伝っていたが、泥の付着した表面に、つい足を踏み入れてしまった。
不気味な冷たさが足の指の間から入り込み、粘度のある重い液体が肌にまとわりつく。
さらに重心を乗せると、足の裏が根の表面をなぞるように滑り、自分の意思とは無関係に外側へ流れていった。
——しまった!
重力に裏切られたように、体がふっと宙を舞った。
落ちたら終わりだ。
咄嗟に地嶽隆穿滅絶槍を内言で唱えた。
次の瞬間、足元の泥沼を突き破って岩石巨槍の尖塔が姿を現した。
——!?
無事に先端に着地し、辛うじて危機を逃れる。
従来の半分程度の長さしかないが、なぜ地嶽隆穿滅絶槍が現れたんだ……。
距離……巨木の根元だからじゃない。
コタとの位置関係によって、泥沼の深さが変動している。
それなら説明はつく。
その時、頭上から拡散した声が小さく響いた。
「——焼夷灼質魔焔珠」
四発の焼夷魔法が降り注ぐ。
軌道は正確に、魔物の頭上を捉えていた。
コタは両手で泥の沼地を勢いよく叩きつけた。
大量の泥が高く舞い上がり、生き物のように頭部へ覆いかぶさる。
泥は瞬時に乾燥し、兜のような防護層を形成した。
直後、着弾。
灼熱の火球が衝突するたび、鈍く低い音だけが響く。
炎は泥の上を走ったが、魔物が身震いすると防護層とともに剥がれ落ち、儚く消えた。
——失敗だ!
油断していたわけじゃない。観察も、分析もしていた。
だが、見落としていた。
——この魔物の知能の高さを。
魔法ではなく、地形環境を利用してくるなんて想像もしていなかった。
そこに住み着いている以上、環境を利用してくる可能性を念頭に入れておくべきだったんだ。
これは、オレたちの未熟さだ。
どうする? ……妙案が思い浮かばない。
焦るな、情報の整理だ。
接近は不可。焼夷魔法は泥の壁に阻まれる。
岩石巨槍も、奴がいる付近では沼が深すぎて届かない。
この巨木の近くなら従来より短くなるが、地嶽隆穿滅絶槍の尖塔部分は出る。
……コタをここまで引きつけられれば、あるいは。
思考するオレの視界に、黒いものが映った。
魔物の周囲に、大量の腐食玉が突如現れた。
な、なんだ、あの数の腐食玉は!?
「——シャァァァァ」
魔物があげた威嚇音と同時に、大量の腐食玉が、遥か高みの枝の根元へ真っ直ぐ飛んでいった。
どこを狙っている?
数が多すぎて、制御できていないのか?
——いや、違う。
数十発にも及ぶ腐食玉が、枝の根元へ着弾した。
そして、腐食が進行し、枝が根元から折れた。
枝と共に相棒が叫び声を上げながら落ちてくる。
あいつ、これが狙いだったのか!?
コタの腕はゴムのように伸び、四つ腕の悪魔を両手で掴み取った。
「テメエ、離しやがれ!」
踠きながらも悪態を吐くが、魔物の指は微動だにしていない。
相棒がやられたら、単独での討伐は不可能だ。
背後から焼夷魔法を何度も放つが、すべて泥の壁を突き破れず、泥団子になるだけ。
緩慢な動きで、四つ腕の悪魔を両手に持ったまま、こちらへ振り返る。
捕まえた相棒を見せつけるように。
喉の奥で低く震える、蜂蜜を垂らしたような、猫が甘える喉鳴りが聞こえてくる。
「ゴロゴロ」
喜悦感に浸るような声質を出しながら、相棒の指を一本一本、折り始めた。
苦悶の表情と、声にならない叫び声が響き渡る。
そのたびに、コタは喉鳴りを繰り返している。
「助けろ! 頼む助けてくれ!」
わかっている! 助けたい。だが近づく方法がないんだ!
どうすればいい、どうすれば。
オレも巨木に登って……駄目だ、同じ結果になるだけだ。
「ゴロゴロ」
魔物は指を、相棒の目に突っ込み捏ねくり回している。
「助けて! ママ助けて!」
あいつの注意をオレの方にそらすことができれば。
注意をそらす……。
魔力感知か!
オレの魔力感知は、虫が這い回るようで不快だと、妹は言っていた。
「オレの兄弟を離しやがれ!」
オレは一気に魔力感知を広げた。
質など気にせず、むしろ今は雑なら雑なほど良い。
反応なし。コタは、こちらを見もしない。
コタの口元から垂れ下がる肉のひだが、相棒の顔に吸い付くように張り付く。
その場所から、相棒の顔が赤黒く変色していく。
耳を劈く、言葉にならない声。
くそ、ならもう一度。
もう一度。
もう一度。
もう一度。
張り付いていた肉のひだが相棒の顔から離れ、オレに向かって威嚇音を上げる。
ようやくオレを見たな。
いつまでオレの兄弟を握ってるんだ。
「兄弟を離しやがれ!」
もう一度、魔力感知をぶつけた。
コタは腕を振ると、頭上を何かが掠め、背後で肉の塊が潰れる音がした。
手元には四つ腕の悪魔の姿はなかった。
魔物を見据えながら、後ろへ跳躍し音がした位置まで移動した。
顔を少し動かし、衝突したものを見る。
そこには体がひしゃげたオレの相棒の姿があった。
そこら中に飛び散った肉片も、兄弟のものだ。
ふう、こんな有様を見ても、冷静でいられるとはな。
それでいい。
ここは距離をとって……離脱。
巨木から跳躍したのに合わせ、腐食玉を放ってきた。
「焼夷灼質魔焔珠」
マグマ化した土石をぶつけ相殺する。
接触した瞬間、火花状の高温粒子が飛散。
それと同時に、蒸気破裂音とともに白い熱蒸気の壁が四方へ噴出。
視界は濃い雲で塗りつぶされ、敵視線を遮蔽した。
泥沼の影響を受けていない元来た道を、巨木をつたい一気に距離をとる。
「このまま戻っても処分されるだけだ。一旦仕切り直しだ」
コタを見据えながら、背後へ低く跳躍しながら逃げる。
奴の動きは緩慢だ、ある程度距離を取れば良いだろう。
だが、そんな思惑はあっけなく裏切られる。
鼓膜を蹂躙する轟音とともに、大気が悲鳴を上げながら、白い熱蒸気の壁を切り裂いて跳躍したコタが姿を現した。
着地と同時に、胸が圧迫されるような地鳴りが森の中を反響する。
あの位置から跳躍してきたのかよ!
「まずい、まずい、まずい。これはまずい」
オレは背を向け、一気に全速力で離脱する。
振り返ることはしない。
とにかく全力で離脱することだけに集中した。
巨大な何かが跳躍したような、乾いた破裂音が響いた。
その直後に大気が悲鳴を上げ、目の前にコタが地響きを上げて着地した。
「飛びすぎだろ!」
進行方向を変え、森の奥へとオレは駆け抜けていく。
来た道から遠ざかっていってしまう——くそ!
そうしてオレの逃走劇と、コタの追走劇が始まった。




