第6話 オルフェルの物語 <逃走>
樹高一キロにも及ぶ巨木。
樹冠の隙間から、温もりを帯びた陽が差す。
重なり合う緑の葉は風の旋律にのって揺らぎ、柔らかく涼しげな音となって地面へと降り注ぐ。
その音に満たされた林床では、咲きこぼれる草花が密かに息づき、その呼吸の中で小さな命が生を育んでいた。
命が躍動する森の中、枯れ葉や小枝を踏み砕く乾いた破砕音が不規則に響き渡る。
風の壁を裂きながら、濃紺色の悪魔が疾走していた。
「いい加減、諦めろよな」
跳躍音が聞こえた瞬間、魔力感知で滞空中の軌道を把握する。
そして、コタが滞空している間に、オレは鋭く九十度に方向転換をする。
風切音を轟かせながら、方向転換する直前の地点へコタが着地した。
1、2、3。
方向転換に三秒。
……2、3。
跳躍までに三秒。
ジグザグに逃げられれば問題ない。だが、奴が着地した瞬間に展開される沼地が厄介だ。
泥濘の広がる速さが異常だ。
湿った冷気を孕んだ泥濘が、あと一歩で沈みかねない距離まで迫ってくる。
全速力で走っているが、状況はかなりギリギリだ。
——シャァァァァ
湿った呼気を吐き出すような、コタの威嚇音が聞こえてくる。
かなり距離は空いているはずなのに。
「苛立つなら、もう諦めろよ」
同じ風景が延々と続き、方角すら曖昧になっていた。
跳躍したな——オレは駆けながら九十度に急旋回する。
もう何度目だ。何回曲がったのかも分からない。
どれくらい走っている?
自身の疾走が生む風切り音に、まだ耳を傾ける余裕はある。
——あれは……円蓋の端!
あと少し、あと少しでコタの住処から抜け出せる!
「——シャァァァァ」
背後からの地響きが鼓膜を揺らす。
大気そのものを揺さぶる振動に、背を押されるように、
「よし、抜けた!」
オレは白い円蓋の膜を通り抜けた。
安堵で力が抜けそうになるのを堪え、そのまま走り続ける。
近くの巨木まで駆け抜けたとき、後ろを振り返った。
白い膜から出てくる気配がない。
オレは走るのを止め、様子を窺った。
本来ならとっくに追いつかれているはずだが……。
まだ緊張は解けない。
…………。
……。
……出てこない。
「もう大丈夫なのか?」
出てこないということは、この円蓋はコタを閉じ込めるための檻だったのだろう。
しかし、あんなに執拗に追いかけてくるとはな。
ふう、今だけは少し気を抜いてもいいだろう。
周囲を見回しても、相変わらず巨木が点在する森が広がるばかりだ。
ここからペンタードのいる場所まで近ければいいのだが。
「魔力感知でペンタードの位置を探るか。オレの感知圏内にいればいいんだが……」
魔力の膜を限界まで広げてみる。
先ほどまでいた白い円蓋の中にも、魔力の透明な膜が伸びていく。
——跳躍体勢!?
白い膜を通り抜けて、コタが姿を現した。
「おいおい、嘘だろ。さすがに勘弁してくれ」
オレは即座に背を向け、森の中を全力で疾走した。
次の瞬間、視界の両端に巨大な緑色の指が映った。
——っ!
顔から下が、緑の肉の壁に包まれた。
全身の筋肉と内臓が同時に押し潰され、呼吸を奪う激痛が襲う。
肉が、内側から外へ押し出されていく。
灼けるように、苦しい。
骨が砕ける衝撃が、脳裏で閃光となって弾けた。
筋繊維が次々と引きちぎられ、断裂音が脳髄を突き抜ける。
甘い鉄の味が、溶けた砂糖のように口内へと広がる。
視界は真っ白に染まり、世界がゆっくりと漂白されていく。
「くそ……離……せ……」
猫が甘えるときのような、低い喉鳴りが聞こえてくる。
ゴロゴロ、と。
コタはオレを持ち上げると、苦痛に歪んだ表情を覗き込んできた。
だから、わざと頭部だけは握らなかったのか。
オレの表情を見るために。
首から下の感覚だけが、先に消えていく。
音が水の中に沈んでいくように、遠ざかっていく。
肉が軋む音も、骨が砕ける音も、何もかも。
白い世界が反転し、訪れたのは底なしの暗い安らぎだった。
意識が、静かに溶け落ちていく。
もう痛みは何も感じない。
何もかも。
オレは……ここで死ぬのか……。
母さん……ごめんなさい。
役立たずで、ごめんなさい。
……。
……嫌だ。
……死にたくない。
…………。
……。
——ギャオッ!
