第9話 百瓲
濃紺の悪魔は思索していた。
あまりにも、とんとん拍子に話が進みすぎている。
もしかして、最初からこうなるように誘導されていたのか?
いや、考えすぎだろう。
オレはそんなに単純ではない、はずだ。
「まずは基礎が大事だからね。走り込みと筋力のトレーニングをやろっか」
爽やかな笑顔とともに突きつけられたのは、あまりにも原始的なメニュー。
魔力の申し子でもある悪魔に、地を這うような基礎修行は不要なはず。
期待との乖離に、冷めた溜息が漏れかける。
「それじゃこの鎧を着てくれるかな」
手渡されたのはありふれた、ただの革の鎧。
表面は想像以上にざらついており、丁寧になめされた高級品とは程遠い。
まるで乾燥した大地のような、無骨な粗い手触りだ。
手に持った時点で軽さは分かっていたが、身につければ拍子抜けするほど軽い。
「ちなみに、その鎧は自由に重さを変えることが可能なんだよ」
その言葉が落ちた直後、世界そのものが落下してきたかのような圧力がのしかかった。
——っ⁉︎
お、重い。
重いという言葉では生易しい。
「まずは、百トンからいこうか」
濃紺の悪魔の背骨の奥で、嫌な軋みが走り、椎間板が潰れた。
膝の中で半月板が瞬間的に砕ける。
目は赤く染まり、金属が擦れるような耳鳴りが、脳髄を直接削るかのように響く。
耳の奥が熱くなり、血が垂れる。
視界は強制的に地面へ縫いつけられた。
色彩が褪せ、世界が暗紫に滲んでいく。
「——っ! くっ……そぉ……っ」
それは言葉というより、喉の奥で押し潰された呻き声だった。
息を吸うが肺が膨らまず、空気だけが喉で止まる。
体の至るところで再生と破壊が繰り返され、苦痛をともなう音色が漏れ聞こえてくる。
「百トンの鎧を着たまま、この道を真っ直ぐ走ってもらおうかな」
あまりに簡単に言うオルフェルに苛立ちを覚えた。
睨んで意思を伝えようにも、そんな余裕すらない。
簡単に言うが、踏ん張るだけで精一杯だ!
不満を口にする余裕すらない。
「目標はそうだね……百メートル先のあの場所に旗を立てたから、そこを目指して走ろっか」
気づけば石畳の道がまっすぐ伸びていた。その先には、一本の旗が立っている。
どうやってあの旗を立てた?
オルフェルが移動した気配すらなかった。
——くそっ!
集中していないと、今にも押し潰されそうだ。
もう、考えるのもしんどい。
「辛そうだね? 時間がかかりそうだから、僕はお茶の時間にするよ」
はあ? オレがこんな思いをしているのに、この人間風情が。
——なっ、いつの間に。
視界の端に、白亜のテーブルが現れていた。
曲線の柔らかな猫脚。天板には細密な彫刻。
さっきまで、確かに何もなかったはず。
その傍らの椅子に、オルフェルはいつの間にか腰を下ろしていた。
ゆったりと背を預け、脚を組み、指先には写実的な植物模様のティーカップ。
優雅な挙措で琥珀色の紅茶を口に運ぶ。
——わざとか。
オレの視界に、これ見よがしに映り込む位置で、平穏を突きつけてきやがる。
「君も飲むかい?」
その声に微塵の気遣いもなかった。
オレは一歩すら踏み出せない。
気を抜けば、体が一気に押し潰されそうだ。
目の前で余裕こきやがって。
その不満を口にする気力も、怒りに薪をくべる余裕もない。
「退屈だ。退屈だから、雑談ついでに自慢話を聞いてくれるかい?」
香りを愉しむようにひと口含み、次の言葉を継いだ。
「ギョギョギョが食べた物なら、この空間内で僕が指定した任意の場所に自由に出せるんだよ。さらに面白いのが、ただの石でも数さえ揃えば、この道みたいに石畳として自動で組めるんだ。凄いだろ? これが召喚魔魚のいいところなんだ」
……凄いだろ、だと?
怒りよりも先に、呆れに似た感情が込み上がる。
石ころを並べるような、あまりにも粗末な自慢話。
何とも思わないし、興味もない。
こっちはひと呼吸さえ命がけだというのに。
もしこの重圧から逃れられたら、その喉笛を食いちぎってやる。
「心が熱くなっても、頭は冷静にだよ」
——こいつ、オレの心が読めるのか?
