あまつそら
平成元年
彼と私は同じ病院で、同じ日に生まれた。
それは平成の始まりの日。
1989年の1月8日だった。
平成2年
この頃の写真は私一人で写っているものがほとんどない。いつも彼と二人並んで気持ちよさそうに眠っている。
平成3年
誕生日に彼は仮面ライダーの変身ベルト、私はセーラームーンのステッキを買ってもらった。仮面ライダーとセーラームーン、どちらが強いかで大喧嘩をした。
平成4年
保育園の遠足。あっちへこっちへフラフラと行ってしまう彼が迷子にならないようにしっかりと手を繋いでおく。
平成5年
学芸会でお姫様をやった。彼はなぜか予定の役には無い「木」をやりたいとゴネて先生を困らせていた。小人よりもよく動き回る木だった。
平成6年
晩御飯はどちらかの家で一緒に食べることが多い。今日は彼の家でカレーだ。おばさんのカレーは私の家とは違う味だけどとても美味しい。
平成7年
小学校に入学。知らない子がたくさんいる。
不安だけど、彼と一緒ならきっと大丈夫。
平成8年
毎日のように彼の家でマリオカートをする。
負けるのが悔しくて、私もクリスマスにマリオカートを買ってもらってミニターボの練習をする。
平成9年
彼の家の家族旅行に一緒に連れて行ってもらう。私がクラゲに刺されたせいで、海にはほとんど入れなかった。彼に謝ると、ぶっきらぼうに「別にいい」と返された。彼のお父さんが「来てくれただけで嬉しいもんな」と彼に笑いかける。「違うし!」ムキになる彼を見て笑っていると痛みも忘れるようだった。
平成10年
飼育委員になってウサギ小屋の掃除をするのが朝の日課になった。彼と一緒に一羽づつ名前をつけていく。「お前はリヴァイアサン。お前はベルゼブブ」彼が付ける名前は可愛くない。
平成11年
林間学校でカレー作りに失敗する。彼は水っぽいカレーを「スープカレーだな」と笑いながら食べてくれた。彼が切ったジャガイモは大き過ぎるしゴツゴツしていたけど美味しかった。
平成12年
修学旅行の夜。彼との関係を友達に聞かれたが、よく分からない、としか答えられなかった。こういう話は苦手だ。彼は部屋で枕投げをして障子を破いたらしく先生に怒られていた。バカだ。
平成13年
中学校に入学。なんと、初めての中間テストで彼に負けた。彼の名前は上から3番目に載っている。こんなに勉強ができるとは知らなかった。次は負けない。
平成14年
部活の休憩中、炎天下の校庭から彼がいる教室を遠目に覗く。彼は科学部の友人と楽しげに話している。そういえば、科学と言えば白衣だ!と言って入部してすぐに白衣を買っていたが着ているのは彼だけだ。暑そう。
平成15年
近くの河川敷に彼と花火を見に行く。クラスの友達にも誘われたけれど、昔からこの花火は彼と見に行くと決めている。彼が一人で花火を見るのは可哀想だから私が行ってあげないと。
平成16年
高校も同じ学校を選んだ。校舎前の掲示板を見ると違うクラスだ。ちゃんと友達作れよ、と肩を叩かれる。余計なお世話だ。
平成17年
彼が同じクラスの女の子に告白されて付き合い始めた。心の何処かでそんな事はあり得ないと思っていた。別に彼のなんでもないのに。なんであんな子と、そう思ってしまう自分がとても嫌いだ。
平成18年
彼女とは別れた。自転車置き場で会った彼がポツリと言った。なんと返していいか分からず、そう、とだけ返事をする。彼は次の春から遠くの大学に行ってしまう。
平成19年
彼とこんなに会わないのは生まれて初めてだ。
母や友人に魂が抜けているようだと言われた。
平成20年
一人暮らしをしている彼の街に泊まりがけで遊びに行く。昼にぶらぶらと観光をして、夜はマリオカートをやった。惨敗。一人暮らしで散々やり込んでいるらしい。大学生なんだから勉強をしろ。
平成21年
なあ、付き合わないか。
うん。別にいいけど。
花火が途切れた一時の静寂。その間のあまりに色気がないやりとり。でもきっと私達はこれでいい。大輪の花が咲き誇る夜空を見上げながら、そっと彼の手を握る。
平成22年
彼氏彼女として過ごす初めてのクリスマス。
何か変わるかと思ったけど、今までと何も変わらない。二人でマリオカートをやった。圧勝。隣で悔しそうにしている彼を見下すのが気持ちいい。惨敗してから練習したのだ。ざまぁみろ。
平成23年
彼は警察官に。私は司書に。
働き出して日々が慌ただしく過ぎていく。
制服に身を包んだ彼はちょっとだけカッコいい。絶対言ってやらないけど。
平成24年
デパートでたまたま彼を見つける。悪戯心が沸き後をつけるとアクセサリー売り場に向かった。ショーケースから出してもらったネックレスを慣れない手つきで触りながら、店員さんと真剣に話している。来月は私の誕生日だ。声はかけないほうがいいだろう。帰り道、思わずにやけてしまう。
平成25年
仕事にも慣れてきたので二人で部屋を借りて暮らし始めた。何もない部屋に二人並んで寝転がる。ふいに赤ん坊の時の写真を思い出して笑った。三つ子の魂なんとやら、だ。
平成26年
今日の晩御飯なに食べたい?
