第10話 負荷
——濃紺の悪魔が修行を始めて四日目。
荒い息遣いが、奇妙な空間内に重く響く。
湿った足音が、一歩、また一歩と、地面に吸い付くように前へ進む。
踏みしめるたび、強固な石畳が悲鳴をあげ、蜘蛛の巣状に亀裂が刻まれていった。
音を荒く削りながら、鋭く重い声が、言葉の形を崩しながら地面へ落ちた。
「ど、どうだ。半日で…旗まで…たどり着いた、ぞ」
「本当に凄いね。たった四日で達成するなんて」
お世辞ではない。心の底から驚かされる。
この成長速度は、明らかに常軌を逸している。
「もういいか? この重い鎧、脱いでも」
膝に両手をつき、肩を上下させながら荒い息を吐き出す。
滴る汗が顎をつたい、地面に落ちて、黒い滲みを増やした。
「駄目だよ。この修行が終わるまで、食事のときも寝ているときも、鎧は着たままだよ」
荒い呼吸の合間、剥き出しの牙がギラリと覗く。
血走った目で勇者を睨みつけ、悪魔は乾いた喉で掠れた笑いを漏らした。
「……悪魔か、おまえは。いや、オレが言うのも変な話だが……悪魔よりもよっぽど悪魔らしい拷問センスだぞ」
「え? 心外だな。これは君を強くするための、愛の鞭だよ」
その顔には、木漏れ日のような柔和な笑顔が湛えられていた。
勇者オルフェルが虚空に指をかけ、なぞるように人差し指を下へ引く。
薄紙を裂くように空間に漆黒の線が走った。
そこから無造作に引き抜かれたのは、鈍い光を宿す巨大な鉄塊。
「かっこよくないかい? こういう剣の取り出しかた」
握られていたのは、無駄な装飾を削ぎ落とした無骨な剣だった。
柄を含めれば、濃紺の悪魔の身長にも匹敵する長さがある。
「オレには、かっこいいかどうかは分からない」
「僕と好みが合わないようだね。ちなみに、ラノベだとありがちな出しかたなんだよ」
「ラノベ? 呪文か?」
「ほら、受け取って」
羽毛のように軽く差し出されたそれは、ふわりと虚空を滑り、濃紺の悪魔の手に渡った。
「軽いな。全く重さを感じない」
「十トン」
その一語が落ちた瞬間、世界の法則が反転した。
百トンの鎧は全身に分散し、大地へと預けられている。
だが十トンは逃げ場なく、片腕の関節一点へと凝縮する。
数値は小さくとも、質が違った。
「——ぐっ⁉︎」
濃紺の悪魔の手から、剣を包んでいた不可視の浮力が剥ぎ取られる。
次の刹那。
逃げ場のない重みが、片腕一点へと叩きつけられる。
支点となった肘に、一拍遅れて衝撃が走った。
羽毛のようだった剣は、容赦のない質量の塊へと変貌した。
まるで重力に裏切られたかのように。
「急に重くなった。だが、持てない重さではないな」
「その剣の重さは十トン。これから毎日、素振りをそれぞれ千回行ってもらうよ」
「もしかしてだが、今からそれを行うのか?」
「……強くなりたいんでしょ?」
勇者は首を傾げ、一点の曇りのない微笑みを浮かべる。
その問いは、拒絶も反論も許さない、簡潔で暴力的な正論だった。
「ああ、強くなるためだったら何だってやってやる!」
「その言葉が聞けて嬉しいよ。それじゃ、まずはオーバーヘッド・カットの素振りを千回」
オルフェルの右手には、いつの間にか一振りの神秘的な剣が握られていた。
虹色の刀身。光の角度によって色彩が繊細に移ろう。
濃い紫色の柄。鍔と柄頭は金色に輝き、静かな威厳を湛えていた。
勇者はその剣を頭上まで振り上げ、自らの正中線に沿って垂直に振り下ろしてみせた。
風切り音すら置き去りにする、至高の一撃。
「それが終わったら、サイド・カットの素振りを千回」
水平に近い角度から、空間を薙ぐ。
「そして、アンダーカット。これも素振りを千回」
剣を低く構えた状態から、重力に逆らうように鋭く跳ね上げる。
「最後に、スラスト。これも同じ回数だ」
剣先が最短距離を一直線に走り、大気を貫いた。
「今のを鎧を着て走ったあとに、行ってもらうよ」
悪魔は一瞬呆然とした後、乾いた笑いを漏らした。
オレという存在を示して、母さんを喜ばせたい。
やってやろうじゃないか。
強くなるために。
——濃紺の悪魔が修行を始めて五日目。
