はるのこえ
「しおーん。ゲームばかりやっていないで、早く宿題やりなさい。」
なんだろう。キッチンからお母さんの怒っている気配がする。
聞こえないし気配ぐらい無視しよう。
お母さんを無視してゲームを続ける。
僕が夢中になってやっているこのゲームは、PS4Xのアニマルハンターというゲームでサバンナの大自然にいるような動物を狩ることができる。動物を狩っている間はお母さんの相手なんかできないのだ。
動物を狩るというゲーム設定に対し、ちょっと罪悪感を覚えるけれど、それがまた気持ちがいい。
現実世界では、あまり体験できないことを体験できるのがたまらなく快感なのだ。
お母さんも僕のこと知っているくせになんで遠くから怒っているのだろう。
遠くから叫んだって聞こえるわけないのに。
全くお母さんはいつまでも学習能力がないお馬鹿さんなんだから。
「それにしてもこのゲーム、映像の美しさ、動物を狩る時の迫力がすごい。」
僕が両手を離さないわけではない。このゲームが僕を離してくれないのだ。
訳の分からない言い訳を思い浮かべ、ひたすら狩り続ける。
なんといっても、このゲームはオンラインで出来るから色々な人と話せるので、友達が少ない僕にとってとても嬉しいことなのである。
花粉が多くて人が多い日曜に、わざわざ外に出るなんて考えられないしね。
楽しいけど1つだけ欠点がある。このゲームは完璧である。
欠点があるのは僕だった。
ゲームを楽しむにあたり、もっとも大切だといっても過言ではない音が聞こえないのである。
聞こえたらどんなに楽しいものだろうかと想像しながらいつもプレイする。
先ほどのお母さんの声、聞こえていながら無視しているのではない。
本当に聞こえないのだ。僕はあらゆる音が聞えない。
生まれつき耳が聞こえない訳ではなく、聞こえなくなってしまったのは3年前春休みで起きた、とある事故がきっかけだった。
事故は近所にあるイベリスの公園で起きた。
ここの公園はイベリスの花が沢山あり、春になると白い芝生になるくらいだ。イベリスの花以外には、大きな桜が一本どっしり佇んでいる。
僕は友達に誘われて珍しくその公園に遊びに行った。
その公園に行くのも珍しい事だけど、そもそも友達と遊ぶのが僕にとっては珍しい事であった。
そういえば遊びに行く時、玄関でお母さんが少し涙ぐんでいた。
僕は靴を履きながらお母さんの涙ぐむ理由がわからず頭をかしげていた。
最初ドッジボールや鬼ごっこで遊んでいた。段々と、その遊びに飽きた友達が桜の木に登り始めた。
桜に登るのは良くない事だと思いながら、桜の木を登る友達を見ていた。
友達がきっかけとなり、みんなで順番に桜を登ることになってしまった。運動神経がいい友達はするするとお猿さんのように桜の木を登り降りしている。
もしかしたら本当に喋るお猿さんなのかもしれない。そうだ。そうに決まっている。そうでなければあんなに軽々と高い木に登れる訳ないじゃないか。
そう思いながら口を開けて高い木を見上げる。そろそろ首が痛くなってきたなあ。とぼんやりと思っていると肩を「トトン」と叩かれた。
「しおんも木登りしてみなよ。」
1回、聞こえないふりをしたら僕の存在なんか忘れて次の人に木登りバトンを渡すと淡い期待をこめたのだが、もう一度トトンと肩たたきにされてしまった。
「なあ。聞こえてる?しおんも桜に登りなよ。近くで見る桜はまた一段と綺麗だぜ。」
「そうだね。」
話の流れに身を任せるように相槌してしまい、桜に登る事になってしまった僕は、急に緊張して怖くなってきていた。
段々と僕の木を登る順番が近づいて行く。
今更だけど僕は、高所恐怖症であるのと決して運動神経が良くないという2つの問題を見つけ、どうしたらこの問題から逃れられるか必死に頭を回転させた。
必死になって考えてみたけど、お腹痛いからトイレに逃げるという案しか浮かばなかった。
ついに僕の前の子が登りはじめた。掌に人という文字を3回書いて飲みこむと緊張が和らぐよ。とお母さんに教えてもらったことを咄嗟に思い出して実践してみる。
