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青く、白く、そして淡い

 2019年、3月。

 未だ冬の寒さを色濃く残す青空の下、今とばかりに若い男女の声が飛び交う。

「やだあ、これで離ればなれなんてえ」

「絶対連絡するから」

「先輩たちがいなくなっちゃったら一気に寂しくなります」

「今度そっち遊び行くから泊めてくれよな」

 渦中におらずとも畳みかけてくるような喧噪から逃れるように、信一郎は足早に人の集まる校庭から抜け出す。どこに行こうかと一瞬迷ったが、結局足を向けたのは行き慣れた科学部の部室だった。ここなら静かに過ごせる、そんな彼の目論見通り無人の部室は、北向きの大きな窓からは日が差し込まないからか、いつも通りじとりと冷えている。それを気にもせず、机に荷物を放ると、彼は椅子にどかりと腰掛けて大きく息をついた。

 と、つかの間の安寧は、ドアをがらりと開ける音にあっけなく破られる。

「信、発見」

 中に入ってきたのは隣のクラスの綾子だった。信一郎とは中学、高校と6年間の付き合いで、若干(と本人は言い張っている)人付き合いに関しては不器用な信一郎の、唯一の気のおけない友人だった。

「なんだ、お前か」

 机の上に上半身を投げ出したまま、顔も上げずに信一郎が答える。

「なんだとはなによ、全く。こんなとこまでわざわざ来てあげたのにー」

「こんなとこまで俺を追っかけにくるのはお前くらいだよ。お疲れさん。もう帰っていいぞー」

「なによう、ケチ」

 つれない信一郎の態度を気にもとめず、綾子は信一郎の隣の席に陣取って天井を見上げる。

「信は東京の大学行っちゃうんでしょ?ゆっくり時間とって会えるのなんて今日くらいなんだから、ちょっとくらい良いじゃない」

「……そう言って、めんどくさい奴らから逃げたいだけだろ。お前は」

「それはお互い様でしょ」

 盛大なブーメランを喰らい、信一郎がむっと押し黙る。綾子は天井を見つめたまま、はあっと大きなため息をついた。

「にしても、さあ」

 ぐうっと大きく伸びをして、綾子は信一郎に倣うように机に突っ伏した。そのまま、机に額をぐりぐりとこすりつけると、再度大きなため息をつく。

「にしても、なんだよ」

「……うん」

 いつにもまして歯切れの悪い綾子の物言いに、信一郎はようやく綾子の顔を見た。いつも明るくニコニコしている彼女も、卒業式の日くらいは感傷的になるのだろうか。明るい笑みは影を潜め、まるで感情をどこかに置いてきたような、凪いだ目をしていた。

 かと思うと、信一郎と目が合った瞬間、おどけたようににかっと笑ってみせる。

「あーあー。しんっじらんないよねえ!卒業よ、卒業!まあよくも私みたいなのが無事卒業できたもんだと思うわよ、自分でも」

「本当にな。誰のおかげだと思っている」

「はいはい、信様神様仏様。ぜーんぶ貴方様のおかげですよっと。……でも、さ」

 言い淀んで、ふと唇の端に陰った笑みを浮かべた綾子に、訳もなくドキリとして、信一郎は慌てて目を逸らした。

「……でも、何だよ」

「いや、……終わっちゃうんだなーって。高校生活」

「そりゃ、……」

 当たり前だろ、と、言いかけた言葉は信一郎の口から出ることはなく。行き場を失った呼吸を呑みこんで、もう一度机に突っ伏した。

「……信」

「なに」

 顔を上げなくてもわかった。机の木目を間近で見ていた目を閉じる。隣にいるこの悪友の存在をなかったことにしたくなった。でも彼女は止まらない。

「終わりたくないなあ」

 耳を塞いでおかなかったことを後悔する。

「……なんだよ今更」

 声も、視界もぶれないように、信一郎は全神経を集中させなくてはならなかった。


 引っ越しと入学準備に追われ、信一郎の3月はあっという間に過ぎていった。

 3月24日、引っ越し前日。荷物の整理は大体終えている。随分と物のなくなった、段ボールだらけの部屋に座り込むと、なんとなく寂しいような、不安なような――なんとも言い表しがたい感情を追い出すかのように、信はため息をついた。今日は親も出かけており、家には誰もいない。……少しくらい、感傷に浸る時間もあってもいいかもなあ、とそんな風に思った。