虚空を睨み据え、濃紺の悪魔は腕を突き出す。
「九百……九十七……ッ」
無骨な剣を、寸分の狂いもなく真っ直ぐに突く。
「九百……九十八」
そのたびに汗が滴り、白い地面に黒い染みを広げていく。
「九百、九十九……。——千ッ!」
最後の一突きを終えた瞬間、全身から糸が切れたように力が抜けた。
同時に、十トンの鉄塊が本来の質量を主張する。
指先の感覚が薄れ、剣が手から滑り落ちかけた。
——落とすものか。
反射的に握り締め、地面に激突する寸前で止めた。
「……っ、ふぅ……っ!」
抑え込んでいた吐息が、静かに溢れ出た。
剣を地に落とすことは、己の精神が白旗を掲げるに等しい。
それだけは、許せなかった。
「まだ力み過ぎているよ。力任せに振るのではなく、適度な脱力と正しい刃筋を意識すれば、最小限の力でスムーズに斬れる。特に技巧派や装甲が硬い相手には力みは厳禁だよ」
「……脱力、か。……確かに、今のオレでは振り回すだけで精一杯だ」
「まだまだ未熟だけど、素振りを始めてまだ二日目とは思えない剣筋だよ。才能あるかもね」
「ふん、お世辞はいらん」
「お世辞じゃないよ。百トンの鎧を着て、たった五日で百メートル先の旗にたどり着いた。しかも、たった一時間で。その執念が不屈の精神を生み出し、今の剣筋を支えている。君の非常識な成長は、お世辞なんかよりもずっと雄弁だよ」
「……雄弁、か」
それは蚊の鳴くような小さな呟きだった。
乱れた呼吸を整えるように、深く、重く息を吐く。
勇者の称賛に甘えるつもりはない。
だがその言葉は、胸の奥で確かな熱へと変わっていった。
「それじゃ今日から、反応速度と動体視力の鍛錬を追加するよ」
「ああ、何でもこい。強くなるためだ」
「まずは小石を投げる。それを避けるだけの簡単な鍛錬さ」
「この鎧を着て、だよな?」
「勿論だよ」
オルフェルの口元に、春の陽だまりのような柔らかな笑みが浮かぶ。
だが、その奥に潜むのは、慈悲など微塵もない徹底した合理性。
百トンの鎧。一歩踏み出すだけで大地の悲鳴を聞くような、圧倒的な質量。
この拘束衣を纏ったまま、飛来する小石を避けろというのか。
「十メートルごとに数字の書いた札を立ててある。十回連続で避けられたら、九十、八十と距離を詰めていこう。最終的な目標は、一メートル先かな」
事もなげに告げられたその言葉は、死刑宣告に等しかった。
一メートル。
そんな至近距離から放たれる、投擲を、百トンの質量を纏ったまま躱せというのか。
「おいおい、正気じゃないだろ。一メートルなんて、瞬きした瞬間にブチ抜かれて終わりだぞ」
「悪魔の自己再生能力があれば問題ないよ。それに、当たらなければいい話だからね」
なんという究極の暴論だ。
要するに、避けられるようになるまで何度でも肉を削り、骨を砕けというわけだ。
「おーい! 準備はいいかい?!」
大声がした方へ視線を向けた瞬間、自分の目を疑った。
つい先ほどまで目の前にいたはずのオルフェルが、オレが鎧を着て最初の一歩を踏み出した地点に立っている。
「……あいつ、いつの間に」
確か、ギョギョギョが食ったものなら任意の場所に自由に出せると言っていたな。
出せるなら、移動もできるということか。
ということは、この空間内では、あいつだけが距離という概念から解放されている。
「おーい! 聞こえているかな?!」
オルフェルが呑気にこちらへ手を振っている。
まるで友人にでも声をかけるかのような、緊張感の欠けらもない軽やかな仕草。
「ああ! いつでも来い!」
百トンの鎧が、巨大な墓標のように機動力を奪ってやがる。
さあ、集中しろ。
……。
「おいおい、それのどこが小石だよ」
勇者の右手には、掌よりも明らかに大きい石塊。
あれは小石なんて可愛いもんじゃない。
どう見ても、岩の欠片だ。
「それじゃ、投げるよ!」
濃紺の悪魔は腰を落とし、重心を低く構える。
そして、爪先に重心をのせる。
オルフェルが軽く腕を振り上げた。
次の瞬間、視界からあいつの右腕が消えた。
刹那。
重力に引きずられるように、右側から大地へと崩れ落ちた。
掌が地を打つ。
——!?
