近くて遠い
ああ、もう、何だったっけな!
積読の山を見回しながら綾香は考える。
確か最後は火事の場面だった。ノストラダムスの予言があるから2000年は来ないと思っていたみたいなセリフがあった。宇宙船が出てきて、不安で苦しくて、それでも生きようって思うような小説で。何てタイトルだったか全然思い出せない。そもそも積読の中にあるのかさえ不安になってきた。
何か検索したらヒントが出てこないかと手を伸ばしたスマホにメッセージが表示される。
“この前話していたマンガ、やっぱりうちにあったから持っていくよ!これから行っていい?”
幼馴染の由衣からの連絡だ。小学校からの仲で、だからもう、ええと、20年近い付き合いの親友。
周りのすこし崩した積読の山を見回しながら、指先で返事をする。
*
そもそもこの本を読みたいと思ったきっかけは、昨日久しぶりにあの駅に降りたことだった。
その駅は私の通った高校の最寄り駅で、通勤経路とは別方向にあるものだから、そこに至るまでの電車内の雰囲気も、アナウンスの駅名も、車窓も、すべてが懐かしい。
そうそう、この駅から空くから座って本が読めるのだったな。気分は高校生に戻って鞄を膝に乗せて文庫を取り出す。
そこでなぜ読んでいる本に集中せずに懐かしい本を思い出すことになったかというと、隣に座っていたお兄さんが読んでいた本のせいなのだ。私の隣に腰を下ろすなりすぐに鞄から取り出したその本は、カバーがかかっているけれども、ちらりと見える章タイトルから想像するに私と同じ本なのではないか。気になってページが進まない。テンポよくページをめくって小説の世界に潜り込んでいくお兄さんが羨ましい。羨ましい、と思っているうちにお兄さんは4つ目の駅で降りてしまったのだが、それで思い出したのだ。
前にもこんなふうに電車内で同じ本を読んでいる人を見つけたことがあった。
ちょうど、ノストラダムスの予言がどうとかいうセリフを読んでいるあたりだった。
*
玄関のチャイムが鳴って由衣が部屋まで上がってくる。
「マンガ持ってきたよ。いやあ、相変わらずというか、いつも以上に積読がすごいねえ。」
読みたいとは思ってるんだよ、なんて言い訳をしながら2人分のお茶を用意する。
20冊ものマンガを紙袋から取り出しながら、由衣があまりにも私の崩した積読を眺めるものだから、続く言葉までなんだか言い訳めいた口調になってしまった。
「だって探してる本があって積んでいる本を崩していたらこんなことになっただけでさ、普段からこんなに本棚の前に積んだりはしてないんだってば。」
思わず続けて聞いてみる。ねえ、思い当たる小説ないかな。ノストラダムスの予言があるから2000年は来ないと思っていたみたいなセリフがあって、宇宙船が出てきて、不安で苦しくて、それでも生きようって思うような勢いのある小説。
なんだその抽象的な説明は、と由衣は笑う。それじゃ思い出せないってば。
つられて私も笑う。そうだよね、ごめんごめん。ただ私は私のこの無謀な探し物を笑ってほしかっただけなのだと思う。
お菓子を食べてお茶を飲みながら、自然とお互い静かに本や漫画を読み始める。
何も言わなくても今はそれぞれ読みながら一緒に時間を過ごせる。自然とそういう空気になるのが由衣といてとても気が合うなあと思うところのひとつだ。
窓の外では昼過ぎの青空に白い月が浮かんでいる。
*
そういえばさ。
静かな部屋で突然、ふと由衣が話し出す。
さっき綾香が言ってた探してる本ってこれじゃない?
その手には1冊の文庫本。淡い緑色の表紙の。受け取ってパラパラとページをめくってみる。
そうだこれだ!読みたかった本!
「この本、さっきタイトルを見つけたときに私も読んだなと思って懐かしくて本棚から取り出したんだけどね、私が持っている本と表紙が違かったの。それで気になって数ページ読んでみたら、さっき綾香が言ってたような話だったから。」
「へえ。由衣のはどんな表紙なの?」
「たしか夜だったよ、遠くに街の光が見える夜の道の空に三日月が浮かんでいる絵だったはず。」
「だいぶ違うなあ。そういえばこの本に出てきた月って三日月だったっけ。」
「そんな細かいところ覚えてないよ。あ、そういえば印象に残ってるのが、はんぺんをチャーハンに入れるとおいしいって話。同じ白だから混ぜてみたって誰かが言っていて本当にやってみたらおいしかったの」
「え、そんな話あったっけ。よく覚えてるなあ」
こうやって私たちの会話は、ゆるやかに繋がりながら続いていく。なんの実りもない、ただ今を満たすだけの会話。私たちの会話はいつだってこんなだった。
*
しばらく表紙を眺めていた由衣が、おもむろに話し出す。
「ねえ、この本にさ、主人公の友達で男の子が出てきていたの覚えてる?ずっと好きだ好きだって騒いでた奴。前に読んだ頃はあれは馬鹿だって思ってたんだけど、今思えば本当にすごいなって思うの。」
うん。
「最近ね、好きな人がいるんだけど、一緒にいてもなかなか好きって言えなくて。
いろんなこと考えて、話したいことも伝えたいこともたくさんある気がして、でも結局は
とても会いたいだけで、会ったら一緒にいたいだけで。
何も言えないのにそこにいることがとても幸せで満足してたこと、後で後悔したりするんだ。
帰り道になると、今日こそ気持ちを伝えればよかったってずっと考えてる。
あのタイミングでこう言えばよかったかなとか、次に2人になれるのはいつだろうかとか、それまでに誰かのものになってしまったら諦められるかなとか。
ずっとそのことしか考えていなくて、歩きながらそれしか考えられなくて、それで、
あぁ私恋してる、あの人のことが好きだ、って認めたの。」
「例えばもしノストラダムスが今日現れて大予言をして、平成でこの世界が終わるっていうなら、私」
一息吸い込んで、彼女は笑う。
「世界が終わる前に2人で朝まで過ごしたい。」
つられてこちらまで笑ってしまう。由衣って時々びっくりすることを言う。
夕陽のあたるその横顔を見て、私たちは大人になったな、と思う。ノストラダムスが何を言おうと世界は終わらない。いろんなことが変わって、流れるように過ぎていく。
こんな会話だって後から振り返れば、あの時を埋め尽くす時間の一部にしかならない。
ふと見上げたそこに、燃えるような赤。
普段もそこにあったのかもしれないけれど、今日は一段と鮮やかな赤。
*
「この本、見つけてくれてありがとう。あと、マンガもありがとね。」
この本を読み返してみるよと宣言をする私に、平成のうちに読み切れるかな、と由衣がいたずらっぽく笑う。
元号が違うって、ひと時代変わるようなイメージだったけれど、こんなに滑らかに変わっていってしまう。
遠いようでとても近い。だけど、後で振り返れば決定的に違うのかもしれない。
「またね」
手を振って別れる。いつか終わるものは、いつだって次に繋がっている。
東の空に月が昇っていく。
*