今日に限ってこのおまじないの効力を感じる事は出来なかった。
「ほんとにトイレにも行きたくなってきた。どうしよう。困ったな。」
そうこうしている内についに前の子の木登りが終わってしまった。
周りにいる子から早く登りなよと急かすので、しぶしぶと桜の幹に手をかけた。
幹は花弁にすべて体温を持って行かれたのかと思うくらいにとてもひんやりとしていた。
凹凸がないからとても登りにくかった。
それでも運動神経がないなりに頑張って桜に登ることが出来た。
登れたという達成感と桜から見る景色に、勇気が湧いてどこか強くなった気がした。やらなかったら味わえなかったお猿さんの気持ちを味わえて気持ちが良くなった。
すると突然、聞き覚えのないソプラノの澄んだ高音で悲鳴が聞こえてきた。
桜の下にいる、女子が何か言っているのかと思って確認してみたけど違うみたいだ。
「なんだ、気のせいか。」
高さの恐怖が戻って来たので早く下りることにした。
木の幹に足を掛けようとした瞬間、また声が聞こえてきた。今度は悲鳴ではなかった。
「そこのガキ、私に乗らないでくれる?痛いのだけど。それにすごく重い。痣ができたらどうするの。私まだ嫁入り前よ。それにその汚い靴で乗るなんて、ほんと冗談じゃないわ。私はあなたに何をしたっていうのよ。もう許せない。必ず仕返ししてやるわ」
これが悪夢の始まりだとは、この時のしおんには気づきもしないことだった。
目を開けるとそこにあった天井は普段見慣れたものではなかった。
気づいたら僕は、病室のベッドの中にいた。
そういえば、どこからか聞こえる声に驚いて桜から落ちたのだ。
ここはなんだか静寂としていて、居心地が悪い。
それにしても物音ひとつしない。
病院は静かなにしなきゃいけない場所というのは知っている。
でも、ここまで音が聞こえないとは僕だけ個室に隔離されているのか。
しかし周りを眺めると他の患者がいるみたいで、ベッドのシーツにふくらみが感じられる。
じゃあ、なぜ物音が一切私の耳に届かないのだろう。
考えたくないけどもしかしたら耳が聞こえなくったのかな。
そんなのは嫌だし信じたくなかった。
でも僕の近くにいるお母さんの顔を見ると、どうしてもそう思えてしまう。
僕は感情を抑えきれず、ぽろぽろと目から一粒また一粒と涙が溢れて止まらなくなった。
「GAME OVER」
あ。二年の前のことを思い出していたらゲーム画面が止まっていた。
そのかわりにお母さんが僕の目の前にいた。
手話で進路表に早く学校名と日付と名前を書きなさいと訴えている。
しぶしぶ、コントローラーから手を離し進路表に記入することにした。
綺麗な秋桜が描かれているカレンダーを凝視し日付を確認する。
「えーと。今日は平成○年△月×日 名前 小林紫苑。」
日付は書けたけど、志望する高校名は書けなかった。
これといって行きたい高校がなかったからだ。どうしよう。進路希望の提出日は明日だ。
でも早くゲームの続きがやりたい。
とりあえず一番近くの「緑上高校」と書いておこう。
進路表に緑上高校と書いて、お母さんに渡した。
それを見たお母さんはまた怒っている顔をした。だけどそのまま何も言わずにキッチンへと姿を消した。
ゲームのストーリーを全部クリアした頃、僕は進路表に書いた緑上高校に無事入学することができた。
入学式当日の朝、僕は慣れない学ランに戸惑いながら玄関の扉を開けた。
学校に向かう途中の道に、都会にしてはかなり大きな公園を見かけた。
僕は桜の木に落ちて以来、聴力を失った。そのかわりになぜか桜の木の声というのか、音なのかが聞こえるようになってしまった。
桜の声は綺麗な容姿をしているのと裏腹に騒々しい。
なぜ桜の声が聞こえるのだろうか分からない。
聴力を失ったはずなのに、耳を塞ぎたくなるなんて、皮肉なものじゃないか。
桜の声は、僕にはまだ甘ったるくて色っぽい吐息まじりのソプラノ声をしていた。
桜から落下してしまった私の身体に、一体何がおきてしまったのだろうか。