 しかし、そんな静かな時間は長続きしなかった。無遠慮なチャイムの音に、信は段ボールの砦から這い出す。今日は来客の予定はなかったはず。宅配便か何かか、はたまた。

「あ、信。いた」

 玄関ドアの向こうに見えたのは見慣れた、しかし制服でないがゆえにどこか新鮮にも感じる少女の姿。引っ越し前日の静かな時間を諦めざるを得ないと悟った信一郎は、ほっとしたような、腹立たしいような気持ちを引きずった半眼のままドアを開けた。

「いた、じゃないんだけど。何しに来たの」

「信、明日引っ越しでしょ?なんか手伝うことあるかなーって。ラインしたけど全然既読つかないし、直接来てみた」

 そういえば、と昨夜ベッドの枕元に充電したまま放置しているスマホの存在を思い出す。それにしても、てっきり邪魔をしに来たのかと思えば、本当に親切心からの申し出だったらしく、彼女の手の中の透明なビニール袋からは、鋏やビニール紐、ガムテープなどが透けて見えている。新品でないのは、家から持ってきたからなのだろう。いつも自分とつるむときには何もしないか、ただ駄弁るか、もしくは何の意味もないことをやるかくらいしか動かない彼女の、いつになく殊勝な態度に、信一郎は少し動揺した。

「残念ながらないよ。もうあらかた準備は終わってる」

 そういうと、彼女はがっかりと肩を落とす――かと思われたが。信一郎の予想に反して、彼女はにっこりと満足げに笑った。

「そっか。さすが信。……じゃあ、はいこれ!」

 彼女は、引っ越しの手伝い用品の入った袋とは逆の手に下げた紙袋を笑顔で差し出す。

「何、これ」

「ケーキだよ」

「はあ?」

 想定外の言葉に、信一郎は言葉に詰まる。なんで、と理由を問おうとした口が、今日の日付を思い出して寸前で固まった。

「信、しあさって誕生日でしょ。ちょっと早いけど餞別と誕生日祝いと進学祝い兼ねて、お祝いのケーキ買ってきた。あ、ちゃんとろうそくもつけてもらったよー」

 差し出された袋を受け取って、予想外の重さに信一郎は手に嫌な汗を感じた。


 綾子の手土産のケーキはまさかのホールケーキだった。遅い朝食を終えたばかりだった信一郎は、後でおすそ分けするからとケーキを冷蔵庫に仕舞ったのだが、準備が終わっているなら今すぐ食べようと強引に言い張る綾子に根負けし、再度ケーキを冷蔵庫から取り出した。箱に貼られたシールには、彼女の家の近くで何度も見たロゴ。箱から取り出したケーキはごく普通のイチゴのショートケーキで、何かサプライズで突飛なケーキが仕込んであるのではと半ば疑っていた信一郎は密かに胸をなでおろした。お皿に移し、切り分け用のケーキナイフとともに部屋に運ぶと、綾子はすでにテーブルについていた。

「あれ、信、ろうそくなかった?」

 信一郎の手元のケーキを見上げ、綾子が首を傾げる。

「いらないよ。子供じゃあるまいし」

「ダメよ、誕生日のケーキにはろうそくって相場は決まってるのよ。私取ってくる」

 綾子はさっと立ち上がるとキッチンに速足で向かう。そんな彼女の様子を横目で追うと、勝手知ったる他人の家を我が物顔で歩くその口元が若干緩んでいる、ような気がする。

 果たして綾子が持ってきたのは、普通のケーキ用のろうそくではあったのだが。

「うわ、これ全部乗っけるつもり?」

「勿論。さ、信も手伝って。18本、並べるんだから」

 四角い「Happy Birthday」のチョコプレートと、18本のろうそくを同居させたショートケーキはなんだか滑稽で、綾子は自分が仕組んだことなのにこらえきれず吹き出していた。

ろうそくと一緒に台所から持ってきたらしいライターで、綾子が袖を焦がさないように苦労しながらろうそくに火をつける。電気を消してもまだ明るい室内で見る炎は、なんだかとても頼りなく見えて、信はその存在を確かめるように手をかざした。仄かな温かさが伝わってくる。

