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<まずは災厄から始まる>

 食べながら話すなと僕を厳しく躾けた父が、密室トリックを謎解きながら、母の小腸を噛んでいる。

 小腸は筋肉の収縮によって体内では3m程に縮むが、実際の長さは6mもあるらしい。顔面を妻の血で染め、口の端から巨大ミミズのような小腸をぶら下げる父の姿は滑稽で、僕は微笑みと泣き顔の中間にある、酷く不格好な表情を強いられた。

 父が母を食べる。そんな恐ろしい現実を、血飛沫で大部分が塗り潰されたドアのガラス越しに、静かに見つめる。きっと僕の心は、この数日で麻痺してしまったのだろう。悲しみや恐怖といった感情は薄く、ドア一枚を隔てた先から聞こえる様々な音をBGMにしながら、この記録を書いている。

 骨が折れる特徴的な破裂音、内臓を引き千切る度に噴き出す勢いのある水音、脱力した体が床に打ち付けられる不規則な打撃音、生肉を喰らう粘っこい咀嚼音、そして謎解きの大団円。

「おおおでえざまあどおおずうういいいりいにいいばああだあべえもおおああらあがあうええなあいいい」

 この災厄の謎を解き明かしてくれる名探偵は、まだいない。


 災厄は今から一週間前、2019(平成31)年4月1日に始まった。新元号『令和』が発表された瞬間だったと言われている。ある一人の作家が、死んだ。そして直後に蘇った。ゾンビとして。

 作家の名は緋殿(ひどの)晩瞬(ばんしゅん)。平成元年に出版されたデビュー作『そして伝説へ』がベストセラーとなり、一世を風靡した。この物語は図書室に置き忘れた三冊の本の紛失から始まる。誘拐、失踪、殺人、テロと事件は大きくなっていき、最後には恐ろしい天変地異によって謎のウイルスが地球を覆い尽くす。人類は滅亡の危機に陥るが、その全ての謎を一人の探偵が解き明かし、新しい時代が訪れるというミステリだ。

 ドラマ、アニメ、映画、舞台、ミュージカル、ゲームと多方面にメディアミックスされ、探偵の決め台詞「俺様の推理には(天上天下)誰も抗えない(唯我独尊)」は、その度に流行語となった。ハリウッドでリメイクされるという噂もあり、その人気は根強い。僕も中一の時に、寝る間を惜しんで読み耽った。

 残念ながら『そして伝説へ』以上のヒット作は生まれなかったが、緋殿を神と崇めるファンは今も多数いる。その日も彼のトークイベントに300人が集まり、和やかな雰囲気で平成のミステリを振り返っていたらしい。その舞台上で起きた緋殿の死と復活。隣りに座る同業者と司会者を喰らった後、即座にゾンビと化した二人と共に会場を埋め尽くすファンやスタッフを襲っていった。

 悪戯好きの緋殿によるサービスだと勘違いした爆笑は、すぐに阿鼻叫喚へと変化する。その地獄絵図は逃げ惑うファンの一人が果敢にも撮影した動画によって、数時間後には日本中へ知れ渡った。このノートを読む貴方の周りにネット環境が残されているならば、ぜひ検索してみてほしい。

 会場の外へ溢れ出たゾンビたちは次々と人を襲い、警察や自衛隊による対処も虚しく、災厄は東京中に広がっていった。多くのゾンビ映画で蔓延のスピードが速すぎることに疑問を感じていたが、現実は映画以上に速いことを僕たちは身をもって知ることになる。

 ホラー映画ファンが集まると必ず議題に上がる「走るゾンビはアリか?ナシか?」論争にも、今回の件で決着がついた。ゾンビは走る。しかも、物凄く速く。跳ねるし、泳ぐし、階段も梯子も駆け登る。想定以上に何でもアリだ。僕以上に運動神経抜群のゾンビたちは、くぐもった声で呟きながら人々を襲いまくった。

 翌2日になり、ゾンビの襲い方には2パターンあることが判明する。噛んで仲間を増やす場合と食料として全身を喰らい尽す場合だ。なぜそのような差が生じるのか。二日後に答えは出た。

 緋殿晩瞬著『そして伝説へ』を読んだか否か。

 ゾンビの呟く言葉が『そして伝説へ』の文章だと気付いた人がいたらしい。緋殿がゾンビ第一号だったことも関係しているのだろう。比較的信憑性のある情報として日本中で検証が行われ(方法については想像を控える)、既読であればゾンビに、未読であれば餌になることが証明された。だが、それが分かったところで、この災厄は止まらない。