見透かしたようなこのタイミング。
そういえば妹が言っていたな。オレは、感情がすぐ顔に出る、と。
また顔に出ていたのか。
「僕の言葉は、君にとってすべて情報だよ。もし僕が敵だったなら、君はその発言から相手の思惑や手の内を読み解くべきだ。例えば……僕の自慢話の中に、この空間を打破する弱点が混ざっていたらどうする? 感情に任せて聞き流していては、たとえ目の前に勝機が転がっていても気づけないよ」
情報の真偽の精査……。いや、価値の選別か。
価値がないと思える会話の中にこそ、牙を剥くための武器が隠されている。
そんな初歩的なことにすら、オレは気づけなかったのか。
「肉体の苦痛に意識を奪われ、思考を止めた瞬間、君はただの肉の塊に成り下がるんだよ」
確かにそうだ。彼の言うとおりだ。
どんな状況でも冷静に思考し、即座に対応してきたからこそ、オレは今まで生き残れたんだ。
今のように苦痛に意識を奪われていたら、オレは——。
「くっ、そぅ、があっ!」
腹の底から絞り出した声が、咆哮となって喉の奥から弾け飛んだ。
小さな一歩だが、濃紺の悪魔は右足を踏み出した。
どうだ! 一歩進んだぞ。見てるか人間。
「おっ、ようやく一歩進めたね。歩幅は狭いけどね」
微笑みを浮かべながら、柔らかな拍手が優しい音色となって響く。
「この百トンの鎧を着たままでも走ることができれば、鎧を脱いだときの移動速度は劇的に向上するよ」
「それっ、はっ……たの、しみっ、だなっ」
「もう喋れるようになったんだね。ほんと凄いよ、想像以上だよ」
鎧の重量で、体は絶え間なく破壊と再生を繰り返している。
その痛みが同時に襲ってきて、発狂しそうだ。
もう、言い返す気力すら残っていない。
「ねえ、君。僕、暇なんだけど、どうしたらいいと思う?」
この矮小な存在が、何様のつもりだ。
オレを舐め腐りやがって。
ぶっ殺してやる!
「ほら、また。熱くなるのは胸の奥だけ。頭は冷静に、だよ」
優雅な挙措で、カップの乗ったソーサーをテーブルに置くと、オルフェルはさらに言葉を続けた。
「百トンの負荷を受け続けることで、過酷な環境でも動き続ける耐久力がついて、長時間の戦闘にも適応できるのが、今やっている修行のメリットの一つだよ。さらに、常に極限状態の修行を続けることで、忍耐力や集中力が鍛えられ、どんな状況でも動じない精神力が培われる。これにより、多少の恐怖や痛みを無視して行動できるようになる。どうだい? 単純そうに見えて、意外に奥が深いだろ?」
オルフェルは苦悶の表情を浮かべる濃紺の悪魔に、まるで出来の悪い生徒を導く教師のような眼差しを向けた。
悪魔の全身からは滝のような汗が流れ、血管が浮き出ている。
わずか数センチ動かすだけでも、地獄のような苦行だ。
オルフェルの話が終わり、慈悲のない静寂が場を支配した。
その沈黙を切り裂いたのは、獣のような咆哮だった。
「——うおおおおおおっ!!」
肺に残ったわずかな酸素をすべて絞りつくすような、血の混じった叫び。
「いいねえ。これが楽になる日が来たら、君は規格外の存在になっているよ」
❇︎ ❇︎ ❇︎
城塞騎士ペンタード内にある、キャラメル王国——女王謁見の間。
見上げるほど高い天井。
視界を埋めつくす白亜の大広間。
澄み切った空気が凛と満ち、空間そのものが静かに呼吸しているかのようだ。
透き通った光の粒が煌めきながら泳ぎ、秋の陽射しのような柔らかさを帯びて、穏やかな温もりを添えている。
広間を支えるのは、四本の太い白亜の円柱。
それぞれに精緻な天使の高浮彫が施され、今にも羽ばたきそうな生命感を宿していた。
黄金の蔦が柱を伝い、天井からは見たこともない色彩の花々が、甘い香りを振りまきながら枝垂れている。
最奥へと続く純白の絨毯。その先に、女王が座す玉座が鎮座していた。
一本の巨大な聖樹。
その根が幾重にも絡み合い、自然の造形そのままに玉座を形作っている。
周囲の空間は、時の流れから切り離されたかのようで、静謐と安らぎだけが満ちていた。
謁見の間は室内でありながら、まるで世界の生命が凝縮された庭園のようだった。
「最終選別から二日……いまだに戻らない、私の可愛い四人の子供たち」
巨大な羅針盤を背後に滞空させるキャラメル王国の女王。
その口から、ため息まじりの言葉がこぼれた。