「信、一気に!吹き消して!」

「いや無理だろ!」

 文句を言いながらも大きく息を吸い、ろうそくを吹き消す。惜しくも端の2本が消えずに残り、大きく炎を揺らめかせた。


「うーん。もうおなかいっぱい。ごちそうさまー」

 結局、15号のホールケーキは残り半分といったところで綾子のギブアップ宣言がでた。ちなみに食べた半分のうち、2/3以上は綾子の胃袋の中に収まっている。これではどちらが祝っている側なのかわかったものではない。信一郎は残ったケーキにラップをかけながら、この穴だらけのケーキを親になんと説明しようかと頭を悩ませていた。

「綾子、これちょっと持って帰る?」

「えぇぇ……今、もう3日分くらいケーキ食べた気分……」

 おなかが苦しいのか、段ボールにもたれて眉を寄せている綾子が弱々しい声を出す。

「じゃあこんな大きいの買ってこなくても……」

「だって、大きさよくわからずに予約したらこのサイズだったんだもん」

「なんで予約する前に店員に聞かなかった……ってか、予約してたのかよ。今日来るともなんとも言ってなかったのに」

「言ってなかったっけ?」

「いつ言った」

「引っ越し前にはもう一回会いに行くって言ったじゃん」

「ほんとの前日に来るとは聞いてないぞ」

「んー。まあ、いいじゃないの。結局、こうして一緒にケーキ食べれたんだし」

 一体、こいつの頭の中はどうなっているんだろう、と、この数年、信一郎の中に幾度となく浮かんだ疑問が再度頭をよぎる。脳内お花畑ってこういう奴のことを言うのか。

 そんなことを思った次の瞬間、ふと綾子の瞳が陰る。ためらうようにきゅっと一度すぼめられた唇に、信一郎は咄嗟に彼女から目を背けた。

「ねえ、信」

 どうして、彼女は。いつもこうなのだろう。いつも明るくニコニコしながら最高に突拍子もないことを言い出す。一緒に意味もない、くだらないことをやって大笑いしていたかと思えば、一瞬のすきにどこか陰りのある眼差しを見せたりもする。そんな彼女に最初は少しの戸惑いを覚えたのだった、と今更ながらに思い出す。それでも、彼女の隣にいる時間が一番居心地がよくて、いつしかそれも気にならなくなった。いや、気にすることをやめたのだった。それなのに、何故、今はこんなにも、この眼差しに、動揺するのだ。

「信は、さ、」

 目を逸らしたはずの彼女の唇に、いつの間にか視線がくぎ付けになっているのを自覚する。

「……私のこと、好きだった?」

 やけに、静かな声だった。


 すぐに返す言葉が見つからず、信一郎は黙り込んだ。いや、正確を期すならば、返すべき気持ちの、それを形容するための言葉が見つからないのだった。それは、信一郎がかつて探すことを諦めた言葉で。

 黙り込む信一郎に、綾子は何も言わずにどこでもない中空を見つめるばかりだった。

「……好きか、嫌いかと言われると、困る」

 やっとそれだけの言葉を絞り出す。綾子の視線が自分に向いたのを感じた。少ない言葉に当てはめるのを諦めて、信一郎はぽつぽつと話し出した。

「そりゃあ、嫌いではないし、一緒にいるのは好きだ。正直、お前といるのが一番何も気にしなくていいし、居心地がいいよ。お前が隣にいるのが当たり前のような気がしてるくらい。進路が分かれるってわかる前は、これからもずっと一緒なんだろうなって思ってた。……でも、」

 言葉を切る。未だにはっきりとしない、言葉にならない気持ちのすみっこを、なるべく壊れないように、気を付けながら呼吸に乗せる。

「……別々になるって知って、考えて、……気づいた。この先ずっと一緒にいるっていうことが、恋人になって結婚して子供つくって、そういうことだとしたら、……それは全然想像できなかった。だから……ごめん」

 伝わるだろうか。この拙い言葉で。彼女の顔が見られない。彼女の唇から首筋にかけてのシルエットだけが、妙に鮮明に見える。

「……そっか。うん、そっかあ」

 ややあって、聞こえた彼女の声は、揺れているわけでも、滲んでいるわけでもなくて。どこか晴れやかにも聞こえるその声につられるように、目線が上がる。

 見慣れた笑顔が、あった。

「……綾子?」

「信、私も、信と一緒にいるのが一番落ち着くよ。女子の友達と一緒にいるより、多分ずっと居心地がよくて、どんなバカやっても馬鹿にせずに一緒に笑っていられるのは、信くらい。だからさ、たとえば信も私も就職して、結婚して、子供ができて、お互いめちゃくちゃ忙しくなっても。たまに会って、またバカなことやって、それで笑っていられたらいいなあって」