桜の声は、強い春風に乗ってくるので、僕がどこにいようが外に出れば聞こえてきてしまう。桜の声が聞こえるようになったせいで、友達との会話(手話)にも集中ができない。
だから適当な手話で、コミュニケーションしていると自然に僕の周りから友達が消えていくことが多くなった。
「桜なんて咲かなければいい。うるさい。黙れ。お前らの悲鳴なんて耳ざわりだ。お願いだから、ぼくの耳から消えてくれ。」
耳栓をしても、ヘッドホンをしても聞こえてくる桜の声に僕は毎日悩み苦しんできた。
なにより、花見客の頭上からしくしくと泣くように佇んでいる桜を、見たり声を聞いたりするのが憐れで、可哀想で嫌だった。
花見客は、普通にお酒と食事を楽しんでいるだけで世間の一般的なルールに従っている。
ではなぜそんなに桜は悲鳴をあげているのか。
それは花見客から出てくるあらゆる臭いのせいであった。
その臭いが桜にはたまらなく不愉快で泣きたくなるのであった、
さらに、僕には理解しようがないけど花見客の声が騒音に聞こえるみたいで、とても苦痛に感じるらしい。
だから、お母さんや友達から花見に誘われても頑なに行かなかった。羨ましいとも思えなかった。
だって、そのような場所に行ってしまうと悲鳴に酔ってしまい耳鳴りはするし気持ち悪くなってしまうから、絶対に行きたくなかった。
僕は、桜が咲く季節が嫌いだ。憂鬱になる。できることなら外に出たくない。
それでも桜の声が聞こえ始めた最初の一年は、久しぶりに聞こえる音にとてもテンションが上がったし色っぽい吐息まじりのソプラノ声で
「私の名前、桜子っていうの。あなたもしかして私の声が聞こえるのね。ねえ。近くに来て、一緒にお話しましょうよ」
「かわいい顔してるそこの僕、もっと愛桜美のそばにきて。」
「あなた素敵よ。桜花のタイプだわ。あなたになら桜の花弁いっぱいあげるわ」
桜たちが甘い声で僕を誘惑してきて、なんだかモテモテな気分を味わえて男として誇らしげにもなった。
でも、だんだんとその甘い声にも贅沢かもしれないが慣れてしまい、公園を通るたびに聞こえるのでとてもうるさく感じてきた。
入学式当日は、学校に向かう途中も意味がないけどしないよりかはマシなので、耳栓をしてからその上に更にヘッドホンをつける。
入学式をなんとか無事に終えられて、帰り道も耳栓のうえにヘッドホンをつけて足早に帰宅する。
しおんは帰宅してからすぐさまベッドに倒れた。
体調が悪い。耳鳴りがするし気持ちが悪い。一年ぶりに桜の声を聞いてしまったのかも知れない。
たった7日の辛抱だ。7日過ぎてしまえば声も聞こえなくなるから、それまで耐えればいい。
とりあえず、明日明後日は休日だから家にいれば問題はないので、残すところ4日。
4日。新学期が始まったばかりだけど仮病を使って休んでしまおうかな。でも友達を作るには出だしが一番感じだと思うからそう簡単には休めないかなあ。それとも、学校までの道のりで桜がないところを登校してみたら大丈夫だろうか。
どんなに桜のある個所を避けて登校しても、桜の声は春風に乗って僕の耳に届いてしまうから意味があまりないのだけど。
よし、決めた。2日間は風邪をひいたと仮病を使ってお母さんをだまし、残り2日間は頑張って登校しよう。
そうやって、2日間を無事に過ごすことが出来た。
入学式以来の学校は、まだ校舎全体に落ち着きのなさが漂っていた。
新入生の目にはこれから迎える新しい学校生活に興奮気味で輝きに満ちていた。
授業が始まるちょっと前、後ろ席の女子が話しかけてきた。
当然のことながら僕はその子の声に気付くことはなかった。
後ろ席の女子はそれでも諦めずに声をかけ続けて、ついには僕の肩を叩いて来た。
やっと気づいた僕は後ろ席に身体を向ける。
僕の顔を見て、すぐに何か気づいた女子はごそごそと自分の鞄の中を探し始めた。
鞄の中から取り出したのはA4サイズのノートと鉛筆で、何かを記入し始めた。
「私の名前は、佐伯よしの。君もしかしてだけど耳が聞こえないの?」
女子特有のかわいい丸文字で僕に話しかけてきた。
急に筆談されたことに僕は驚き、少し返事に戸惑ってしまった。