 ウイルスが世界の大半を崩壊させたことで一つの時代が終わり、探偵の謎解きによって新時代が始まる小説が関わっていること、災厄の始まりが新元号の発表日だったことから、この感染は「平成ウイルス」と呼ばれるようになった。正式名称や難しい化学式などは、専門家の記録に委ねたい。

 県外や国外への移動は制限され、疑心暗鬼による非感染者同士の暴力事件が各所で起こる。平成ウイルスに怯えながら家に閉じこもり、テレビやインターネットから新しい情報を待つことしか一般市民にできることはなかった。絶望が色濃くなった4月6日、またしても嘘のような噂が広まり始める。

 文庫版『そして伝説へ』を燃やした灰を飲むと感染しないらしい。

 大切な人を失った腹いせか、非常時でも笑いを求めるユーチューバーか、世界を救う探偵か。本好きとしては断じて許せない、本を燃やすという非人道的行為に及んだ人物がいたようだ。そして、それは奇跡を生んだ。

 信じられないことに『そして伝説へ』の文庫本を燃やすと炎は青く、灰は水色の粉末状になるらしい。平時であれば、そんなファンタジーは笑い飛ばされて終わりだろう。だが、災厄下に陥れられた人々は藁にも縋る。情報は瞬く間に伝播し、「令和ワクチン」と呼ばれるようになる灰を求めて、日本中の人達が『そして伝説へ』を探し、燃やし、灰を飲みこんだ。

 令和ワクチンの効果にも2つのパターンがある。既読ならばゾンビに噛まれても軽い怪我で済み、仲間にはならない。未読ならば何も変わらず、食糧という最下層から脱することはできない。

 『そして伝説へ』は様々なメディアで大ヒット作になったものの、そのどれもエンタメ要素が大幅に追加されており、原作は難解な単語や設定が非常に多い。しかも文庫版で1000ページを超え、本を読み慣れていない人にとってはハードな作品だ。新しい媒体で話題になる度、流行に乗って購入する人は多いが、読み切った者は半分程度と推測される。趣味に読書を挙げたことによって「暗い人」認定されてきた人達が救われる世界がやってきたのだ。

 未読の者たちが絶望に沈む一方で、既読の者たちの戦いは激化していく。令和ワクチンは一冊から一人分しか作れない。その一冊を求めて、『そして伝説へ』の争奪戦が全国で繰り広げられた。

 僕の部屋から見える市立図書館の門前で行われた大乱闘。たった一つの獲物を狙って、獣たちは血走った目を見開きながら大声で喚き、互いを全力でぶちのめす。彼らの大半が音に導かれて集まったゾンビたちに喰われていった。

 知っている顔もあったのに、現実感は無かった。すぐ目の前、見慣れた景色の中で行われているにも拘らず、同じ世界に自分も存在していると思えない。脳が全力で拒絶するほど、僕の十七年の常識をぶち壊す異常事態だった。正に、災厄。

 恐らく日本中のあらゆる街で同じことが起きているのだろう。本屋、図書館、古本屋、学校の図書室。本がある場所に人々は集まり、一冊の本を探している。これほどまでに人が本を求める時代が、かつてあっただろうか。

 「母さんを守りなさい」と言い残し、父は夜陰に紛れて出ていった。父と僕が令和ワクチンを接種できたらゾンビ化は免れ、未読の母を守れる可能性が格段に増す。家族全員が生き残るためには、どうしても本が必要だった。去年から僕の本を貸したままになっている友人とは、四日前から連絡が取れない。友の生存を心から願う一方で、友を怨みそうになる悪意を必死に抑える。

 あれからまだ二時間も経っていない。父を待つ間に何かできないかと、このノートを自分の部屋へ取りに行った時だった。階下から響いた悲鳴に慌てて走り下りると、父が母に覆い被さっていた。母の叫ぶままにリビングへ飛び込み、鍵をかける。母は僕を生き延びさせるために犠牲となった。僕はそのまま、母を見殺しにした。

 ここで最初に戻る。僕はドアのガラス越しに、重なり合う両親の姿を見つめた。気の弱い僕を常に励まし、自分にも他人にも恥じない生き方を自ら手本となって示してくれる、大好きな父と母だった。その喪失感を埋めるかのように、僕は文字を記していく。