オムライス。ご飯俺が炊いとく。
分かった。それとね子供ができたの。
返事はない、聞こえていなかったのかと思い、もう一度言おうとしたら、強く抱きしめられた。溢れそうになる涙を見られないように彼の胸に顔を埋める。
平成27年
息子が生まれた。彼は顔中涙や鼻水でくぐちゃぐちゃにして泣きながら笑っている。なんて顔だろう。思わず笑ってしまった。
平成28年
息子の名前は「成平」と名付けた。
少し安易な気もしたけれど、平成という時代と一緒に生まれ、同じ時を過ごしてきた私達夫婦とってこれ以上に大切な漢字はない。
平成29年
風邪をひいて動けなくなった。
感染らないように成平は実家の両親に預け、久しぶりに彼と二人で過ごす。彼が作ったお粥はカレー味だった。悔しいが美味しい。
平成30年
三人で海に行く。クラゲに刺された私に成平が心配そうに、大丈夫?と聞いてくる。
ママは刺され慣れてるから大丈夫だ。
慣れるわけないでしょ。
そんな会話をしていると20年近く前の旅行の思い出が蘇ってくる。あの時と同じ景色を、彼と一緒に見ている。いつか成平も誰かと一緒にこの光景を見るだろうか。そんな事を思いながら優しい息子の頭を撫でる、ついでに彼の頭も乱暴に撫でてやる。
平成31年
彼が◾️◾️◾️◾️炎◾️◾️◾️◾️◾️手◾️◾️
平成32年
仕事が忙しいのか帰りが遅い日が続く。
彼の好きなオムライスを作って待つ。
平成33年
初めての授業参観。なぜか息子よりも父親である彼の方が緊張している。教室に入るときに同じ側の手と足が一緒に出ていた。
平成34年
成平が怪我をして帰ってきた。友達と喧嘩をしたのだろうか。彼は男同士の方が話しやすいだろ、と息子の部屋に入っていく。今日は成平が好きなカレーにしよう。
平成35年
市民会館に成平の絵を見に行く。
彼は周りにいた知らない人にまで、この絵私の息子が描いたんですよ、と話しかけていた。恥ずかしい。
◯
「あ、ちょうど息子様がいらっしゃったみたいです。私、お迎えに行ってきますね」
お願いね、と安楽椅子から微笑む彼女に小さくガッツポーズを返して部屋から出る。
この老人ホームで働き始めて二週間になる。何人か担当するお客様を受け持っているが、中でも彼女はひ孫ほど年が離れた私にも気軽に話しかけてくれるので、いつもついつい長話をしてしまう。
それに、彼女が話してくれるご主人と過ごした平成の思い出。その話の中の二人はとても幸せそうで、聞く度に心が温かくなる。
受付で待っていた彼女の息子は、白髪を短く切り揃えた品の良い老紳士だった。さっきまで彼が生まれた時や小さな頃の話を聞いていたからだろうか、初めて会ったのに妙な親近感を覚えてしまう。
「初めまして。今月からお母様を担当させていただいている吉野です」
「よろしくお願いします。息子の成平です」
優しげな笑みは彼の母とそっくりだ。
「お住まいはお近くなのですか?」
「いえ、今は海外で暮らしています」
「え、ここまで来るにもずいぶん遠いですよね?」
「そうですね。でも、月に一度は必ず母の顔を見に来るようにしています」
「それは……凄いです。本当にお母様を大切にされているんですね」
「本当はむこうで母も一緒に暮らせればと思っていたのですが、父と暮らしたこの土地をどうしても離れたくないようで」
部屋に向かう道すがら、成平さんとそんな雑談をしながら歩いていく。話がひと段落し、少しの沈黙が生まれたところで、気になっている事を聞いてみた。
「今日はいらっしゃらないようですが、お父様はまだこちらで暮らしているのですか?話を聞いていると本当に仲のいいご夫婦で、どんな素敵な方なのか気になってしまって」
並んで歩いていた成平さんの足が止まった。
何気なく振り返ると、成平さんは静かに目を伏せていた。私の戸惑いを受け止めるように視線を上げた彼の瞳に現れていたのは──深い、悲しみの感情だった。
「申し訳ございません。私なにか失礼なことを……」
すぐに普段の表情を取り戻した成平さんは笑みを浮かべたが、その笑みは強張り、お世辞にもいい出来とは言えなかった。
「いえ、よく母の話し相手になって下さっているのですね。きっと母も吉野さんには心を開いているのだと思います」
言葉の意図が分からずに素直に頷いてしまう。
「はい、今日も先ほどまでお話を。えっと、息子様の絵が飾られているのをご主人と二人で見に行ったと。平成35年としっかり年数まで覚えておいででした」
吉野さん。落ち着いた、けれど重みのある声で成平さんは私の名前を呼んだ。その声は、これから伝えられる事の重みを否が応でも私に理解させた。