「私のお姉ちゃんも耳が聞こえないから、小林くんもそうなのかなって思ったのだけど違うのかな?」
僕は慌てて、「そうだよ。」と愛想なく質問に答えた。
「佐伯さんのお姉さんはいつから耳が聞こえなくなったの?」
「お姉ちゃんは生まれつき耳が聞こえないんだ。」
「そうなんだ。」
返す言葉が見つからなかった。僕は木から落ちた事故によって耳が聞こえなくなったわけで、それまでは普通に何不自由なく暮らしていた。それだけでありがたいのかもしれない。
現実を受け止めきれずに、嘆いて閉じこもっていた時期が思いだし顔を赤らめていると佐伯さんが再びノートに何か書き始めた。
「小林くんも生まれつき聞こえないの?」
「僕は生まれつき聞こえない訳じゃないんだよね。」
「いつから聞こえなくなったの?」
ぐいぐい質問してくるのにたじろぎながら質問に答える。
「3年前」
「なにがあったの?」
僕が答えたくないというニュアンスを含めた、素気ない返しをしているのにもお構いなしに佐伯さんが聞いてくる。
佐伯さんの目には爛々とした目の輝きから感じられて、無視することが出来なかった。
「3年前、桜の木から落ちて病院に運ばれて気づいたら耳が聞こえなくなってしまった。」
「なんで桜の木から落ちて耳が聞こえなくなったのだろうね~~。変なの(+o+)。」
他人事なのは知っているけど、佐伯さんの書いた間の抜けた文字と顔文字を見て拍子抜けして思わず笑えてしまった。
もしかして佐伯さんだったら僕の悩みを打ち明けても笑わずに聞いてくれるのかもしれない。そう思えたら佐伯さんとは、なんとしてでも仲良くなりたい気持ち出て来た。
佐伯さんとの距離を早く縮めたいと焦る気持ちを抑えながら再度ノートに書き込むことにした。
「変だよね。いくら木から落ちて打ち所が悪いからって耳が聞こえなくなるなんて信じられなかったよ。」
「それは信じられないよねー」
「ちなみに佐伯さんのお姉さんはどれくらい耳が聞こえないの?」
「どれくらい?」
「耳の聞こえないレベルなのだけど、こんなこと聞いたら失礼かな」
「別にいいよ。今はお姉ちゃんも耳のこと気にしていないし。お姉ちゃんは重度の聴覚障害なんだ」
「そっちは?」
「ぼくは高度の難聴障害だから耳元でお年寄りに話しかえるようにゆっくりと大声で話してくれないと聞こえないんだ」
「ところで小林くん、補聴器はしているみたいだけど手話は出来るの?」
「手話は少ししかできない。覚えたいけどなかなか一人で覚えるのが大変で補聴器ばっかりに頼っているのだ。」
「そうだ。それなら小林くん、手話覚えたいなら今度の日曜日に家くる?」
そんなやりとりがあり、僕は日曜日に佐伯さんの家を訪れた。どうやら佐伯さんのお姉さんである佐伯みきさんは,ご自身の経験から手話を独自で勉強をし,先生として手話教室をしていた。
ひょんなことに手話の先生である、みきさんに毎週日曜日に手話を教わることになった。僕は、帰ろうと佐伯さんの自宅の扉を開けた時に、見えた光景に驚いてしまった。
すぐ目の前には名前がついていない小さな公園があり、きれいな桜がポツンと儚げな雰囲気を醸し出していた。
驚いたのは、来る時もここを通ったのに桜の声が僕に届かなかったことだった。
そのことが不思議でならなかった僕はたまらず公園に行き、桜の木のそばに駆け寄った。
桜の声は聞こえなかった。
僕はあれほど嫌だった桜の声がなぜか聞きたくて、仕方がなくなっていた。
桜の木に優しくそっと触れてみる。
「スー。スー。」
桜はどうやら静かに寝ているみたいだった。
起きるのを待とうと桜の根元に腰を据えた僕は、今まで出会った桜とは、違う香りがほんのりと漂い、僕にとってその香りはとても気持ちが和らぐものだった。
目を閉じ、桜の寝息に耳を傾けている内に僕もその場で眠っていた。
夢を見た。
寒さが厳しい冬の朝、起きたばかりの僕はお母さんが注いでくれた紅茶を飲んで、身体がぼかぼかと温まる、いつもと変わらない時間の夢であった。
ずっと眠っていたかったけど、声が聞こえて起きた。