大気が爆ぜる音が、一拍遅れて鼓膜を叩く。
焼けた鉄を押し当てられたような熱痛が、全身を貫く。
——何が起きた!?
痛みが襲う部位へと視線を移す。
どくどくと溢れ出す血が、白い地面を汚していた。
右脚が、ない?
膝から下が、消し飛んでいた。
オレは歯を食いしばり、顔を上げる。
「おーい! 大丈夫かい? 大丈夫なら、早く再生してくれないかな?」
心底どうでもよさそうな声。
「あいつ、ふざけやがって」
次こそ。
次こそ避けてやる。
❇︎ ❇︎ ❇︎
最終選別の儀が行われた白亜の円蓋にて、戦闘音が反響していた。
巨木の露出した根の上に、コタの腐食玉を浴びながらも、腕を組んだまま悪魔が悠然と立っていた。
黒曜石のような黒褐色の鱗に覆われた、二足歩行の人型ドラゴン。
鱗に覆われていない、大胸筋と大腿四頭筋は岩塊の如く隆起し、常軌を逸した密度で盛り上がっている。
焼けた鉄のような眼光。
灰色の二本の角が、後方へ歪曲しながら伸びている。
顔、背中、肩、腕、脚の外側に、橙色に熱を帯びたような鋭い棘が無数に生えていた。
巨大な尾にも同様の棘が並ぶ。
それは装飾ではない。触れれば裂け、掠めれば削がれる、純粋な殺傷器官だ。
「適応したぜ! てめえの腐食玉は、もうオレには通じねえ!」
「ニムニアちゃん、もうスキル『適応』をものにしたのね。お姉さん、ぞくぞくしちゃうわ」
ニムニアと呼ばれた黒褐色の人型ドラゴンが、鼻息を荒く鳴らす。
「ああ。オレのスキル『適応』は、攻撃や環境に適応し、無効化していく能力だ」
「攻撃を受けるたびに強くなるって、もう無敵すぎよ。うーんぞくぞく」
猫が威嚇するような、低く擦れる音が鳴った。
——シャァァァァ。
「スキル『花喰らいの蝶』」
「おい、ラヴァ! あれはオレの獲物だぞ」
ラヴァと呼ばれた薔薇の女性悪魔が、ゆるりと歩み出る。
気高さと妖艶さが同居する魔性の美貌。
太く重厚な捻れた山羊の双角が、王冠のように天を突いている。
外側は透き通るような白銀、内側は鮮烈な橙色の二重構造の髪が揺らめき、膝裏まで流れ落ちている。
陶器のような滑らかな白磁の肢体。
その上を、茨と薔薇の蔦を思わせる、黒鉄の装甲が絡みつくように覆っていた。
絡みあう蔦の隙間から、橙色の薔薇が妖しく咲き誇る。
「あら、いいじゃないの。ドエムのあなたは、もう満足したでしょ?」
「なんだと、てめえ」
「ラヴァちゃん、ドエムって面白いこと言うじゃないの。お姉さん、そういうの好きよ」
ラヴァが放ったスキル『花喰らいの蝶』。
薔薇の花弁が弾け、そこから蝶の形をした魔力生物が十数頭、音もなく生み落とされた。
翅を拍手のように動かし、不規則に羽ばたき、ゆるやかにコタへと向う。
決して速くはない。
だが、その軌道に迷いがなかった。
蝶がコタの体に止まると、ストローのような口吻が肌へと深々と突き立った。
数拍の間を置いて、コタは苦しみ始め、のたうち回り始める。
肉を裂き、筋繊維を押し広げ、薔薇の蕾が内側から突き破って顔を出す。
血を吸い上げながら、蕾が一斉に開花した。
さらに蔦が体内から這い出し、皮膚を内側から引き裂いていく。
「てめえのスキル、えげつねえな」
「内部破壊って、最高よ。お姉さん、ぞくぞくしちゃうわ」
「この『花喰らいの蝶』はね、体内を破壊するだけじゃないの。魔力も生気も全て吸い尽くす。それを養分に、また花が咲く。どれほど魔力を誇ろうが、このスキルの前では意味がないわ」
コタの体が萎み、その分だけ橙色の薔薇が増えていく。
やがて、そこには原形を留めぬほどの薔薇の山だけが残った。
「キャラメリゼ様に名をいただくだけで、こんなにスキルに目覚めるなんて……」