喉を切り裂くような、高音の悲鳴。
「——っ、かぁっっ……!」
意識が闇の底から、強制的に跳ね上がった。
音が徐々に蘇ってくる。
色のある世界が、視界にじわりと染み込み始める。
荒い呼吸音がやけに鮮明に聞こえた。
激しい心音が鼓膜を乱打している。
「い、生きている……のか?」
オレはなぜ生きているんだ……?
そういえば、宙に放り出されたような感覚があった。
……あれは、いったい何だったんだ?
体を動かそうとするが、動かない。
腕や脚は折れ曲がり、あらぬ方向を向いている。
皮膚を突き破って飛び出した骨。
破裂した筋肉。
飛び散った肉片。
「よく、こんな状態で生きているな」
我ながら、自分の生命力に驚く。
それでも意識が残っているのは、頭部が無事だったからなのか。
肌に食い込む、湿り気を帯びた樹皮。
冷たく硬質な感触が全身から伝わってくる。
鼻腔を突くのは、雨上がりの地面のような青臭さと土の匂い。
なぜ、オレは木の根の上にいる?
コタに捕まって……。
——突然、思い出したかのように全身に鋭い痛みが走る。
あまりの痛みに、脳髄を打ち据えられたような衝撃が突き抜けた。
そして、逆再生される映像を見るかのように、骨が皮膚の下へと戻っていく。
破裂した筋肉も、裂け目と裂け目同士が磁石のように引き寄せられて塞がっていく。
肉片が飛び散った欠損部位では、断面の細胞が不気味に蠢き、急速に増殖しながら肉を埋めていった。
「ギネマタのっ、時とはっっ——比べ物にぃ、ならないっ! 修復の痛みっ、だなっっ!」
筋膜や筋線維が、無理やり内側から引っ張り寄せられ、収束していく。
こむら返りのような痙攣痛が、体のあちらこちらで同時多発的に起こった。
神経が再接続する瞬間、灼熱の針が全身を貫かれるような電撃が走る。
骨と骨が擦れ合う一瞬の鋭さと圧迫感が、内側から押し広がる。
そして、襲ってくるのは痛みだけではない。
強烈な痒みと、無数の虫が体の内側を這い回るような感覚が重なり、思わず拒絶したくなるほど不快だ。
耐える時間だけが、延々と続く。
……。
「お、終わった、のか」
一瞬だったのか、数分だったのか。
どれほどの時間が経ったのか分からない。
今はもう、オレ自身の荒い呼吸音しか聞こえない。
もう、こんな経験は懲り懲りだ。
「しかし、神経が接続される感覚までわかるって……すげえな、オレ」
オレは寝転がったまま身体の緊張を解き、肢体を投げ出した。
背骨を一つ一つ引き離すように、深く息を吸い込み、弓なりに体を撓らせる。
喉の奥から無意識のため息が漏れた。
先ほどまでの地獄のような激痛が嘘のように、今は心地よい虚脱感が全身へと溶けていく。
「——? なんだ、この音は?」
それまでは聞こえなかった、不快な音が聞こえてきた。
湿った繊維を、無理やり引きちぎるような音だ。
オレは上体を起こし、音のする方へ顔を向けた。
そこには背に走る緑色の鬣の下に、隆起する筋肉の鎧をまとった四足歩行の獣がいた。
体表には泥と体液が付着し汚れている。
沼地化していただろうと思しき地面が、みるみる乾き、元の地面へと戻り始めていた。
コタの半分ほどの背丈しかない灰色の魔物が——三体。
それぞれが蔓状の筋繊維に噛みついたまま、頭を左右に激しく振り、コタの肉体を引きちぎっている。
頭を乱暴に振るたび、強靭な皮膚が耐えきれず悲鳴を上げるように裂けていく。
動かないコタの指先だけが、地面の泥を掻きむしるように微かに痙攣していた。
静寂の森に、おぞましい解体音が響き渡る。
「……嘘、だ、ろ」
次から次へと、何なんだ。休まる時間がないじゃないか。
身体は完全に修復されている。体力もまだ残っている。
白い円蓋の中に駆け込むか。
コタはあそこから外へ出てきた。
オレたちがあの円蓋に入る際、ノルウェンは何も特別なことはしていない。
ということは、奴らも中へ入れるということか?
だったら……考えても、所詮は憶測だ。
リスクが高すぎる。
この場はいったん、
——逃げる!