 想像する。いつかの、近いかもしれない未来。――彼女の言葉通りになったら、それはなんて素敵な未来なのだろうと。

「……そうだな。それは、楽しそうだ。……でも、」

「……でも?」

「そんな先になる前にまだまだ会えるだろ。俺だってちょくちょく帰ってくるし、お前も顔見せに来るんだろ。いや、都会見物だったか?」

 わざと軽い調子で投げた言葉に、彼女の明るい声が重なる。

「あったりまえじゃない!」


 その後はひとしきり他愛もないおしゃべりに興じ、ふと時計を見るともう夕方だった。時計を目にしたついでに、カレンダーが目に入ったのか、綾子は突然話題を変えた。

「そういえば、新しい元号は4月1日に発表だっけ。あと数日だね」

「そうだなあ。元号が変わるって、正直想像できないけど」

「そうだよね。私たち、生まれた時には平成だったんだし。……あーあ、平成も終わっちゃうのかあ。高校生活も終わっちゃうし、信も遠くに行っちゃうし。こんな一気に変わったら、生活激変だよね」

「いや、お前自分だって専門進むんだろ。それが一番でかいんじゃないのか」

「まあ確かにそうだけど」

 それから、思いついたように綾子は信一郎に向って、縦に握った手を向ける。

「さて、貴方は平成最後に何をしたいですか?」

 向けられた手はどうやらマイクの代わりだったようだ。信一郎はううんとひとつうなると、綾子に向き直る。

「何にもしなくてもいいかな。別に死ぬわけじゃないし。……ああ、でも、お前といたら、何かしらやらかしてくれそうで楽しそうだ」

 その言葉に、彼女はにやりと口角を吊り上げた。


 結局綾子は夕飯前に帰っていった。時間が早いとはいえ、すでに暗くなりかけているあたりの様子を見た信一郎は送ろうかと申し出たのだが、それを固辞して綾子は1人帰路についていた。

 何度も後ろを盗み見て、彼の姿がないことを確認し、じわりと滲む視界を手の甲で擦った。

 やっと、やっと聞けたのだ。言えたのだ。――間に合った。

 いつしか、どの友達よりも近く、気安く感じるようになっていた。初めてだったのだ。異性の友人といる時間を、こんなにも居心地がよいと感じたのは。

 純粋な、友情、もしくは恋情、ではなかったのかもしれない。でもそれすらも、自分ではよくわかっていなくて。彼はどう思っていたのだろう、と、そればかりが妙に気になって。それでも聞く勇気が出せない自分を鼓舞するために、柄にもなくホールケーキなんかを予約したりして。連絡しなかったのはわざとだった。いなかったら、諦める。そう決めていたのに、チャイムを鳴らしてすぐに現れた彼の姿は、忌々しいほどにいつも通りで。だから、いつも通りの自分の笑顔が、自然と浮かんだ。

 恋人として隣にいることは想像できない、という彼の言葉に、どこか納得している自分がいた。あの時言った言葉は、嘘ではなかった。彼と恋人になって、結婚して――そんな未来を思い描くよりも、今のままの、気安い友人関係をずっと続けていくほうが、想像に容易かったし、ずっと魅力的に思えた。それでも、その言葉が予想していたよりもショックだったのは、どこかこの友人の枠に収まらないような気がしているこの気持ちのはしっこに、特別な名前を付けてみたかったのだろうか。結局、このよくわからない気持ちは、自分の中で未だ言葉にならないけれど。許されるなら、こう言いたい。

 これが、平成最後の恋、だったのだと。

 時代は変わる。人と人との距離も変わる。

 それでも、変わらずに、友人としてあの居心地のいい彼の隣に収まれるように。

 平成の時代とともに、高校時代の思い出の中に置いていく、私の淡い初恋の欠片。



(あお)く、無垢(しろ)く、そして(あわ)い』


最後までお読みいただきありがとうございました!

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