 静寂が戻っていた。音も声も何一つ聞こえない。父は出ていったのだろうか。次の獲物を探しに。

 ドアを開くと鉄の滲みた気体が口内へ強引に侵入し、一気に膨張する。下気道の奥まで埋め尽くされる。凄まじい匂いに脳と耳が破裂しそうだ。瞼が痺れ、明滅する視界の中に、もはや人間だと認識することすらできない物体が映り込む。脂分のぬめりとてかりで光る臓物は美しく、思わず見惚れてしまった。本当に、僕の心はもうおかしい。

 己の下劣に動揺しながら、不規則な斑点が浮かぶ壁紙やマットに視線を漂わせる。拇指のようなものが端を掠めるが、僕の目を釘付けたのは直方体の塊だった。分厚い形状は煉瓦にも見えるが、適度の丸みを兼ね備え、鮮やかな晴空と海原が光沢を放つ。軋む骨を震わせて、重量感のある代物を拾い上げた。

「そして…伝説へ……」

 父は手に入れたのだ。どこで見つけたのかは分からない。本屋や図書館は奪い尽されたはずだ。奇跡的に発見した一冊を抱えて帰宅する途中、ゾンビに襲われた。家の前で噛まれたのか、ゾンビにも帰巣本能があるのか。とにかく父は、この本と共に家へ帰ってきた。

 血潮が靴下に染み込む感触を足裏に覚えながら、1000ページの重みを左手で受け止める。表紙の空と海は、こんな異常時でも僕の記憶を柔く擽ってきた。

 中学の三年間、僕は恋をしていた。七瀬さんは皆から頼られるバレーボール部のエースで、ショートカットのよく似合う元気な人だった。同じクラスになったことはないし、僕みたいな暗くて地味な図書委員と接点なんてできるわけがない。声を掛けることも顔を見ることすらも恥ずかしく、廊下から聞こえる彼女の声に耳をすますだけで精一杯だった。

 そんな彼女が二年生の夏休み明けから図書室へ通ってくるようになった。部活が休みの火曜日と金曜日。人気者の彼女に陰気な僕が好きな本や感想を訊けるはずがない。貸出と返却に必要な最低限の会話しかできなくても充分に幸せを噛みしめられた。貸出カードの名前を見ているだけで心が高鳴った。

 三学期が終わる頃に七瀬さんの借りた本が『そして伝説へ』だった。この本が大好きな僕は、彼女が借りてくれたことが嬉しくて、相当に舞い上がっていたと思う。彼女はこの長篇を三日で読み上げ、返却に来た。

「お、おもしろかった?」

 家で何度も練習した台詞を、上擦った声で何とか吐きだす。学校では一日中ほとんど話さない。喉から必死に絞り出した掠れ声に、彼女は溌剌とした笑顔を返してくれた。

「うん。面白かったよ」

 会話はたったこれだけ。それでも、僕は満足だった。彼女と話せたことも勇気を出せたことも、同じくらいに嬉しかった。

 三年では違う曜日の担当になってしまい、図書室の心温かな時間は静かに終わる。その後は一言も交わすこと無く、僕たちは別々の高校へ進んだ。引っ込み思案な僕は新しい環境に馴染めず、何度もめげそうになったが、彼女の笑顔を思い出すと自分を奮い立たせることができた。その積み重ねが自信となり、今では友人たちと楽しく過ごせている。

<伝説も英雄も平和からは生まれない。まずは災厄から始まる>

 災厄が災厄のままに終われば、それはただの悲劇だ。だが、その災厄の中で立ち上がり、乗り越えた時、それは伝説となる。『そして伝説へ』の中で、僕が最も好きなフレーズだ。ただの高校生の僕に災厄などという大それたことは数日前まで起こらなかったけれど、今の苦境は希望の始まりなのだと言い聞かせると、大抵のことに立ち向かえた。

 七瀬さんは中学の図書委員なんて覚えていないだろう。それでも構わない。ただとにかく生きていてほしい。彼女は令和ワクチンを接種できただろうか。図書室で借りた彼女の手元に本は無いはずだ。今もまだ、この本を探しているかもしれない。

 本当の災厄が訪れた。何もしなければ、このまま悲劇で幕を閉じてしまう。僕には英雄の器も探偵の素質も無い。でもせめて、彼女の物語だけは残酷な結末で終わらないように。

 僕は朝焼けの始まる世界へ飛び出した。

 

 *


淡藤に染まる雲は雅やかで、目元の前髪を揺さぶる春風は柔らかい。清純な四月の朝を眼鏡越しに味わい、拓真の表情から酸鼻が抜けていく。上着を羽織るべきかと一瞬迷うが、そんな時間的余裕は無い。濡れた靴下すら変えずに飛び出してきたのだ。足先を覆う生理的な嫌悪に耐えながら、玄関の階段を一歩で飛び降りる。