「おはよう。起きた?そんな所で寝ちゃうと風邪引いちゃうよ」
いつも聞こえてくる桜の甘ったるい声とは違って、ほんのりと甘くて優しい声だった。
ぼんやりと桜を見上げていると、桜は花を赤らめて恥ずかしそうに僕に話しかけた。
「あまりこっちを見ないで。寝起きを見られるのって恥ずかしいのだからね。」
僕は思わず笑ってしまった。
「ねえ笑わないでよ。もっと恥ずかしくなるじゃない。」
気にせず見つめていると、桜の花はどんどん赤くなっていき紅葉のようになっていった。
なんだか可哀想になってきたので、見つめることをやめると桜の花はいつもの薄い紅色に戻っていった。
「君はきれいだ。」
考えるまえに口から言葉が漏れ出した。
桜の、はにかむ笑顔に僕は心を奪われた。
「君の名前は?」
「私の名前は美桜」
「美桜か。きれいな君にぴったりな名前だね。」
不思議とこの桜の声を聞くのは心地が良かった。
それからの僕は、佐伯さんのお姉さんから手話を教えてもらう日曜日以外にも毎日、公園へ出掛けた。
なぜならこの桜に会えるのも残り6日しかなかったからだ。
公園に遊びに来る子どもに、桜にぶつぶつと話し掛ける変人と思われようとお構いなしに美桜と会話を楽しんだ。
「私ね、毎年いつも寂しいの。この公園にはね、なぜか花見に訪れる人が来ないのよ。通りすがりで立ちどまって私のこと見てくれるけど、すぐにどこかへ行っちゃうの。」
「桜は、みんなに見てもらうことにとても喜びを感じるの。それにね、みんなに私のことを見て幸せになってもらいたい思いから綺麗な花を咲かすの。だからみんなに見てもらえないと寂しいの。」
「そうなんだね。みんなはいないけど、僕は美桜を見ていてとても幸せに感じるよ。」
「そう。嬉しいわ。ありがとう。なんだか分からないのだけど、あなたに言われるととても恥ずかしいわ。不思議。こんな恥ずかしいと思ったこと初めてだわ。」
美桜は恥ずかしさのあまり、再び桜の花をどんどん紅潮させていった。
しばらくの間、2人とも黙り込んでしまった。僕はしばらく桜を見上げていた。
話さずとも、美桜の香りを感じられてこの上なく幸せだった。
ふと公園にある時計台に目がいった。すでに時刻は7時を過ぎていた。そろそろ帰らないといけない時間だ。
「僕で良ければさ、美桜の話し相手になるよ。だからまた明日も来るね。」
「ありがとう。待っているね。」
「じゃあまた。」
「また。」
公園を出てすぐに、また美桜の優しい声が聞こえてきたので振り返ると
「ねえ、そういえば名前聞いてなかったわ。あなたの名前はなに?」
「そういえば忘れていたね。僕の名前は紫苑。」
「公園にも咲いている花の名前ね。その名前好きよ。」
「ありがとう。じゃあまたね。」
「うん。また。」
帰り道、僕は人生で1番の探し物を見つけたような気持ちになって、嬉しくなりスキップをしながら家に帰った。
この気持ちを誰かにも共有したいけど、誰も桜と話して恋をしたなんてありえない話を信じてはくれないだろうと思って誰にも言わないことにした。
君の声が心に響いて離れなかった。
もしかしたら、これが一目惚れというものなのかもしれない。
桜に恋するなんて信じられなかったけど、この胸の熱さ、高鳴りはそう思えて仕方がなかった。
まだ美桜と出会って数時間しか経っていないのに、なぜか君にずっと触れていたかった。
家に到着してからも、しばらく美桜といた数時間が頭から離れなかった。
美桜のことを考えていた時、とても嫌なことを思い出してしまった。
それは、美桜と一緒にいられる時間がたったの6日しかないことだった。
泣き出しそうになる気持ちを必死に抑え、美桜とこの6日間をどうやって楽しく過ごすかを考えるようにして眠りについた。
僕はいつもより2時間も早く家を出て、学校前にも美桜に会うことにした。
どうやら美桜は朝が弱いみたいで、まだ寝ぼけた声をしている。
あと6日しかない。と思うと会った瞬間に泣き出してしまいそうになる。
なんとか我慢して、挨拶を交わす。
