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ノスタルジアは笑う

(1)

松林月子はどれだけ寝ていたのだろう。外を見ると空は暗かった。やけに身体が重い。そして部屋は寒い。彼氏に別れ話を切り出されてやけ酒に走ったまでは覚えてる。でもその先が思い出せない。

鉛のような重い身体を起こし、キッチンで水を飲む。乱雑に散らばった空き缶を見て片付けなければと思う反面、やる気は一切でない。こういうときだけ手伝ってくれるロボットが欲しい。人の心に干渉しないロボット。ロボットなら気を遣うこともないし、気を遣われることもない。いかんいかん。こんなことを考えるようではこの先が思いやられる。まずは『普通の生活』に戻らなければ。床に転がっているスマートフォンを拾い上げ画面を見る。日付は三月三十日。

「あと一日か。」

明後日からは嫌でも始まる仕事。期待より不安が押し寄せる。そして楽しい学生生活は終わるという絶望感。

「こんなことしている場合じゃない。」

明日一日を有意義なものにしよう。元カレや仕事なんてくそくらえだ。とにかく、私は今を楽しむんだ。この残された一日を使って学生生活史上最高の一日を作るんだ。時刻は午後八時を回ったところ、まずは何をするか決めよう。手頃なところだと、思い切り買い物をするとか、旅行に行くとかかな。みんなは何しているんだろう。気になってSNSで調べてみる。そこにはやれサイクリングだの友達と飲みだの映画を見るだの、中には「寝て過ごす」や「バイト」なんてものもあった。

「夢も希望もないな。」

そんな一言を呟いたとき、とある一つの投稿に目が留まった。

「【新社会人の皆様へ】学生最後の一日にあなただけのお店をやってみませんか?ご興味のある方はDMにて。」

『あなただけのお店』。そのフレーズに心が反応した。でも、こんなSNSで募集しているようなのってどうなんだろう。なんか胡散臭い。アカウント名は『喫茶ノスタルジア』。場所は、家の近くじゃないか。そういえば何かやけに古めかしい、でも歴史的絵画を見ているような喫茶店らしき建物があった気がする。


どうする。


いや、やっぱり怪しいし。


でも、有意義なものにしたいし。


DM、DMか。

最悪ブロックすればいい。とりあえず話を聞いてみたい。明日までも時間がない。とにかく連絡だ。DM送付フォームからメッセージを入力し、送信ボタンをタップする。


「私だけのお店、興味あります。まずは話を聞かせてもらうことはできますか?」


(2)


五分くらいたっただろうか、DMの返信が来ていた。


ご連絡。ありがとうございます。

内容はいたってシンプルです。喫茶店のマスターをやる。ただ、これだけです。

メニューを自分で考えてくださっても構いませんし、こちらから提示するメニューをそのままお出しする形でも構いません。


調理等に関しましては、当店スタッフ(私)が手助けいたしますし、できるだけのお手伝いはさせていただきます。


ただ一つだけ、お願いがあります。当喫茶店は一つの信念がございます。

それは、お客様を『笑顔』にするお手伝いをすることです。


この信念に共感いただけるのであれば、明日の午前九時に当店をご訪問ください。


喫茶ノスタルジア 店主

藤春 伊織


『笑顔』にする。その響きが月子の中にある火種を燃やし始めた。人の『笑顔』を見るのは好きだ。見ているこっちのほうが幸せになるくらいだ。それができることを仕事にしたかったが、毎年目まぐるしく変化する就活情勢に混乱してしまい、結局事務職の内定しか得ることができなかった。今やらねば二度とそんな体験は出来ないかもしれない。心の中の想い、『炎』が大きく燃え始める。

やってやろうじゃないか。まずは明日の朝、お店に行こう。


(3)


翌朝、お店の前に来た。緊張、不安、期待、希望、いろいろな感情が渦巻く。だが、ここまで来てしまった。後戻りはできない。ドアを開けて中に入る。カウンター越しにいた顔が振り向き、目が合う。

