第11話 流転
——四ヶ月目
千トンの鎧を纏ったまま、地を蹴る。
百メートルを十秒で走り切る脚力。
修行を始めた頃、百トンの鎧ですら四苦八苦していたのが嘘のようだった。
ただ走るだけなら問題はなかった。
だが戦闘となると、重量による足枷が如実に牙を剥き、泥濘を這うような鈍さがつきまとう。
ゆえに、縦横無尽に高速移動するオルフェルの攻撃に、対処しきれずにいた。
「ほら、集中が切れているよ」
濃紺の悪魔の背後から勇者が声をかけ、そのまま鎧越しに掌を押し当てた。
「虚圧天衝」
呼吸が触れ合いそうなほどの超至近距離。
反応する暇もなく、無音の衝撃波が濃紺の悪魔の背から肉体を貫いた。
体は放物線を描いて宙を転がり、数十メートル先まで弾き飛ばされる。
慣性を殺しきれず、千トンの質量ごと地面に叩きつけられた。
「今みたいに相手の重量が重い場合は、わざと斜め上に向けて放つといい。落下の衝撃も上乗せできるからね。魔法は威力だけじゃなく、放つ角度も重要だよ」
「——痛っ、てぇぇ!」
「うん。ちゃんと体全体に魔力の膜を張れてたね。今くらいなら、そこまで大きなダメージにはならないかな」
重力を押しのけるように上体を起こし、悪態をつきながら立ち上がる。
「手加減されてこの威力かよ……魔力の膜の密度を、もっと上げねえといけないか」
唇の端から、どろりと溢れる血泡を手の甲で拭った。
「集中力が切れたせいで、魔力感知が疎かになっていたよ。だから僕に背後をとられたんだよ。もう一度おさらいだよ、今回の戦闘の目的はなに?」
「魔力感知を都度放つのではなく、持続させて敵の侵入を察知し、即時対応を行う。また、魔力感知を持続させながら体全体に魔力の膜を張る。その魔力の膜の密度を上げ、鎧のような強固な障壁を作る。それらを維持させながら、魔法を放ち剣を振る」
「うん、理解しているなら成長できるね」
「オレの魔力感知はどうだった?」
「雑だった魔力感知は洗練されてきたけど、まだまだだね」
「そうか。理想の洗練とはどの程度なんだ?」
「そうだね……魔力感知を相手に感じさせない。ってとこかな」
「そんなことができるのか?」
「できるよ。ただ、どんなに魔力操作に長けている者でも、通用するのはある程度の上位者まで、かな」
「なるほど、ある程度までは通用するのか……」
己の経験に照らし合わせ、言葉の意味をゆっくりと咀嚼した。
ということは、洗練された魔力感知が通用しない相手は、ある程度の範疇を超える存在ということか。
だが、目の前のオルフェルのように、魔力を氣で覆って感知網にかからない奴もいる。
魔力感知だけで、相手の力量を図るのは危険だな。
感知できないから弱いとは限らない。
「オルフェルが魔力感知に反応しない理由は以前聞いたから知っているが、氣を持たない奴でも感知できない奴はいるのか?」
「勿論、いるよ。強者になるほど巧く隠す奴が多いかな。わざと、隠さない奴もいるけどね」
「そいつらは、どうやってるんだ?」
「そう、だね……。いろいろあるけど、おおまかには五つかな」
勇者は知識の棚から答えを導き出すように、片手の指を次々と折ってみせた。
「五つもあるのか」
「一つ目は、環境の魔力と同調する型だね。大気中の魔力だったり、大地の魔力だったり。その場に満ちる魔力と同じ波長に合わせることで、背景と同じ色に溶け込む、といった感じかな」
そこに存在しているのに、環境の魔力と区別ができないということか。
イメージとしては、海に溶け込む魚、か。
「理想の形だな。二つ目は?」
「二つ目は、外部に漏れる魔力を遮断する方法だね。魔力絶縁膜を体表に作ることで、魔力感知の波を内部に通さない。ただ、これは隠密行動にはあまり向かないかな」
「何故だ?」
「考えてみなよ。絶縁するってことは、魔力感知の中にぽっかり空白ができるってことだよ。不自然すぎて、警戒されること間違いなしだね」
なるほど。環境の魔力同調型は隠密向きだが、魔力絶縁型は不向きということか。
「手の内を明かさない絶縁膜を作る方法は、相手に不気味さを与えるにはうってつけだな」
「そうだね。応用として絶縁膜の密度を下げて、わざと少量の魔力を外部に漏らして弱者を演じる。ってことも可能だね」
……弱者を演じて何になるんだ?