朝陽を待ち侘びる街からは、惨たらしい饗宴を窺い知ることはできない。だが、少し目を凝らせば、随所に死の形跡が残っている。開いたままの門扉や門前のタイルにへばり付く赤錆色の血痕は、両親どちらの物なのか。護身用として持ち出した傘を拓真の右手はきつく握りしめる。この世界のどこかで名探偵が既に糸口を見つけていたとしても、両親はもう戻らない。

愛でられることなく散った桜は誰とも知れぬ血を滲み込み、湿り気を帯びた臙脂となって排水溝の網を塞ぐ。黒光りする焚火跡には、焦げた本の残骸が燃えきれずに放置されたままだ。群青の炎も水色の燃え滓も見当たらない。

拓真は全神経を研ぎ澄まし、崩壊した街を駆け抜ける。割れた窓ガラス、散乱するゴミ、人間の抜け殻、倒れた石塀。必死に足音を抑えるが、自分の鼓動と呼吸が煩い。フードが規則正しくリュックを叩く音に、背後から忍び寄る化け物の姿を想起させられる。

麻美の家までは走れば10分程で着くはずだ。母親の代わりにクリーニング店へ行く際、家の前で呼吸が止まりそうになった日を思い出す。

「なああぞおおおわあああでええんんんぶううう」

ゾンビたちは音読を欠かさない。程近い場所から響く謎解きに足を止め、一本隣りの薄暗い道へ避けた。息継ぎも抑揚もない呻き声は薄気味悪いが、今の拓真にはそれが救いとなっている。

「本を盗んだ犯人は生徒会長だよ」

嫌がらせのつもりだったが、ゾンビは全員が既読なのだからネタバレにはならない。悔しさに顔を歪ませつつ、静まり返った細道を走り続けた。中学校の裏を通り過ぎざま、二階の図書室へ目を向ける。あの場所にあった一冊は誰かの命を救っただろうか。割れた窓の奥に青い炎の影を思い浮かべながら、白壁が並ぶ住宅地へと入っていった。

拓真の自宅周りよりは平時の状態を保てている。図書館と本屋から離れた立地が、人間の暴虐を遠のかせたのだろう。しかし、易々と全文を暗唱できるゾンビたちには無関係だ。油断はならない。

ポピー、サクラソウ、ガーベラ…可愛らしいガーデニングの花たちが、拓真を迎え入れる。五軒目の爽やかなライムグリーンの屋根。駐車スペースに車は無く、嫌な予感が過ぎる。

表札に『七瀬』の文字を確認し、インターホンのボタンを丁寧に押した。静まり返った世界では、屋内で鳴るチャイムの音すら喧しい。返答を待つ数秒が、拓真の恐怖を呼び起こす。勢いで飛び出したものの、麻美が生きて家に居るとは限らない。もしかしたら人間はもう自分一人しかいないのではないか。ゾンビに支配された街で大量のゾンビに喰われる姿を想像し、拓真は戦慄いた。

臆病風を断ち切るべく、再びボタンを押す。二度目の沈黙に押し潰されながら、ドアホンのカメラを食い入るように睨みつけていると、下方から小さな開錠音が鳴った。

「えっと…」

5cm程の隙間から覗く琥珀色の瞳が、一瞬にして懐かしさを呼び起こさせる。この真っ直ぐに澄んだ瞳の中に映りたいと希ったのだ。

「同じ中学の、その、」

「図書委員の…」

「そう、そうです!ありがとう、覚えてくれていて」

麻美の記憶に残っていた喜びに、つい笑みが零れる。ダークブラウンに染めた髪は中学時代より少し長く、ふんわりとした檸檬色のニットセーターが愛らしさを引き立てていた。感動に浸りかける心を奮い立たせ、一冊の本を差し出す。

「この本を渡しに来たんだ」

「本?」

「そう、これ。『そして伝説へ』。もう飲んだ?」

「え?よむ?」

「まだ飲んでない?」

「え?」

「令和ワクチン、飲んだ?」

「れいわ…?」

感動と興奮と焦燥が渦巻き、噛み合わない会話に取り乱す。困惑に顔を曇らせる麻美がワクチンについて何も知らないことは察したが、簡単に纏めて説明するには動揺が激しすぎる。