「初めまして、昨日連絡いたしました松林月子です。本日はよろしくお願いいたします。」

振り向いた顔は可憐でカッコよくて、少しかわいい。そんな顔だった。そしてその顔から声がでる。

「初めまして。今日はよろしくね。改めまして、店長の藤春伊織です。まずはここのカウンターに座って。」


言われた通りにカウンターに座る。こうして座ってみるとすごく落ち着く空間だ。様々なインテリアに、ちょっとしたオブジェやカメラといったアンティークチックなもの。雑貨屋さんのようにかわいらしい雑貨があちこちに置かれているが全く違和感もなく、全てがこの空間に自然と溶け込んでいる。コーヒーの匂いになにか甘いケーキのような匂いもする。


「さて、簡単に説明しちゃうね。このお店、表向きは喫茶店だけどみんな何かしら忘れてしまった何かを求めてきている。いわば『さがしもの』をしているお客さんが来るのね。その『さがしもの』を一緒に探す手伝いをしてあげるのが私達の仕事。『さがしもの』は人それぞれいろいろなものがあるから中々大変かもしれないけど、普通に飲食やお喋りを楽しむ人も含めて、私達は笑顔でお送りする。それがこのお店の信念よ。あ、コーヒーとかお菓子とか出すのは私がやるから安心して。もしあなたが考えてきたメニューがあれば出してもいいけど、あなたには『さがしもの』の手伝いをメインでしてほしいの。」

いきなり連れ込まれ、半ば強引に座らされて、想定外のことを言われたものだから頭が混乱している。わからない。わからないが来てしまったものだからもう引き返せない。ここで引き返したところでやることが無くなって、家で一日ゴロゴロしてましたなど、あまりに普通でだらしない一日を送るわけにはいかない。固まってしまっていたので伊織が不安げな目で見つめている。

「できそう?」

そんなこと言われても、もう私はやるしかないのだ。

「不安はありますが、やらせてください。」

やった!と伊織は声を上げた。

「それじゃあ早速準備しなきゃ。このエプロン付けてね。三十分後にはお店開くから。」

果たしてどんな一日になるのか。希望や期待はすでに不安に染まっていた。


(4)


オープンと同時に一人の年老いた女性が入ってきた。

「あら、梅さんいらっしゃい。」

伊織店長が声をかける。

「おはよう。伊織ちゃん。あら、そちらのお嬢様はどなた。」

「本日限定の店員さんである月子ちゃんよ。」

「つ、月子ですっ。よろしくお願いします。」

急な紹介に声が裏返ってしまった。

「今日もなにか『さがしもの』があるの。」

そう伊織が尋ねる。

「そうなのよ。数珠が無くなっちゃってね。」

「数珠ねぇ。座布団の下とか仏壇の下とかは見たの。」

「見たんだけどね、ないのよ。」

「うーん、あとはどこかな。月子ちゃん思い浮かぶところあるかしら。」

どこだろう。数珠か。仏壇の前でしか使わない気がするから仏壇の近くにある気がするけど。もしかして。

「あの、数珠はもしかしてブレスレットみたいな腕につけるやつですか。」

「そうよ。ゴムバンドで通してあるブレスレットみたいなやつよ。」

「だとしたら、脱衣場とかどうでしょうか。お風呂に入る時に外したとか。」

「そこは…確かに探してないわね。ありがとう。帰ったら探してみるわ。」

こうして女性は帰っていった。

「いい調子ね。このまま頑張りましょう。」

伊織に褒められ安心した。思ったより簡単だからなんとかなりそうだな。

しかし、その予想は見事に裏切られた。


(5)


次に訪れたのは60代くらいの男性だ。だが、その内容は思いもよらないものだった。

「30年前に妻に言われたことを探してほしい。」

『さがしもの』は実在する物だけじゃないということをこの時初めて知った。伊織は

「わかりました!」

と力強く返事をしてしまっている。さらには

「じゃあ月子ちゃん。いろいろ話を聞いてあげて。」

と言われる始末。なにを聞いたらいいのかわからないどうしたらいいのか。

「とりあえず、30年前のその時のことを教えてください。」

「確か平成が始まった最初の年、確か美空ひばりが亡くなったころ、6月か7月くらいかな。京都に紫陽花を見に行ったんだ。その日は雨上がりで、紫陽花を見るにはすごく良い状態だった。そこで宇治の近くにある紫陽花で有名な三室戸寺に行こうという話になった。現地に着いてお参りをした後に紫陽花園を見て回ったのだけど、その時妻にある約束をされたはずなんだ。」

