第8話 オルフェルの物語 <選択>
熱せられた金属のような、肉が焼ける香ばしい匂いが鼻腔を焼いた。
闇の底に沈んでいた意識が、一気に爆ぜるように浮上する。
開いた瞼の先に映ったのは、夜の帳に無数に浮かぶ煌めく光。
澱みひとつない虚空に、名も知らぬ宝石を撒いたような光景が広がっていた。
「……ここはどこだ?」
オレが生まれた場所。あの闘技場で見上げた空とよく似ている。
だが、ここは似て非なる。
腕に力を込めて、上体を押し上げた。
視線を落とすと、足元には淡く白く発光する地面が広がっている。
「何だ、この真っ白な地面は?」
石畳なのか土なのかも判然としないそれは、汚れひとつない。
目を凝らせば、地平線の彼方はなだらかに丸みを帯びて沈んでいる。
叩けば硬く、撫でれば柔らかい。得体の知れない感触に戸惑っていると、
「目が覚めたようだね」
柔和な響きを湛えた声が、鼓膜を優しく震わせた。
反射的に飛び上がり、声のした方へ正対した。
こいつは、遺跡のときの人間。
黒髪に黒目。オレより頭ひとつ背が高い、雄の個体。
鎧を纏っているということは、戦士か。
落ち着きようから、あいつから生き延びたのか。
負傷はおろか、鎧の下の衣にすら汚れがない。
戦闘に発展しなかったのか?
「おまえは誰だ?」
濃紺の悪魔は、目の前の人間に鋭い誰何を浴びせた。
「僕の名前はオルフェル。……泡沫の勇者さ」
「勇者だと?」
その言葉は、知識としてオレの中に刻まれている。
常識を逸脱した潜在能力を持つ者に与えられる、忌むべき称号。
この人間が、その勇者? 微塵も強そうには思えない。
オレを中心に、魔力感知の膜が滑らかな円環となって広がっていく。
——反応が、ない。
どういうことだ⁉︎
目の前にいるのに感知できない。存在していない?
これでは、強さの格すら測れない。
「無駄だよ。魔力を氣で覆っているから反応しないよ」
理解できない。だからこそ、無視できなかった。
「氣とはなんだ?」
初めて聞く言葉だ。オレの知識の中にない。
「氣とは、あらゆる生物に宿る生命エネルギー。こういう感じにね」
オルフェルの輪郭、その周囲の空間が陽炎のようにゆらゆらと揺らぎ始めた。
周囲の温度が、ほんのりと上昇する。
「それは、攻撃にも使えるのか?」
「もちろん。エネルギーだからね。身体強化にも使えるし、飛ばして遠距離の敵を攻撃することもできるよ」
「それは、オレにも使えるのか?」
濃紺の悪魔の問いに、オルフェルは腕を組んで思考を巡らせた。
この氣というものを使えれば、オレの生存率が上がる。
身体強化にも使えるなら、コタを倒すことも。
いや、それ以前にあの泥の沼地だ。あれがある限り、まともに戦闘ができない。
「……うーん。わからない。悪魔という存在自体が、そもそも魔力に特化しているから、なんとも言えないね」
使い方も分からないものに縋るより、今ある魔力の練度を上げるのが現実的……か。
氣が使えたら母さんに喜んでもらえると思ったが、今日中にコタを討伐しないと、今度こそ本当に幻滅される。
……今はそれよりも、ここはどこだ?
どう見ても遺跡ではない。白い地面と満天の星空。
「というか、ここはどこだ?」
「ここかい? ここは、僕が召喚魔法で呼び出した魔物——ギョギョギョの腹の中さ」
「腹の中?」
オレを揶揄っているのか?
突拍子もない話だが、嘘か本当か判別がつかない。
相手を包み込むような、あの穏やかな笑顔。
そこからは感情の色が一切読み取れなかった。
「それじゃあなぜ、消化されずにオレは生きている?」
「そうだよね。普通そう思うよね。この魔物は体内に異空間を持っているんだ。閉じ込められて飢えて死ぬことはあっても、消化されることはない。だから安心してくれていいよ」
それのどこに安心する要素がある。
閉じ込める気なのか? 何のために?