何か目的があるのか。
「弱者を演じて、なんの意味があるんだ? 弱肉強食の世界だ。強さこそ絶対だろ」
濃紺の悪魔は眉をひそめた。
「いかにも悪魔らしい発想だね」
勇者オルフェルは三日月状に目を細め、ふっと口端を緩める。
「例えば、絶対的強者が獲物を見極めるために、周囲の悪魔のレベルに合わせて紛れていたら、どうなると思う?」
「……捕食の瞬間まで、誰もその存在に気づけない、か」
「正解。敵を油断させ、懐に入り込み、一撃で終わらせる。効率的だと思わないかい?」
まるで昼食の献立でも語るような、穏やかな声だった。
……想像すると、恐ろしいな。
圧倒的な牙を持つ者が、羊の皮を被って群れの中を歩く。
隣の者が喰い殺されても、まだ狼だと気づけないほどの擬態。
「死神が隣で微笑んでいるようなものか。ぞっとするな」
背筋を冷たいものが走る。
呼吸を一拍置き、思案するように呟く。
「……なるほど。情報収集のためにも使えそうだな」
「うんうん。いいね。僕の言葉からそこまで考えが広がるなら上出来だよ。すべての行動には応用があるものだからね」
「あと三つの、魔力感知に反応しない方法は?」
「魔力絶縁と似ているけど、外に膜を作るんじゃなく、魔力を体内の深部に圧縮して外へ一切漏らさない方法。四つ目は、魔力の質を変えて別物に見せる方法。例えば、魔獣の魔力や、仲間のものに偽装する感じだね。五つ目は、相手の感知を狂わせる感知妨害だね」
「状況に応じて使い分ける感じか」
魔力運用の概念が、根底から書き換えられていく。
この人間に出会わなければ、オレはここまで緻密な戦術の真髄を知ることはなかっただろう。
「そうだ! オレの高密化魔装はどうだった?」
魔力を極限まで圧縮した極薄装甲——全身を覆う魔力の甲冑。
勇者オルフェルは肩をすくめた。
「ただ柔らかいだけだったよ」
悪魔は「やっぱりか」と苦笑した。
その一蹴に驚きはない。
悪魔はただ、自身の現在地を再確認するように短く息を吐いた。
「理想は柔らかくて硬い、だっけか?」
「その通り。魔力密度を上げつつ、魔力の質を柔らかくする。質は変えることができても、この柔らかくするっていうのが難しいんだよな」
「それら全てを維持しながらの戦闘……改めて、なかなかハードだな」
「そうだね。特に魔法を放てば、魔力感知や高密化魔装が揺らぐからね」
オルフェルの語る理論は理解できる。だが、それを極限の戦場で体現するのは至難の業だ。
高密化魔装の柔らかさ。
ただ魔力を練り上げるだけの力技では、決して届かない領域。
指の間をすり抜ける砂のように、その本質を掴みきれない。
自身の肉体を守る魔力の鎧。それは肉体的損傷に伴う、精神的な苦痛からも守ってくれる。
あの再生痛で集中力が切れるからな。
ふと、口の奥に残る鉄の味に気づいた。
視線は自然と、目の前の勇者へ向いた。
「オルフェルは今まで、いろんな悪魔や魔獣と戦ってきたんだろ?」
「うん、戦ってきたけど。それが、どうかしたのかい」
「肉体損傷をした悪魔たちは、再生する際に痛そうにしていたか?」
「……どうだった、かな。少なくとも、再生の痛みで動きが鈍る悪魔は見たことがないね」
「そうか。再生痛の抑え方、もしくは緩和の仕方が知れればと思ったんだがな」
「なにかしらの回復魔法をかけているのか。もしくは、魔力で傷口を……覆っているとか?」
「魔力か……」
それとも、連中もオレみたいに単にやせ我慢しているだけなのか。
うまく回避できればいいだけの話だ、ってのは頭ではわかっているんだがな。
「でも、悪魔って精神生命体だから、体は魔力体だったはず。うーん、考えてもわからない。だから——」
いつもと変わらず穏やかな声で、勇者オルフェルは、右人差し指の先に小さな水球を作り出した。
魔力により強化された水分子は、超常の圧力下でも構造を崩さず、極限まで鋭利に整列している。
その内部には、水深一億メートルの水圧に匹敵する、百万バールの超高圧が凝縮されていた。
そして、物理的にあり得ない切断力を発揮する。
「極圧臨界穿断水刃」
次の瞬間、水球は針のように細い水刃へと変貌した。
手首を軸に、右人差し指を下から上へと一気に滑らせる。
刹那。
剣を持つ濃紺の悪魔の右腕が、肘から先だけ消えていた。
ぼとり、と。
遅れて、地面へ落ちる音がした。
自分の腕が、剣を握ったまま白い大地の上に転がっていた。
斬られた感触は、なかった。
——えっ!?