「この本を燃やして、その灰を飲むんだ」

「灰を?」

「そう、君はこの本を読んでいるから効くんだよ」

「その本!」

離れた場所から届いた突然の絶叫に、二人は反射的に身を竦ませる。隣家の扉から身を乗り出す女性の血走った目が、揺れ動きながらも一点を見つめていた。

「ねえ、その本なんでしょ?令和ワクチン、その本を燃やせば作れるんでしょ?」

徐々ににじり寄る隣人に対して、咄嗟に傘を身構える。これはまずい。図書館の前で見た獣たちの目だ。しかも本を奪われるだけでは済まないことに拓真は気付いていた。ゾンビは音を欲する。

「それ、私にちょうだい。子供がいるの。まだ2歳で、小さいの」

この本を二歳で読むことはできない。残念ながら彼女の子供に令和ワクチンは効かないが、そんな説明に耳を貸してくれるような精神状態だとも思えない。

「ごめんなさい。この本は渡せません」

「どうして!ねえ、頂戴よ!まだ子供なの!」

次第に声量を増す叫び声が、二人を焦りと失意に陥らせていく。見つかったら最後、全てを蹂躙される。

「アイツらが、来る」

女の喚声もゾンビの喊声も掻き消して、麻美の掠れ声は拓真の耳に沁み込んだ。ここで立ち止まるわけにはいかない。目を瞑り、麻美とリュックを全力で屋内へ押し戻す。麻美の瞳を見てしまったら、そこからフレームアウトできなくなってしまうだろうから。

「なるべく早く、この本を燃やして飲んで」

「島崎は?」

「僕はもう、飲んだから。それは七瀬さんの本だよ」

目的は達成した。だが、本を燃やし、ワクチンを飲みこむまでには多少の時間を要するだろう。状況を理解していなかった彼女が、今の拙い説明をすぐにでも信じてくれると願いたい。拓真にできることは、あと一つだけ。まだ、この足は前へ進める。

「鍵を締めて」

数秒の間を置き、背後で施錠音が鳴る。そこでやっと目を開いた。ゾンビの姿はまだ見えない。髪を振り乱した女が、狂気をはらむ目で拓真を睨みつける。

「ありがとう。七瀬さん」

名前を知ってくれていた喜びに胸の奥が熱く震え、視界がぼやける。麻美と初めて言葉を交わした、あの日と同じ充足感に包まれていく。彼女に本を渡せたことも勇気を出せたことも嬉しかった。

東雲色に変わりゆく早天へ、大好きな名探偵の決め台詞を叫ぶ。

俺様の推理には(天上天下)誰も抗えない(唯我独尊)!」

拓真は災厄に彩られた街へ駆け出した。


 *


あの日からずっと何が何だか分からなかった。先々週の練習試合で足首を怪我してから何だか部活に出たくなくて四月一日も家にいた。パパとママは仕事で沙織は友達と渋谷に行ったから、私は家で一人。ぼーっとTVを見ながら「へー、令和、かっこいいじゃん」みたいな独り言を暢気に言ってたと思う。だらだら昼寝して起きたら夕方のニュースで映画みたいな凄い映像が流れて、それでもまだのんびりアイスを食べた。でも夜になっても誰も帰ってこなくてLINEしても既読が付かないし、電話も繋がらない。完全にパニクって玲子に連絡して一緒に居てもらったけど、玲子も家に帰らないといけなくなって、それからずっと一人。周りの家の人たちも引きこもっているみたい。玲子からの返信も来なくなって香菜とノブと渉もダメで凄く怖かった。誰かに頼ってもらえたりすると頑張れるんだけど、一人だと私はいつもダメ。悪いことばっかり考えちゃう。包丁とかゴルフクラブとか家中から集めて、電気を付けたらアイツらが来るんじゃないかと思って真っ暗にしてたけど、島崎のノートを読むとアイツらは音に反応するみたい。それなら付けておけば良かった。


 ここからは丁寧な言葉で書くことにしました。島崎君みたいには書けないと思いますが、私なりに精一杯頑張ります。

 今朝、外が少し明るくなってきた頃、玄関のチャイムが突然鳴りました。もう世界には私とアイツらしかいないと思っていたので、とても怖かったです。でも、もしかしたら家族の誰かが帰ってきたのかもしれないとも思い、ドキドキしながらモニターを覗くと、映っていたのは島崎君でした。

 島崎君は中学の同級生です。他の男子とは違って大声で騒いだりしないで、いつも落ち着いていて、休み時間はよく本を読んでいました。中二の夏、初めて目が合った瞬間に好きになりました。俯き加減の大人っぽい表情と眼鏡の奥の優しい目が特に好きでした。