オレは無我夢中で森の奥へと全力で疾走した。
方角は分からない。
ただ、捕食に夢中になっている今のうちに、できるだけ距離を取る。
何本もの巨木の脇を通り抜け、草花を踏みつけながら裸足で駆け抜けていった。
「もうそろそろ、いいだろう」
ここまで来れば安全なはず。
オレは速度を落とし、短く息をつく。
かなりの時間を走ったが、ペンタードの姿が見えてこない。
反対側に来てしまったのか?
「まあ、問題ないだろ。白い円蓋のある方角は、まだ分かっている」
あの魔物に見つからず、どうやって辿り着くかなんだが……。
方角だけを見失わず、遠回りして向かうしかないか。
突然、身体に小さな違和感が走った。
そして、殺意も伝わってきた。
……魔力感知か!
何となくだが、魔力の波動が来た方角はわかる。
あの三体の魔物がいた、あの方角だ。
おそらく、オレの位置はバレた。
「また……逃げるのか」
忸怩たる思いが、つい言葉となってこぼれ落ちる。
コタからいったん距離を取ると言ってから、ずっと逃げ続けている。
気持ちを抑え込み、オレは再び全速力で風を裂きながら、森の奥へと走り出した。
…………。
……。
どれほど走ったのだろうか。
一度は魔物の範囲外から出たはずなのに、また魔力感知に捉えられてしまった。
次は、走っても走っても振り切れない。
背後から魔物の息遣いが聞こえてきそうだ。
鼓動が早鐘のように鳴り響く。
コタに握り潰されたときと同じ、死への恐怖が胸の底から湧き上がってくる。
走れ、走れ。
今はとにかく走れ。
何も考えるな。
そのとき、視界が一気に開けた。
眼前に、鮮やかな緑の絨毯が広がる。
森を抜けた!?
そして、視界へ飛び込んできたのは——
「あれは……遺跡か?」
巨木の高さには及ばないが、それでも巨大な遺跡が草原の先に聳えていた。
あそこへ逃げ込もう。
オレは速度を落とすことなく、遺跡へと向かった。
❇︎ ❇︎ ❇︎
巨木の根の上から、濃紺色の悪魔が遺跡へ向かって疾走する姿を、二つの影が見下ろしていた。
「いや〜、逃げ切りはりましたな。コタが外へ飛び出しはったから、おもろいもん見れるんやないか〜思って、追いかけてきたけど、めちゃめちゃおもろいやん。逃走劇」
独特のイントネーションで喋るのは、背中に蝙蝠の翼が生えた鼠の悪魔。
体には、赤いタトゥーのような紋様が刻まれている。
「余は実に不愉快である。戦わず、ただ逃げ惑う下等な者の姿を目にするだけで、憤りを覚える。兄弟として恥以外の何物でもない。故に、余は奴が生きることを許さぬ」
傲岸な態度で言い放つのは、体を青緑の鱗に覆われ、顔には赤褐色の色味を帯びた人型のドラゴン。
頭部と肩口から、オレンジ色の角が生えている。
「ほな、こないのはどうでっしゃろ。コタを一体倒すだけで、あんさんのレベルが二つも上がったんや。せやったら、あの出来損ないを殺したら、レベルがなんぼ上がるか気にならへん?」
「ほう、面白い。あの卑しい下等な命が、どれほどの価値に化けるか、試してみるのも一興よ」
「討伐対象のコタを、本来一体でええとこを、あんさんが物足りない言うから、もう一体狩りに行ったんや。おかげでワイの浮遊魔法で、このどでかい頭を二つも運ばなあかん羽目になってしもうた。この魔法、意外に魔力使うんやで。せやから、二体ともあんさんに譲ったんやさかい……あいつは、ワイに狩らしてくれまへんか?」
蝙蝠の翼を持つ鼠の悪魔は、視線で自身の背後を示した。
そこには、討伐されたコタの巨大な頭部が二つ、空中に浮かんでいる。
「よかろう、許可しよう。母上も、下等な存在が消えることを喜ぶであろう」
「おお、ありがとさん。……ほんでな、こちらへ向かって来よる魔物、あんさんの力で少しの間でええんで、食い止めてもらえまへんか? ぱぱって済ましてくるさかい」
「よかろう。余のスキル魂喰いと、魔法絶対貫通があれば、何者であっても相手ではない」
「えろうすんまへんな、助かりますわ。ほな、あとは頼んます」
そう言い残し、蝙蝠の翼を持つ鼠の悪魔は遺跡へと向かう。
その背後を追うように、二つの巨大なコタの頭部が、紐のない風船のように宙を漂っていた。
青緑の鱗に覆われた人型のドラゴンは、まだ姿の見えぬ魔物が迫る方角へと悠然と歩みを進めていく。
【登場キャラ画像】
今回の登場キャライメージ画像は下記から。
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