遅れて、傷口から押し寄せる熱を帯びた痛みが、意識を焼いた。
「なにをしやがる、人間!」
「ほら、早く。魔力でなんとかしなよ」
「おまえ、頭いかれてんのか」
教えを乞う相手を間違えたか。まともな神経してやがらねえ。
高密化魔装と同じやり方で、傷口を覆ってみるか。
だめだ。再生のたびに痛みが走りやがる。
他には、他には、なんだ!? どうすればいい。
魔力じゃないのか。
いや、あのクソ人間が「悪魔の体は魔力体」と言っていたな。
それなら、やり方が違うのか?
覆うんじゃない。傷口から内側へ——魔力を浸透させる。
その瞬間。
乾いた大地に雨が降り、土の奥まで染み込んでいくような感覚が走った。
焼けつくはずの神経が、嘘のように静まり返っている。
「……痛みが、消えた」
幾度となく味わってきた再生に伴う代償が、霧が晴れるように消えていく。
ただ魔力の通し方を変えただけで、苦痛ではなく、心地よい脈動へと変わっていった。
今までオレが感じていた痛みは、肉体と魔力の乖離が引き起こす歪みだったのか。
肉体そのものが魔力の流れ、その現象の一部だと理解して試した。
単なる修復ではない。
魔力の流転として捉えたのが正解だったのか。
「おめでとう。一体、どうやったんだい?」
「傷口に魔力を染み込ませるイメージでやったら、再生痛がなくなった」
「なるほど。君はたしか、生まれて数ヶ月目だったよね?」
「ああ、四ヶ月目だ」
「多分だけど、魔力がまだ馴染んでいなかったんじゃないかな。君の言葉からの推測だけどね」
「そうか。これで、オレは再生痛に悩まなくてよくなったんだな」
「うん、うん。これからは切り放題だね」
柔和な笑顔とは裏腹の、毒舌だった。
「オルフェル、てめえ」
「魔力感知、高密化魔装、再生痛を抑えるための魔力操作。それらをすべて制御しながらの戦闘。大変だと思うけど、君ならできるよ」
「ああ、やってやるさ。強くなるためだ」
「そんな君に朗報だよ」
「朗報?」
「次はギョギョギョの外に出て、実際に魔獣と戦ってもらうよ」
「それのどこが朗報なんだ?」
「もう、その鎧を脱いでもらうよ」
その一言は、地獄のような重圧に耐え続けてきた濃紺の悪魔の耳に、どんな福音よりも甘く響いた。
全身の骨と筋肉を軋ませ、精神を削り続けてきた千トンの呪縛。
ようやく訪れる自由という名の報酬に、金色の瞳が狂おしいほどの輝きを帯びる。
「やっとか! やっとこの鎧を脱げるんだな」
千トンの重量を纏ったまま泳ぎ続けてきたような日々。
解き放たれた自分が、どれほどの速度と威力で獲物を屠るのか。
想像するだけで、血が沸き立った。
「おいおいおい。なんだこれ、体が羽みたいに軽いぞ」
勇者が指を鳴らした瞬間、圧倒的質量をもたらしていた負荷の鎧が霧のように消え去った。
「そりゃ、千トンの重量もある鎧を着て修行していたんだからね」
濃紺の悪魔は深い笑みを浮かべると、爆ぜるような勢いで大地を蹴った。
一歩。ただ、地を払うように足を後ろに送る。
正面の大気が、まるで鋼鉄の壁のような硬度を持って肉体の進行を阻んだ。
だが、千トンの枷を外した肉体にとって、それは紙細工を破るより容易い抵抗でしかなかった。
突き破った刹那。
世界から音が消失する。
自らの足音さえも遥か後方へと置き去りにし、絶対的な静寂の中を肉体だけが先行していく。
次の瞬間、背後で極限まで圧縮された大気が耐えきれず、大爆発を起こした。
轟音と共に、凄まじい熱量を帯びた衝撃の余波が、白い大地を地平線の彼方まで波打たせていく。