 卒業した後、駅で三回見かけたことがあります。でも、声を掛ける勇気が出ず、遠くから見つめるだけでした。久しぶりに目の前に立った島崎君は私より身長が高くなっていて、更にかっこよくなっていました。

 再会を喜ぶ時間もなく、興奮した様子で話す島崎君の言葉に戸惑っていると、アイツらが集まってきました。おろおろしていたら島崎君の鞄と一緒に家の中へ押し込まれて、島崎君とアイツらの声が遠くなっていくのを聴いていることしかできませんでした。

 鞄の中に入っていたのが、このノートと『そして伝説へ』の文庫本です。ノートを読み、島崎君も私のことが好きだったと知って、とても驚きました。私みたいな騒々しい女は嫌いだと思っていたから。嬉しくて嬉しくて、今も心臓がばくばく鳴っています。

 でも、私は島崎君に謝らないといけません。私は『そして伝説へ』を読んでいません。私が図書室に通っていたのは、本を借りるためではなく、島崎君に会うためでした。本の話題なら私と話してくれるかもしれないと思って最初は頑張っていましたが、部活で疲れた夜はすぐに寝てしまい、段々と読むページは減り、二学期の後半には借りて返すだけになっていました。

 島崎君と話したい。でも、話したら読んでいないことがバレてしまう。二つの意味でドキドキしながら、週に二回、図書室へ通いました。『そして伝説へ』を返した日のことは、私もよく覚えています。その時もまた一ページも読まずに返却しに行きました。島崎君の綺麗な指に見惚れていた時、初めて話しかけてくれたのです。

「面白かった?」

 突然のことに驚いてしまい、私はとても不細工な顔になっていたと思います。島崎君のハスキーな声は色っぽくて、ドキッとしました。

「う、うん。おもしろかったよ」

 じんじんするくらいに頬が熱くなって、嬉しくて恥ずかしくて、でも嘘を吐いたことが申し訳なくて、私は逃げるように図書室を飛び出しました。

 三年生になると島崎君はバレー部の練習と同じ曜日の担当になってしまい、本当にショックでした。それから図書室へは行っていません。卒業した後も、この日のことは何度も思い出しました。島崎君のことを想う度に胸がキュンとなって、少し嫌なことがあっても前向きな気持ちになれるのです。今度また会えた時には絶対に話しかけよう。そう決めていました。


この一週間で涙は全部無くなったと思ったのにポロポロと零れてきて止まらない。文字が滲んじゃった。せっかく沢山書いたのに。お昼から降り出した雨が窓にパチパチあたる以外、何の音も聴こえない。島崎の声も聴こえない。この街のどこかで今もまだ走り続けてるのかな。あの日「読まなかった」と素直に言えば良かった。そうしたらきっと、島崎は私のところへ本を届けたりしなかった。島崎を危険な目に遭わせたのは、私が見栄を張ったせい。「自分は飲んだ」なんて嘘までついて、かっこよすぎだよ。でも、名前を呼んでもらえて凄く嬉しかった。もう一度だけ呼んでほしい、なんてワガママだよね。


『そして伝説へ』の表紙は綺麗だけれど、やっぱり分厚い。三年前に読まなかった本。私には何の効果も無い本。島崎が大好きな本。<伝説も英雄も平和からは生まれない。まずは災厄から始まる>。この文章は、どんな場面で出てくるんだろう。読んでみたい。島崎が好きな本を読みたい。


今、思い付いた。もし今から読み始めて、頑張って最後まで読み切って、その後に燃やしてできた灰を飲んだら、令和ワクチンは私にも効くのかな。もう時間切れ?でも、やってみる価値はある。

私の物語を悲劇で終わらせないために、島崎は命を懸けて届けてくれた。ここで私が諦めたら、島崎の物語まで悲劇になってしまう。彼の物語が伝説になるように。

私は災厄から始まる世界へ飛び込んだ。

※『そして伝説へ』は読書メーター10周年記念オフ会【冬】前夜祭企画カウントダウン・リレー小説の作品1「助助文学サロンは今日も賑わっています」に登場した名著です。

リレー小説を未読の方は、ぜひそちらもお楽しみください。

星の文壇の皆様、無断借用の上に勝手な創造を大量に加えてしまったことを深くお詫びすると同時に、楽しい着想を頂きましたことを心より感謝申し上げます。

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