「平成は31年までなのです。母の言った平成35年は存在しません。そして、父は私が賞を取ったその絵を見ていません」
平成35年は存在しません。
──幸せそうに思い出を語る彼女
その絵を見ていません。
──成平さんの悲痛な表情
じわりと嫌な予感が染みのように広がっていく。ただの勘違いならいい。成平さんが、母もボケてしまって、と苦笑してくれるなら。
「父は母にとって自分自身よりも大切な存在だったのだと思います」
その先を聞いてしまえば何かが壊れる予感がした。だけど、私にその言葉を遮ることはできない。
「だから……母は耐えられなかった」
彼はそこで一度言葉を切ると暫しの間を置いて、言った。
「私の父は平成31年にこの世を去っています」
◯
あの日の記憶は忘れる事が出来ません。
家族三人で夜桜を見に行った帰り道。
炎に包まれた家。
娘を助けて、という女性の悲痛な叫び。
走り出そうとした父の手を母が握って止めました。行かないで、と。
父は一瞬躊躇したようでしたが、私の肩に手を置き、母に笑いかけ、言いました。
大丈夫。待っててくれ。
母の手を振り切り、炎に向かって走っていく父の背中。
それが、私と母が最後に見た父の姿です。
翌朝。何事もなかったかのように三人分の朝食を並べ、いつも通りに笑う母の姿を見て、母に起きている異常に気がつきました。
母には、父がいなくなってしまったという事実を受け入れる事ができなかった。
だから、父の死を無かったことにした。
一緒に生まれ、育ってきた平成という時代を終わらせないことで、自分の中で父を生かし続けている。母は今も父と共に平成を生きているのです。
話を終えてから彼女の部屋まではお互い無言で歩いた。彼女の部屋の前で成平さんは、これからも母をよろしくお願いします、と深々と頭を下げた。慌てて私も頭を下げる。お客様の前で泣く訳にはいかない。だけど、彼女の想いを考えると涙が滲んでくる。
幸せだった彼女の人生に起きた突然の喪失。それは彼女が現実から目を背けるには十分過ぎる痛みだっただろう。
部屋に入っていく成平さんの背中越しに彼女の声が聞こえる。
平成65年 彼がネックレスをくれた
平成66年 彼と花火を見た
平成67年 彼と海へ行く
平成68年 彼と──
いつもとは違う虚ろな表情で言葉をこぼしていく彼女の口がふいに動きを止めた。
彼女は安楽椅子に座ったまま虚空に手を伸ばす。まるで、そこにあるはずの何かを探し求めるように。
◯
遠くの方で除夜の鐘が聞こえる。
また一つ、年を越えたようだ。
なぁ、今年は平成何年だったかな。
隣で彼が聞いてくる。そんな大切な事を忘れてしまうなんて、いよいよボケてきたようだ。
今年は平成96年ですよ。
ああ、そうか。
随分と遠くまできたもんだ。
その声色がいつもと違う気がして隣を見ると、 そこには少年の姿の彼が座っていた。
はてと首を傾げてみれば、私もセーラー服に身を包んだ学生時代の姿になっている。
泥だらけで走り回った保育園の園庭。
ぶかぶかの学生服に身を包み歩いた桜並木。
二人で花火を見た河川敷。
慣れない晴れ着に照れながら並んだ結婚式場。
思い出の景色が次々と通り過ぎてゆき、私達の姿も目まぐるしく移ろっていく。
本当に。長い長い日々でした。
ぼんやりとその光景を眺めていると、不意にそんな言葉が口をついて出た。なぜだかその言葉はとても重く、切ない響きとなって胸を打つ。
そうだ、とても、とても長かった。
悪い、ずいぶん待たせたな。
立ち上がった彼が私の方に手を差し出す。
あの日。彼の手を離してしまってから、彼を探して何度も虚空に手を伸ばした。
どんなに手を伸ばしても掴めなかった。
会いたかった。
話したかった。
笑いかけて欲しかった。
寄り添っていたかった。
そして──手を握って欲しかった。
彼の方へと手を伸ばす。
どうか今度こそ彼に届けと強く願った。
指先が触れ、微かに灯った温もり。
その温もりを頼りに彼の手を力一杯握りしめる。
その手の暖かさがとても懐かしく感じた。
今度は絶対に離さないから。
睨みつけるようにそう言ってやると彼は笑い、私の手を引いて走り出す。 景色が塗り変わり、見渡す限りに広がった草原を私達は駆けていく。
どこまでも軽やかに。
いつまでも止まることなく。
どちらからともなく上がった笑い声が、風に吹かれて流れていく。
長かった平成は終わり、新しい時代がやってくる。
新しい時代も。
その次の時代も。
そのまた次も。
きっと、ずっと、あなたと一緒に。