「こりゃ、すげえな!」
音の概念を置き去りにした濃紺の影は、前方へと吸い込まれるように加速し続けた。
音のない静寂の世界を、大気を切り裂くただ一条の鋭利な槍となって。
「無駄に走りたくなる、その気持ちわかるよ。僕もそうだったからね」
柔らかな笑みが、オルフェルの顔へ浮かぶ。
「さて、君がはしゃいでいる間に、僕もやるべきことをやっておこうかな」
どこからともなく、三体のメカジキが現れた。
オルフェルを囲むように、静かに旋回している。
緑、茶、そして黄色。
それぞれ異なる色彩を纏い、滑らかな動きで虚空を泳いでいた。
「君は、リードグレイにこのメッセージを届けてくれ」
緑色のメカジキが光る手紙を口に咥えると、満天の星々が瞬く紺碧の空へと泳ぎ昇り、やがて光の粒となって消えていく。
「それじゃ君は、ヘブンリーブルにこのメッセージを」
茶色のメカジキも光る手紙を咥え、空へと泳ぎ去り、やがて姿を消した。
「君は、オーカーに」
黄色のメカジキもまた手紙を咥え、虚空を滑るように上昇し、やがて見えなくなる。
「僕の修行はそろそろ大詰めだね。あとは、託すだけか……」
メカジキが消えていった星空を見上げながら、オルフェルは小さく呟いた。
白い地平線の彼方を走っていた一条の濃紺の影が、満面の笑みを浮かべながら駆け戻ってきた。
「これなら、オルフェル。おまえとも互角にやりあえるんじゃねえのか?」
「残念だけど無理だよ」
「やっぱりか。だが、オレはこれで一歩、おまえに近づけたのは間違いないな」
「僕に辿り着くのを待っているよ」
本当に君は凄いよ。
僕が勇者だった頃よりも、技術の習得速度が圧倒的に早いんだもん。
君は僕よりも強くなるよ。
千トンの重量の負荷。僕でも三年の月日はかかったのに。
悪魔という種族が凄いのか。それとも、君が特別なのか。
「この身体能力に、体が慣れるのにちょっと時間がかかりそうだな」
オルフェルは何かを探るように、虚空へ視線を向けた。
「外には悪魔の気配はないようだね。それじゃ、ギョギョギョの外に出るよ」
「ああ、オレはいつでもいいぞ」
その言葉が合図だった。
白い大地と満天の星空の世界が、静かにほどけていく。
瞬き一つの間に、青空の下、果てしない大草原が広がっていた。
元の世界へ戻ってきていた。
「懐かしいな。ここは、母さんの魔力で満ちている」
「少し離れた位置に魔獣が四体いるね。多対一の実戦をおこなってもらうよ」
そのときだった。
草原の風が、ふっと止んだ。
そして勇者が一歩踏み出した、その瞬間だった。
「本当に人間がいたとはな、長年生きているが、初めて見た」
背後から響いた声に、空気がわずかに震えた。
いつの間にそこに立っていたのか、誰も気づかなかった。
振り返った先に立っていたのは、巨大な雄鹿の角を持つ悪魔——ヨタン。
肩の上には、大型戦鎚が担がれている。
灼熱の火球のような双眸に射抜かれ、濃紺の悪魔は石像のように硬直した。
「君、どこから現れたんだい? 気配は一切なかったんだけど」
「……ん? 貴様、人間の姿に似せた魔鋼ゴーレムか」
「鑑定持ちか」
オルフェルの声に、険はない。
だが、その一言を境界に、草原のざわめきが完全に消えた。
ヨタンから放たれる存在感と、勇者が纏う底知れぬ静寂。
二つの巨大な圧力がぶつかり合い、周囲の空間がひび割れんばかりに軋んでいく。
濃紺の悪魔はただ、呼吸を忘れてその光景を見守ることしかできなかった。