「『されたはず』とはどういうことですか。」

「実は今度結婚30年の記念日を迎えるところでね。そこを迎えるにあたって妻にこういわれたんだよ。『あの時にした約束が叶うね。』って。しかし、恥ずかしいことにその約束を私が忘れてしまっているというわけだ。なんとか思い出さないといけない。だからその『約束』を探したいんだ。」

「なるほど。そういうことでしたか。」

30年も前に言われたことを探すなんて、無理難題すぎませんか、店長と目線で伝えてみるが、伊織はニコニコしながらこちらを眺めている。

とりあえず話を聞いて出てきた言葉を並べてみる。「京都」「紫陽花」「雨上がり」「宇治」「約束」。

わからない。情報が足らない。

突然伊織が口を開く。

「結婚30年は、確か『真珠婚式』でしたよね。」

「真珠婚式?」

「月子ちゃんはまだ意識することはないわよね。『真珠婚式』というのは結婚30年のお祝いのことで、『富と健康を表す海の宝石』である真珠に合わせて長い年月をともに暮らしてきたご夫婦が、これからも元気で豊かに生活ができることを記念してお祝いをするのよ。名前の通り、真珠のアクセサリーとか送ったりもするわね。」

真珠のアクセサリーを送る。まさか、真珠のアクセサリーを楽しみにしてるわね。みたいなことを京都で紫陽花を見ながら言うわけがないし。ならば「真珠」を他の何かに置き換えてはどうだろう。真珠のような輝きを持つもの。紫陽花は綺麗な色をしているけど真珠とは似ても似つかない。ではそのときに紫陽花以外のもので「真珠」に置き換えられるものは他になかったか。

「紫陽花園を回っていた時に、「真珠」のようなものはありませんでしたか。」

「うーん。30年も前のことだからね。確かそんなものはなかったと思うけど。」

「そうですか。」

助けなきゃ。『さがしもの』を見つけなきゃ。焦る想いに心が支配されていく。頼りにしてもらっているのに、何一つできてない。自分はなんて無力なんだろう。なんでいつも何にもできないんだろう。昨日もそれより前もそうだった。悔しい。けど役立たずだ。お客様が目の前にいるのに涙が流れてくる。突然泣き出した私を見て男性は困惑している。

そんなとき、伊織が呟いた。

「いい天気ね。今日は。」

振り向くと明るい日が窓から差し込み、私の顔を照らした。

「ふふふ。月子ちゃん、涙が光っているわよ。」

慌てて顔を背ける。涙が光る…。もしかして。

「確か、雨上がりだったんですよね。日は出ていましたか。」

「えーと。確か出ていたと思う。」

うん。きっとこれだ。

「恐らくですが、雨上がりということで紫陽花は濡れていたと思います。そこに日が差した。濡れた紫陽花に日が差して、水滴は光ったのではないでしょうか。それもいたるところで。まるで、紫陽花園ではなく、真珠園の如く。海にたくさん宝石があるかの如く。そこで奥さんはふと思いついた。『真珠婚式』のことを。だから、こんなことを言ったはずです。『ここで見た風景のように、きらきら光って、ところどころが紫陽花のようにカラフルな人生を送って、そして結婚30年を健康的に迎えましょう』と。」

伊織はにんまりとした顔でこう聞いた。

「どうですか。実際の夫婦生活30年は」

男性は答えた。

「あぁ。良いことも悪いこともいっぱいあったが、きらきらしてたし、カラフルな人生だったよ。そして夫婦ともに元気だ。」

「では、大丈夫ですね。あとは真珠のアクセサリーを送ってあげてください。これからもそのような生活が送れるようにね。」

男性は柔らかい笑みを浮かべて伊織の提案にこう答えた。

「はい、是非」

そう言って。男性は帰っていった。

「お手柄だったわね!月子ちゃん!」

「いえ、たまたまというかなんというか・・・」

「涙を流した甲斐があったわね!」

言われるととても恥ずかしい。そこは触れないでほしい。

「この調子でいきましょう。」


(6)

