そらのそこのくに せかいのおわり 〈 vol,08 / Chapter 09 〉
午後三時半過ぎ、墨田区江東橋のマンションでは、異界人と神と天使の緊急会議が開かれていた。成り行き上、なんとなく議長のようなポジションに納まってしまったピーコックが話をまとめる。
「えーと……つまるところ、タケミカヅチは女癖が悪すぎて、自分が寝取った女の元カレとの抗争を避けるために異界暮らしをしていた、ということなのかな? だから、こんなに時間が経ってもまともな情報が上がってこない?」
この言葉に、真っ白なキツネ、榎稲荷が頷く。
「水波様がタケミカヅチ様の帰還を触れ回ったおかげで、今は日本中の神が大混乱ですぞ。ニニギ様もオオクニヌシ様も、眷属を集めて出兵のお仕度をされているそうですし……」
それに続いて、隣に座っていたパーカー姿の男、宇迦の式神も言う。
「うちのご主人様はツクヨミ様一筋ですから、問題ないんですけどね? 宇迦様にお仕えする朱鷺たちは、大半がタケミカヅチ様のお手付きでして……もう、今朝から本業そっちのけで……」
その隣の盲目の鍼灸師、杉山も頷く。
「わしはこの通り、目が見えませぬ。ゆえに使いの者として、創造主から千鳥をお預かりしておるのですが……」
杉山の頭の上で、コチドリがミニチュアのような小さな手鏡を持っている。風切り羽根で何をどうすればそんなことが出来るのか、彼女は化粧筆を器用に使ってメイクアップの真っ最中である。
「ちょっと! おスギ! 頭動かすんじゃないわよ! アイラインうまく引けないじゃない!」
コチドリの目の周りの黄色は化粧筆で引いたアイラインだった。そんな衝撃的事実に目を見張るピーコックに、コチドリは超・上から目線で言い放つ。
「アンタさぁ、ピーコとか言ったっけぇ? ひょっとしてアンタ、ウチらのことなめてない? ウチら、ただの愛人じゃないからね? それぞれ勝手におタケさん取り合ってるわけじゃないんだから!」
「へえ? じゃ、どういう感じ?」
「アイドルのファンクラブよ」
「え? ファンクラブ?」
「そう。みんなおタケさんが大好きで、おタケさんを応援したくて仕方が無いの。だから情報交換とかしながら、一緒に追っかけてんの。恋のライバルみたいな関係じゃないワケ」
「なるほど。女同士は仲が良いのか……」
「だからおタケさんが女を寝取ったって表現はちょっと違うワケ。ウチらは単に元カレ、元ダンに愛想尽かして、アイドルの追っかけに人生かけることにしただけなの。連れ戻そうとか取り戻そうとか、そういう発想自体が間違い。『おタケさん親衛隊』を敵に回したらどんな男だって勝ち目はないんだからね? ニニギなんて過去ニ十回はフルボッコで追い返してやったわよ?」
「あ、それでも諦めてないんだ?」
「やぁよね~、しつこい男ってさぁ~。サクヤヒメ様、もうおタケさん親衛隊中部エリアの広報部長務めるくらいどっぷりこっち側なのに~。まだ『サクヤヒメ、あなたは騙されている! 目を覚ますんだ!』とか言っちゃってんのよ~? 騙すも何も、アンタおタケさんのアイドルオーラ分かってないでしょ、って感じでさぁ~」
「ってことは、あれかな? タケミカヅチファンクラブは、元カノへのストーカー行為を繰り返す元カレたちを追い返すための互助会?」
「まさにそれ。アンタ物分かりいいわね」
「う~ん、自分が第三者だから、ものすごくよく分かる理屈だけど……」
ピーコックのこの言葉に、杉山の隣にいた相撲の神、野見宿禰が頷いている。
「嫁さんに逃げられた男としちゃあ、タケミカヅチ様を恨まずにはいられねえでしょうなぁ……」