時間もなかったし美桜も寝ぼけていたのであまり話せなかったけど、この上なく気持ちがいい朝になった。
授業はほとんど集中できず、美桜の声を思い出しながらノートの隅っこに美桜を描いていた。
授業が終わり、公園でずっと待っている美桜に会いたくて全力で走った。
公園に到着すると、美桜は開口一番に待っていたわ。と僕に告げた。その言葉を聞いてとても嬉しくなった。
呼吸を整えつつ待たせちゃってごめんね。と返事をした。
美桜は僕の様子を楽しそうに見つめながら質問をしてきた。
「学校って楽しいものなの?」
「楽しいよ。」
「いいなあ。私もこんな容姿でこの世に生まれてこなければ、学校生活をしおんくんと一緒に楽しみたかったなあ。」
「ねえ。学校に行けない私のかわりに色々とお話聞かせてよ。」
「いいよ。なんでも答えてあげる。」
「じゃあ、学校に好きな子とかいる?」
急な質問に驚いてつい耳が赤くなってしまった。
深呼吸をしてから、首を横に振る。
「そうなんだ。しおんくんは優しいから、女の子からもてると思ったけどなあ。」
その言葉に僕は頬まで赤くなってしまった。
そんな僕の顔色を見て美桜はニコニコと笑っていた。
学校で起きた色々な出来事を美桜に触れながら話していると、あっという間に時間は過ぎ去り、陽は沈み夜が今にも起きようとしていた。
「そろそろ帰らなきゃ」
「今日も楽しかったわ。また明日も来てくれる?」
「もちろんだよ」
そうやって学校での出来事を美桜に話していたらすぐに4日が経った。
美桜に出会ってから6日目の朝、僕はいつものように学校へ行く前に公園に立ち寄った。
その公園で見た光景に言葉を失い、その場で泣き崩れてしまった。
「美桜が、美桜がいない。」
公園の場所を見間違えたかと何度も周辺を行き来したけど、目の前に佐伯さんの家があるので間違いはないはずで、ここが美桜のいた公園だった。
事情を知るために泣きじゃくりながら佐伯さん家のインターホンを押す。
玄関先に出てきてくれたのは佐伯さんのお母さんだった。
お母さんへの挨拶も忘れて、昨日公園で何かありましたか?と早口で尋ねた。
すると、お母さんの顔が少し曇り、手話で昨日あったことを教えてくれた。
「子供が昨日、公園で火遊びをしていたみたいなの。その火の不始末が桜に燃え移ってしまい火事になって公園は焼け野原になってしまったの。」
美桜が炎に包まれて苦しんでいる姿が、頭に浮かび涙が止まらなかった。
現実がなかなか受け止められずに、ただひたすら美桜がいた公園で泣き崩れた。
涙が渇くまで泣き続け、陽はもう沈んでいた。
「美桜が戻って来た時、寂しくならないように毎日ここに来るからね。」
ようやく泣き止んだ僕は美桜に別れを告げて公園をあとにした。
翌朝、学校には行けなかった。親は僕のあまりにも暗い顔を見て心配そうな表情を浮かべていたが、そっとしておいてくれた。
家にひきこもって気持ちを整理していると、佐伯さんがお見舞いにきてくれた。
「体調どう?」
「まあまあかな。」
「そっか。早く元気になるといいね。」
「うん。ありがとう。」
佐伯さんは事情を知っているのか、学校を休む理由を聞こうとはしなかった。
「じゃあ、また学校で。」
「今日は来てくれてありがとう。」
佐伯さんが帰ったあと、このままじゃいけないから外に出てみた。
外は春とは思えないほどに、冷たい風が吹いていた。その風に乗って聞き覚えのある声がした。
「しおんくんに何も言えずに別れることになっちゃったね。でも、またどこかできっと会えるから。だから私のことを忘れて前向いて、元気出してね。笑顔が素敵なしおんくんが私は好きよ。」
もういないはずの美桜の声が聞こえた。僕はおもわず後ろを振り返った。
そこには、春風に喜ぶ桜の花がはらはらと舞い散っていた。
10年後、社会人になった僕は吸い寄せられるように美桜がいたあの公園に向かった。
美桜がいた場所には、新しくぶらんこが設置されていた。
ピカピカのぶらんこには、満面の笑顔で一人の少女が乗っていた。
その子は、桜色のワンピースがよく似合う可愛らしい少女だった。