落ち着いた声音で、ラヴァが静かに呟く。
「ラヴァ、てめえは強くなりすぎだ。スキル七つ持ちは反則だろ」
「あたしも、ラヴァちゃんのスキルの数は異常だと思うわ。多くても四つ。才能溢れすぎて、お姉さん嫉妬しちゃう」
「ミュート姉さんにそう言ってもらえて嬉しいです。少しでもミュート姉さんのような女性に近づけるよう、精進いたしますわ」
「オレも姉御のように、もっと適応して強くなるぜ」
「あたし、本当にあなたたちみたいな良い子の教育係になれて嬉しいわ。お姉さん、泣いちゃいう」
潤んだ男性の声で、女性のような口調の奥に、ミュートの嘘偽りのない本心が滲んでいた。
逆三角形の上半身に細い腰。漆黒の光沢を放つ生体装甲が全身を覆っている。
後方へ湾曲しながら伸びる頭部は昆虫を思わせる異形。
紫色の顔は無機質で表情がなく、眼光も紫色に発光し瞳孔が見えない。
腕は細く、鉤爪状の指は生物的な凶暴さを帯びる。
腰部からは、蜈蚣や蠍を思わせる節構造の尾が二本。鋭い先端が、地を引き裂くように這っている。
「それじゃ、あなたたちの才能をもっと伸ばすために、結界の外で魔物狩りよ」
鋭く尖ったヒールが地面を刻む。
泰然とした歩みで、ミュートは教え子たちを導いていった。
❇︎ ❇︎ ❇︎
——濃紺の悪魔が修行を始めて六日目。
「六日目で、たった十分で走りきるとは、本当に凄いよ」
高く澄んだ乾いた拍手が、空間を幾度も打った。
「君は天才だよ」
「そりゃ、どうも」
全身に滲んだ汗はまだ温かいが、呼吸はすでに整い始めている。
「それじゃ今日から、不規則な攻撃に対応する訓練を追加するよ。勿論、その鎧は着たまま。そして、剣の重さは十トンから三十トンに」
「ああ、なんでもこい」
「目的は、視覚・聴覚・触覚から得る情報処理の最適化。通常の反応速度を超えた“適応的即応”の習得だ」
説明を終えると、オルフェルは静かに告げた。
「混沌戦域」
瞬間、濃紺の悪魔が羽毛のように軽くなった。
足裏から感覚が剥がれ落ち、視界がゆっくりと反転する。
先ほどまで地面に落ちていた重い呼気が、今は形をなさず空間内へ溶けていく。
数メートルの高さまで、ふわりと虚空に浮く。
「……泳ぎを忘れた魚になった気分だな」
「君は、面白い表現をするね」
勇者の手元から、質量三十トンの剣が迷わず濃紺の悪魔の元へと届く。
重い。
「剣の重さだけ混沌戦域の影響を受けないようにしたから」
「腕で支える三十トンが、ここまで違うとはな」
これは、かなり苦戦しそうだ。
「空間内の重力はランダムに変化し、重力の影響を受けない僕が上下左右、様々な角度から攻撃するから即応してくれよ。通常の経験則に頼る回避ができないからね」
「ああ、わかった。……ふと思ったのだが、人間は食事をしないのか?」
「僕は特別だから食事も睡眠も必要ないんだ。悪魔はどうなんだい?」
「娯楽として食事はするが、生存に必須とはしない」
「飢えることのない……体、ね」
短い雑談を終え、混沌戦域での修行が始まった。
❇︎ ❇︎ ❇︎
暗黒の空間内に浮かぶブラックホール。
その周囲では吸積円盤が荘厳に巡り、光子球を縁取る光の河は、永劫の環となって静かに輝いていた。
『上の階層で強力な魂の波動を捉えたが……消えた』
威厳のある男の声が、無の深淵へと溶け落ちる。
顔全体を覆う兜。その前面には縦長の裂け目が数条刻まれている。
瞳はない。だが、確かな視線が宿る。
全身を覆う漆黒の甲冑に、ネオンピンクの光が発光している。
『数十万年の呪縛からの解放。次は逃さぬ……』
光子の河の上に仁王立ちするその姿から、静かな決意が滲む。
次の瞬間。
その存在は、暗黒と境界を失うように、事象の地平線へと溶けていった。




