終末のそれから
文明が滅びても地球は回り続ける。そして、地球が回り続けていれば、いつの日か誰かと誰かが出会い、もしかするとその二人は恋に落ちるかもしれない。大袈裟に聞こえるかもしれないけれど、これは多分、そういうお話。
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『旧新宿東エリアの――― で―――見つかり―――。我々プリマリア教団による物資配布―――時から―――を報告―――ただし―――であるため、―――を―――いている模様。―――は晴れ―――エリアは注意を―――』
僕はその場にしゃがみこみ、壊れかけのラジオに手を伸ばす。直らないかなという甘い期待を抱きながら、本体部分を叩いたり、ボタンを意味もなく押していると、すっと僕の目の前に人型の影が落ちる。振り返ると、後ろにはハチミツが立っていた。彼女のボサボサな長い黒髪が逆光に当てられ、輪郭線がくっきりと際立って見える。
「オトウトとのお別れはもういいの?」
「うん。だらだら話しかけてても、生き返ってくれるわけでもないし」
ハチミツが手ぐしで髪を梳かしながら答える。僕はラジオを抱き抱え、近くに置いてあったリュックを背負う。中に入っているのは、昨日よりも一人分だけ軽くなった、子供二人分の荷物。次はどこに向かうの? ハチミツが聞いてくる。そのタイミングでラジオが先ほどの放送を繰り返し始めたので、僕たちは息を潜めてその内容に耳を傾けた。
「旧新宿エリアってどっちだっけ?」
「お日様が沈む方角」
わかりやすいじゃんとハチミツがうなづき、物資配給が行われる予定の新宿エリアへ向かって歩き出す。僕は数歩だけ間を開けて、彼女の後についていく。途中で一度だけ、僕は後ろを振り返り、オトウトが埋葬されたお墓を遠くから眺めた。荷物が入ったリュックを背負い直し、それからまた前を向いて歩き出す。
オトウトは感染症に罹って亡くなった。ちょうど薬や抗生物質を切らしたタイミングでの発病だったから、本当に運が悪かったとしか言いようがない。彼は僕とハチミツどちらかの本当の弟というわけではなかったけれど、そんなことはどうでもよかった。血の繋がりとかそういうものは、今みたいな時代には似合わない。大袈裟に言うのであれば、それは極めて文明的なものだから。
「私たちが生まれた時にはもう世界は滅んでたから、何が文明的かなんてよくわかんないけどね」
誰もいない道路の真ん中、かすかに残る白線の上を歩きながら、ハチミツが僕をからかう。経年劣化でひび割れたアスファルト、文明時代に築かれたとかいう背の高いビルの骸、どこからか風で運ばれてきた瓦礫と折木の山。僕たちは足元に気をつけながら、時々休憩を挟みながら、お日様が沈んでいく方角へと歩き続ける。道中では窪みにたまった水をくんだり、公園跡地に生えた木の実や野草を摘んだりして、それでもやることがなくなったら僕たちはしりとりを始める。しりとりという遊びは以前一緒に行動していたおじさんから教えてもらった暇つぶしで、一人が言葉を言って、次の人がその言葉の最後の文字から始まる言葉を言う。それを繰り返すだけの簡単なゲーム。
白菜。イエス・キリスト。吐息。霧。淋病。う、う、うんち。やめてよ、そんな汚い言葉。いいじゃん、ほらハチミツの番だよ。チ? えーと、チャペル。る、る、ルカ。釜。ま、ま、マリファナ。ナイフ。ふかし芋。も、も……桃。桃って何? 私も名前しか知らないけど……何か機械の部品じゃない?