オレが悪魔だからか。
人間は悪魔にとって敵。その逆もまた然り、か。
「オレを、ここに閉じ込めてどうするつもりだ?」
「閉じ込める気なんてないよ。そのつもりなら君を回復させていないさ。魔力も満タンだろ?」
「たしかに、身体中に魔力がみなぎっている」
「だろ? 他の悪魔や魔獣から君を守るために、ここに連れてきたのさ」
「なぜ、人間であるおまえが、オレを守ろうとする?」
濃紺色の悪魔は、射抜くような視線を向けた。
人間のオルフェルは、その視線を意に介さず、和やかな声音で返す。
「僕は君であって、君は僕だからさ」
「は? ……オレをなめているのか?」
「なめてなんかいないし、馬鹿にもしていないよ。ただ……」
「ただ、何だ?」
「君を弱いと思っているだけさ」
それは侮辱でも嘲笑でもなく、ただの事実としての評価だった。
わざとなのか天然なのか。
満面の笑みを浮かべたまま、無神経な一言が悪魔に投じられた。
「な、ん、だ、と」
一音ずつ噛み潰すような声が、どろりとした怒りの情念を滲ませていた。
眉間に深い皺が刻まれ、剥き出しの感情がその貌を歪める。
掌は強く握りしめられ、前腕に血管が浮き上がった。
「そりゃ怒るよね。でも、事実じゃないか」
一拍。揺らめいていた空間が、凍りついたように静止した。
「君は、弱い。弱すぎる」
「人間如きが、調子に乗るな!」
腹の底から絞り出された怒声が、空間内に響き渡る。
白い大地を蹴り抜き、濃紺色の悪魔はオルフェルに突進する。
至近距離、右拳を振りかぶった。
オレの速度に反応してねぇじゃねえか。
「死ね、人間!」
悪魔の右拳が、オルフェルの腹部へと叩き込まれた。
殴った瞬間、衝撃が腕を逆流し、遅れて激痛が追いつく。
骨が砕ける鈍い音が響き、右腕の筋肉が断裂する。
潰れた右手をぶらさげたまま、喉を塞ぐ無音の絶叫が、熱い呼気となって漏れ出る。
「——っ、くっ、があっ……っ!」
脳が痛みの許容量を超え、声が形をなさない。
「避けるまでもなく、君では僕に攻撃を通すことは無理だよ」
穏やかな、あまりにも嫋やかな声だった。
その静かな言葉は、奇妙な空間に溶けていく。
激痛に身悶える悪魔をよそに、オルフェルは鎧についたわずかな埃を払うように、優雅な仕草で腹部をなぞった。
その指先ひとつ、その視線ひとつ、敵意は微塵も混じっていない。
それがかえって、残酷なほどの実力差を見せつけた。
悪魔は壊れた腕を抱えたまま、一歩、また一歩と、後ずさることしかできなかった。
「どう? 悔しいかい?」
……。
今ので、オレとあいつの実力差が痛いほどわかった。
小細工を弄したところで、おそらく通用しない。
敵意むき出しに攻撃をしたにもかかわらず、いまだにオレは生きている。
理由はわからないが、どうやらオレを殺す気はないらしい。
それなら、小細工を試してみる価値はある。
本当に通用しないのかを。
「フィエロ——」
わざと声を張り、オルフェルに向かって掌をかざす。
「焼夷灼質魔焔珠かい? 君の魔力量なら、僕には通じないよ」
「イグニオ!」
悪魔が最後の一文字を紡いだ直後、オルフェルの背後にある地面から、斜め方向へ岩の巨槍が鋭い勢いで飛び出した。
——だが。
数寸遅れて、オルフェルの背に岩の壁が噴き出すように生成され、数十メートルの高さまで一気にせり上がる。
わずかな時間差にもかかわらず、岩の巨槍は壁に食い込むことすらできず、その反動で爆発的に粉砕された。
岩の破片は壁に沿って激しく飛び散る。
案の定、小細工は通用しなかったか。
あの蝙蝠の翼を持った鼠の兄弟だった奴とは、比べものにもならないな。
「魔力感知の発動は感じなかった。なのに、意識外からの攻撃になぜ反応できる」
「魔力感知はしていたよ。実力差が離れすぎているほど、相手の魔力は感知しにくいんだよ」
「地嶽隆穿滅絶槍が発動してから、岩壁——地嶽隆成絶壁が生成されたように見えたんだが、あれはわざとか?」
「そうだよ。わざと遅れて生成したんだよ。よく気づいたね」
生成速度が速すぎる。発動速度だけでなく、魔力操作までもがオレを凌駕している。
圧倒的な上位者か。
「強くなりたいかい?」