女王キャラメリゼは、粛然たる面持ちで玉座に深く身を沈めていた。
そして背後の羅針盤は、物理干渉の影響を受けず、透き通るように聖樹に埋もれた。
彼女の組んだ脚の先が、床につくことなく宙に浮いたまま静止している。
結ばれた唇に笑みはない。
純白の階を数段隔てた先から、キャラメリゼは子供たちを見下ろしていた。
凛とした空気の中、目の前で跪く二体の悪魔。
一言一句を逃さぬよう、女王は冷徹な視線を注いでいた。
側にひかえるガーネット・コンプリメンタが、二体の悪魔に言葉をかける。
「では、まずキャラメル騎士団副団長、デモンルフから状況を述べよ」
「最終選別の儀が行われた魔力障壁内にて、四腕の同胞の死骸を確認いたしました。その相方であった濃紺の同胞の死骸は見当たりませんでした」
デモンルフは、炎の尾を持つ狼のような下半身と、炎の髪をなびかせる女性の上半身を持つ悪魔。
炎の髪は肩越しまで伸び、時折火の粉が飛んでいる。
強い意志を宿した瞳と、男を虜にする冷ややかな美貌。
上半身に装着している漆黒の鎧は、有機的な曲線と荒々しい威圧を纏っている。
その足先は炎に包まれ、四足のうち前脚のみ漆黒の脚甲で覆われていた。
先端が炎に包まれた槍を、傍らの床に横たえていた。
短い沈黙の後、キャラメリゼは一瞬だけ瞑目し、それから静かに口を開いた。
「そう、わかったわ。ありがとう」
「次は、ヨタン。状況を述べよ」
「森の外側、遺跡周辺を確認しましたところ、熱で融解したような同胞の死骸を確認いたしました。そのすぐ側で、鋭い刃物のようなもので一刀両断にされた同胞の死骸も確認いたしました。あの周辺にはあれほど綺麗に切断できる魔物がいないため、他の者にも調査をさせています」
ヨタンと呼ばれたのは、巨大な雄鹿の角を持つ悪魔。
双眸は灼熱の火球のように赤々と光り、恐怖を引き立たせる眼差しを湛えていた。
くすんだ黒鋼色の重鎧は、鈍い光を帯びながら、顔以外の全身を覆っている。
携えていた大型戦鎚を、傍らの床に横たえていた。
キャラメリゼは二体の悪魔からの報告を聞き、脳内で情報を精査するかのように瞼を伏せた。
内容を咀嚼したのち、感情を滲ませぬ声で言葉をこぼした。
「死骸は三体だけ。もう一体の私の子供の安否がわからないのね。そう、わかったわ。ありがとう」
千里眼で子供たちの最終選別の様子を見ていたけれど、まさかあの人間が現れるなんてね。
映像を切り替えた時には、あの人間は既にそこにいた。
今まで、どこに隠れていたのかしらね。
不可解なのは、一刀両断の直後に忽然と姿が消えたこと。
……何かしらの隠蔽魔法かしら。
おそらく、熱による融解もあいつの仕業でしょうね。
それにしても……。
魂があんなに弱っているのに、まだ生き残っているなんて、ゴキブリ並みね。
大人しく隅っこで隠れていればいいものを。
今まで目溢しをしてあげたのに。本当に愚かな生き物ね……人間って。
「どうされましたか、キャラメリゼ様?」
虚空を見つめ、言葉を失ったその横顔を見て、ガーネット・コンプリメンタは案じるように、静寂の隙間を縫って問いかけた。
「ゴキブリは退治しないといけないわね」
「ゴキブリ、ですか」
「もし人間を見かけたら殺すように、キャラメル王国の私の可愛い子供たちに、普く知らしめなさい」
その涼やかな声は、下達を待つ二体の悪魔の背筋を正させるに、十分な威厳を帯びていた。
「畏まりました。人間を見つけ次第、殺すよう命令を下します」
デモンルフが副団長としての威厳ある声で応えた。
「千里眼で、人間を見られたのですか」
キャラメリゼはゆっくりと首を巡らせ、宰相へ視線を向ける。
「ええ、そうよ。私とあなたが、よく知る人間よ」
まるで極上の毒を舌の上で転がすかのように、甘く、低い声でそう告げた。
そして、静かにその名を口にする。
「オルフェル」
その瞬間、ガーネットの背筋に刻まれた敗北と屈辱の記憶が、冷たい氷柱となって突き刺さった。
濃紺の悪魔の称号を初めて耳にした時と同様に、顔が歪む。
脚を組んで座す女王の姿はどこまでも優雅だが、その周囲の空気は、あの日の敗北を思い出したかのように刺々しく凍てついていた。
かつて——
キャラメリゼとガーネット・コンプリメンタは、オルフェルによって屠られていた。