お日様の位置が低くなり、空が少しづつ赤みを帯びていく。夕焼けに照らされて、無尽蔵に立ち並ぶビルの表面が色鮮やかな茜色に染まっていく。僕たちは暗くなる前に寝床を確保することにして、適当な建物の中へと入った。中にはシミだらけの絨毯が一面に敷かれていて、奥に進むと地下へと続く階段がある。壁には色褪せたポスターが所狭しと貼られていて、階段を降りた先には見たこともないような分厚い扉があった。僕たちはそれを二人がかりで開く。扉の先には、たくさんの赤い革の椅子が段々に並べられていて、教会の中みたいにどれもが同じ方向を向いていた。世界が滅びる前は、映画館って呼ばれてたらしいよ。文字を読めて博識なハチミツが教えてくれる。僕たちは扉に一番近い椅子に腰掛けた。並べられた椅子の向こうにある教壇のような場所には、一枚の大きな紙のようなものが吊るされている。あれは何? 僕はハチミツに尋ねてみた。ハチミツは首を振り、よくわかんないと眠たげな目で返事を返す。
椅子と椅子の間にある手すりを引っ込め、それから僕たちは手を繋ぎ、身体をくっつけあう。階段部分に塗られた発光塗料以外に灯はなく、部屋の中は暗くて、カビ臭い。耳をすますと、かすかにハチミツの吐息が聞こえてくる。目を瞑ってみたが、昨日まで一緒にいたオトウトの顔が思い浮かんで、なかなか寝付けない。手持ち無沙汰にハチミツの手を握る力を強くしたり弱くしたりしてみる。どうしたの? 暗闇の中からハチミツの声が聞こえてくる。眠れなくってさ。僕がつぶやくと、私もとハチミツがつぶやく。
「もし私が死んじゃったらどうする?」
「それは……すごく嫌かも」
「変な言い方」
「きっと僕は、ハチミツが一緒じゃないと、もう生きていけない気がする」
「そう言ってくれるのは嬉しいけどさ、大袈裟だよ」
ハチミツが僕の手を握る力を少しだけ強くする。カビの匂いに混じって、ハチミツの乾いた髪の匂いがした。
「ハチミツとずっと一緒にいたいし、一緒にいるだけですごく心が落ち着くんだ。今まで色んな人たちと一緒に行動したり、お別れしたりたけど、ハチミツだけはなぜか特別なんだ。何でなのかはわかんない。何なんだろう、こういう気持ちって。ハチミツは、これを何て言うか知ってる?」
「知ってるよ」
今度は僕がハチミツの手を強く握り返す。ハチミツが暗い空間の中で、身体を動かすのがわかった。
「あえて文明的な言い方をするなら、それは多分、恋ってやつだと思う」
僕たちはかつて映画館と呼ばれた場所でこんなお話をした。そして、それから3日後にハチミツは死んだ。オトウトと同じ感染症で。
僕はハチミツのためのお墓を半日かけて作り、そこにハチミツを埋葬した。お墓の前でひざまずき、長い時間をかけて彼女の冥福を神様に祈った。それから一人分の荷物を詰めたリュックを背負い、再びお日様が沈む方角へ歩き出す。ハチミツがいなくなった世界は、まるでたくさんの色が突然灰色に塗りつぶされたみたいにもの寂しい。だけどそれよりも、ハチミツがいなくなった世界であっても、結局は僕はこうして生きていて、物資が調達される場所へと黙々と歩き続けている、そのことが僕をどうしようもなく悲しい気持ちにさせた。
『天が下の―――には季節があり、―――。 生るるに時があり、死ぬるに時があり、―――。神の御心を――― であり―――我々の魂の救済を―――。我々プリマリア教団―――信仰を―――何という空しさ―――。物資配布は―――開始であるため―――異教―――。』
ラジオの調子はまだ悪い。軽いリュックを背負って、重たい気持ちを胸に抱えて、僕は誰もいない道を歩き続ける。同じように水をくんで、食料を確保して、そしてやることがなくなったら、しりとりを始める。三人でいた時と同じように、二人でいた時と同じように。ただ相手はいないから、自分一人だけで言葉を紡いでいく。
ラジオ。お腹。か、か、かみ合わせ。聖書。よ、よ、ヨシュア。アメンボ。ぼ、ぼ、ぼ……。アリ。リュックサック。靴。釣り。リュックサック。く、く、く……熊。マタイ。家。えくぼ。ぼ、ぼ、ぼ……。
「ボウズ、一人か?」
顔をあげる。目の前には、身体と同じくらいに大きな荷物を背負った大柄な男が立っていて、人懐っこい笑顔で僕を見下ろしていた。つい数ヶ月前までは五人で、三人になって、そこから二人がいなくなって、今はもう一人。僕は彼の質問に答える。男の背後からは他の人たちの声が聞こえてくる。目を凝らしてみると、四人の男女の姿。目の前の人を含めたら五人。よくありがちな小規模な集団。
「加入はできる?」
「もちろんだ」
何度も何度も繰り返してきた会話を交わし、何度目かわからない加入があっさりと決まる。俺はダンチだと男が名乗り、僕も自分の名前を伝える。
「ダンチは今まで、この人と一緒じゃないともう生きていけないって思ってた人と、離れ離れになったことはある?」
「あるよ。数え切れないほどに」
僕の唐突な質問に、ダンチは嫌な顔ひとつ浮かべずに答えてくれる。
「でもさ、案外生きていけるもんだよ。それがいいことか悪いことかはべつにしてさ」
仲間を紹介するよとダンチが僕の頭に手を置き、温和な表情で呟く。ダンチが背中を向け、仲間のもとへと歩き出す。僕もダンチの後ろをついていく。途中で一度だけ、僕は来た道を振り返り、ハチミツが埋葬されている方角へと視線を向けた。そして荷物が入ったリュックを背負い直し、それから前を向いて再び歩き出す。何度目かはもうわからない、新しい出会いを求めて。