その後は、特に難しいこともなく時間が進んでいった。楽しく、忙しく、頭を使い、時間が過ぎていく。あっという間に日が暮れる。

「いやぁ、疲れたわね。あと少し頑張りましょう。」

「そうですね。」

そういって、手を動かそうとしたときだった。

「ちょうどお客さんもいないことだし、私の『さがしもの』も見つけてもらってもいいかしら。」

手は動かずに止まり聞き返す。

「え。」

こちらの反応に意を返さぬまま、伊織は話始める。

「私の『さがしもの』はね、『死んでしまったあの人が隠した送りもの』よ。」

うつむきながら伊織は続ける。

「私には一年前までは旦那がいたの。元々、このお店は旦那が開いたお店でね、結婚してから私も一緒にお店で働き始めたの。でも、二年前に旦那の体調が悪くなって検査してみたら癌だった。そこから闘病生活が始まったのだけど、その旦那が闘病中にこう言ったの。」


『君へのプレゼントがあるんだ。ほんとはサプライズで渡したくて、お店にずっと隠してあるんだけどね。もし僕が退院できたら、その時はそれ二人で開けようね』


「でも、旦那は帰らぬ人になった。頑張ったんだけどね。だから、そのプレゼントのありかはわからぬまま。ずっとずっと探しているんだけど、いまだにわからないよね。そこで月子ちゃんに探すのを手伝ってほしいってわけ。午前中の男性の『さがしもの』を見つけられた月子ちゃんならできるでしょ。」

「いや、あれはたまたまといいますか、本当に運が良かっただけで。」

「お願い!最悪見つからなくてもいいから!一緒に考えてくれる人がいるだけで違うのよ。」

そう言いながら伊織は心細い表情浮かべ、こちらを伺った。そんな表情をされたら断れるわけがない。正直、昨日から今日にかけて色々なことがあった。でも自分の中で消えかけていた炎に再び燃料を注いでくれたのは間違いなくこの人なのだ。この人のために何かできることがあるならば・・・。ダメかもしれない、上手くいかないかもしれない。でもやるだけやってみよう。

「わかりました。見つかるかわかりませんけど、やるだけやらせてください。」

伊織の表情がぱっと輝いた。

「ありがとう!じゃあまずはこれまでに探した場所を教えるわね。」


(7)


伊織はお店のあらゆる箇所を調べていた。客席、キッチン、倉庫、お庭、トイレ、屋根裏部屋。さらには飾ってある絵の裏やオブジェの下など、説明してもらった限りではくまなく探しているように見える。というよりももう探す場所が無いように思える。伊織の知らない隠し部屋みたいなものがあるんじゃないかと疑ったが、建物の構造的にはそんなスペースは無さそうだし、地下室の入り口が突然出てきそうなスイッチなんてものも当然無い。旦那さんがお店に隠してあると言っている以上、家にある可能性もないだろう。ならばいったいどこにあるんだろう。

「改装とかは当然してませんよね。」

「もちろん!あの人の隠したプレゼントが見つかるまでは絶対に改装はしないって決めたもの。」

ならばこの店にあるのは間違いないだろう。情報が足りていないのか。

「入院中になにか旦那さんは他に何か言ってませんでしたか。例えば、様子を気にしていたものとか。」

「そうね。お店の様子は聞いてきたけど、お客さんはちゃんと入っているかとか○○さんは来てくれてるかとかくらいね。」

手がかりなし。陽も暮れてあたりは真っ暗になっている。明日から新社会人の私としてはあまり遅くなるわけにもいかない。でも、この『さがしもの』は見つけたい。考えろ、考えるんだ、あらゆる可能性を探すんだ。『さがしもの』は実体のないものかもしれない。だとすればなんだ。言葉、想い、気持ち、人に見えないものはいろんなものがある。その中で送りものにできるのは何だ。そのときふと思いついた。