その言葉は、泥水に反射する濁った光のように、絶望の隙間へ差し込んできた。
まるで、オレを強くする方法を知っているかのような。
期待してしまうではないか。人間如きに。
ああ、当たり前だ。強くなれるなら、なりたいに決まっている。
逃げてばかりの、惨めな思いはもうしたくない。
「……ああ、もちろんだ」
「僕の願いを叶えてくれるなら、僕が君を鍛えて強くしてあげるよ」
「何が狙いだ?」
「狙いなんてないよ。さっきも言った通り、僕の願いを叶えてくれたらって条件付きだよ」
言外を読み取ろうとする、穿つような懐疑の眼差しをオルフェルへ差し向けた。
悪魔にとって人間は忌むべき存在……強くなりたい。だが、人間は敵だ。
しかし……。
喉の奥が、ひりついた。
母さんに認められたい。褒められたい。必要とされたい。
……。
「条件とは、なんだ?」
「邪神キャラメリゼを倒してほしい。彼女を生かしておけば、多くの人々が不幸に遭う」
「は? なんつってった? てっめえ、殺すぞ」
心臓が凍りつくような静かな殺意が、身体の奥から満ちてくるのを自分でも感じた。
耳を腐らせる毒のような言葉を、赦せるはずがない。
母さんは、オレが生きる意味そのものだ。光であり存在意義だ。
忌むべき羽虫如きの人間の分際で、よくも。
しかも、邪神呼ばわりしやがって。
キャラメリゼという、慈愛を体現したような名を泥足で踏みにじり、その穢れた口から無知と傲慢の塊を吐き出しやがった。
オレを産んでくれた母さんに、百度謝罪しても赦せない。
言葉を交わす時間は終わった。
ここにいるのは、対等に語るべき相手ではない。
ただ駆除されるべき異物だ。排除してやる。
だが、オレではあの人間には勝てない。
「悪かったよ。そうだよね、仲間のことを悪く言われたら怒るよね」
申し訳なさそうな表情を浮かべているが、真意はわからない。
謝罪の言葉。それは確かに聞こえた。
だが、母さんを邪神と呼んだこの人間を、簡単に許していいのか?
殺意はまだ冷めていない。
だが今のオレは、その異物を排除できる力すらない。
悔しさだけが喉の奥で渦を巻いていた。
「さっきは『倒してほしい』と言ったけど、君の選択に任せるよ。僕の知識を君に叩き込んで強くする。そのために僕は存在しているんだから」
「なぜ、初対面のオレにそこまでする?」
「僕は君であって、君は僕なんだ」
「さっきも、そんなことを言っていたが、それはどういう意味だ?」
「君が僕のもとで修行をして、ここを出ていくときに、必然と言葉の意味も知ることになるよ」
「オレは母さんに、その牙を向けることはない。それでもいいのか?」
「母さんねえ……それでも構わないよ」
「強くなったあと、母さんを侮辱したオマエを殺すかもしれないが、後悔しないか?」
「後悔? そんなものは、とうに忘れてしまったよ。君が僕を殺すと言うなら、その時は喜んで相手をするよ」
オルフェルは笑みを溢し、静かに続けた。
「どうだい、悪くない条件だろ?」
「オレに都合が良すぎて怖いんだがな」
「ちなみに数ヶ月かかるから覚悟してくれよ」
「——そんなにもかかるのか⁉︎」
最終選別の一日という期日には間に合わない。
どっちにしろ今のままじゃ単独でコタを討伐は無理だ。
それ以前に、弱いまま戻ったら宰相に処分を言い渡される。
兄弟たちからも命を狙われる。
——強くなりたい!
強くなって戻れば、討伐失敗でも母さんなら許してくれるはずだ。
生き延びるためには、強くなるしかない。
今のオレには選択肢がない。たとえ、その方法が屈辱的だとしても。
悪魔は地面に視線を落とし、何かを噛み締めるように沈黙した。
オルフェルは何も言わず、ただ静かに待っている。
やがて、悪魔はゆっくりと顔を上げた。
「わかった。その代わり、オレを確実に強くしてくれ」
「もちろんだよ。今より数段強くなるから安心してくれ」
「覚悟はできている。今すぐ、その修行をつけてくれ」
オルフェルはその言葉を聞き、心の中で独白する。
僕の力を全て受け継いだあとは、きっと君はキャラメリゼと対立する。
「では、はじめよう。勇者によるオルフェルの修行を」