「このお店の信念である『笑顔』にするというのは、旦那さんが考えられたんですか」

「ええ、そうよ。私と結婚する前から掲げてたわね。」

では旦那さんは伊織のことを『笑顔』にしたかったのではないか。その『笑顔』にするためのプレゼントを用意していたのではないか。よっぽど変な贈り物でなければ『笑顔』にすることは可能だと思うが。ただ、旦那さんは『ずっと』という表現を用いている。ならばそこらへんで買って用意したものではない。数日間で出来上がったものでもない。時間によって熟成したものではないのか。『笑顔』にするという信念はもともと旦那さんが考えられたものだ、ならば、それこそが『ずっと』の対象ではないのか。

「もう一度聞きますが、ノートや手紙といった類はなかったんですよね」

伊織は答える、

「ええ、そうね。そのようなものは見当たらなかったわ。」

他になにか。記録を残せるものはなかったか。そうだ。

「あそこに置いてあるカメラの中身は確認しましたか」

はっとした顔をして、伊織は答える。

「いいえ、あれは、ずっとお店のインテリアだと思っていたから。」

「確認してみましょう。」


(8)

カメラの電池はとうに切れていたので、一度伊織が自宅に帰り充電器を持ってきた。そしてカメラの電源を入れる。カメラの中には様々な常連さんが笑顔で『お誕生日おめでとう』の紙を掲げている写真がいっぱい保存されていた。恐らく伊織をサプライズで祝おうとして、記録しておいたのだろう。

「私の知らないところでこんな写真を撮ってたなんて。」

そしてさらに一本の動画が保存されていた。その動画は伊織の旦那さんが映っていた。

「伊織。お誕生日おめでとう。伊織が来てから、自分の人生はとてもカラフルで、華やかで、味わい深い人生に変わりました。そこで、お店の信念に合わせて伊織を『笑顔』にするためにみんなに手伝ってもらって写真をいっぱい撮らせてもらいました。みんなの笑顔で伊織も笑顔になってくれればと思います。このお店の名前である『ノスタルジア』ですが、『過去を懐かしむ心』という意味があります。これからも『良い過去』を作って、後で懐かしんで、笑顔になれるように、いっぱいいっぱい想い出を作っていきましょう。こんな僕だけど、末永くよろしくお願いします。」

旦那さんの優しい笑顔で動画は締めくくられていた。静寂が訪れたかと思うと、伊織の嗚咽が聞こえてくる。

「馬鹿ね。あの人。死んじゃったら、良い過去なんて作れないじゃない、馬鹿。なんでよ。私を笑顔にしたかったんじゃないの。なんでなの。なんであなたはここにいないの。一緒にいてよ…」

店長は大粒の涙を流し、隣にいた私の腕にすがりながら、そう呟いた。


(9)


しばらくして、伊織は落ち着きを取り戻した。気付けば夜の22時だった。

「ありがとうね。本当にありがとう。情けないところを見せてしまったけど、本当に嬉しかったし、これで私も前に進める。旦那が作ってきたこの喫茶店もこれからも切り盛りしていかないとね。」

「いえ、私も感謝しかないです。学生生活最後の一日。とても充実した一日でした。本当なら明日からもここで働きたいくらい。」

伊織は微笑む。

「本当ならそうしてほしいけど、あなたを雇ってくれた会社もあるのだからまずはそこで頑張りなさい。それで、もし辛かったら、いつでも戻ってきなさい。」

「はい!ありがとうございます。」

「最後に一言だけ、あなたは私を泣かしてしまった。それはお店の信念に反することだわ。でも、そういうのがあってもいいのかもしれない。少なくとも私はこれでよかったと思うから。だから気にしないでね。」

「わかりました。」

微笑みながらそう返した。

「では、また来ますね。」

「うん、いつでもいらっしゃい。」

伊織に手を振りながら、お店から離れていく。

本当にいろいろあった一日だった。これからの人生でもいろいろあるだろう。でもその時は『良い過去』を懐かしもう。あのお店の名前のように。

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