その肩には鮮やかな緑色の鳥、アオバトが止まっている。このアオバトは宿禰にベタ惚れのようで、ことあるごとに耳や頬にくちばしを擦り付けている。
「その子はおタケさんファンじゃないんだ?」
ピーコックは宿禰に尋ねたつもりだったが、意外なことにアオバト本人が答えてくれた。
「わたしぃ、いわゆるデブ専ってやつなのぉ。お肉の少ない男の人ってぇ、なんか触り心地悪くてきらぁ~い」
「デブ専の霊獣もいるのか……」
遠い目をして呟くピーコックに、宿禰はガハハと笑って見せる。
「いやぁ、モテる男はつらいねぃっ!」
「浮気したらぁ、許さないんだからねぇ~?」
「おっと! 俺っちの愛を疑うつもりかい?」
「疑うに決まってるよぉ~。だって今、お相撲人気再燃中だしぃ? 宿禰、カッコイイんだもぉ~ん。他の子も、実はこっそり狙ってるかもだしぃ~?」
「がっはっは! それを言ったら、お前こそ他の男に取られちまいそうなくらい可愛いじゃねえか!」
「やだ! も~っ! 宿禰ったらぁ~っ!」
双方見事なのろけぶりであるが、ここまで特殊性癖に偏ったカップルだと、不思議と殺意も湧いてこない。
大和の神からろくな情報が入ってこない事情は分かったが、だからと言ってじっとしているわけにもいかない。今はタケミカヅチが行動不能の状態で、白虎は敵か味方か分からないのだ。彼女を取られたと思い込んでいる大和の神々が『打倒タケミカヅチ』という旗を掲げてベイカーに襲い掛かったら、孤立無援のベイカーは簡単に殺されてしまう。
ピーコックは卓袱台の上で羽繕い中のシマエナガに話しかける。
「オプティエルちゃん? 天使のほうの情報網では、ベイカーの現在地は分かってるんだよね? 今サイトが何してるか、聞いてもらえないかな?」
「はい、ただいま」
オプティエルはぴょこんと飛び上がり、窓をすり抜けてベランダの雀たちに合流する。そして鳥語で何かを話していたのだが――。
「た、たたた、大変ですっ! サイト・ベイカーさんは現在、闇堕ちらしき神と交戦中です!」
「どこで⁉」
「新宿御苑です!」
「よし、すぐに……」
「おタケさあああぁぁぁーんっ! 待っててすぐにウチが行くからあああぁぁぁーっ!」
「……うん。い、行こうか……」
絶叫しながら飛び去ったコチドリを目で追いながら、一同は溜息を吐く。タケミカヅチの『モテ方』は、ベイカーとはまた少し違ったベクトルである。
これまで黙って話の成り行きを見守っていたマルコ、レイン、エリック、アスターは一斉に立ち上がり、ピーコックを見る。
ピーコックはこの瞬間、若干、胃が痛むのを感じた。どうやらこれまでの流れから、ピーコックが作戦指揮を執ることになってしまったようだ。
「あー……マジで?」
「能力的に、ピーコックさんが適任だと思います」
「身分的にはマルコさんですけど、地球での活動ははじめてですしね?」
「年齢で言ったら俺たちだろうけど、俺、指揮とかマジ無理。超めんどい」
「頼まれればやってあげてもいいけど、ぶっちゃけそっちの子たちの能力、ちゃんと把握してないジャン? 俺らじゃ活かしきれないっしょ?」
「うわぁ~、マジかぁ~……」
情報部、特務部隊、ジルチの混合チームである。個々の能力に偏りがあり、同時に動かすには不向きなメンツが揃っている。それに加え、それぞれに妙な能力の神が憑いているというややこしさ。場当たり的に行動せざるをえないこの局面で臨時リーダーに抜擢されるとは、面倒臭いことこの上ない。
苦虫を大量繁殖させてから一気に噛み潰したような顔のピーコックに、榎稲荷と杉山が言う。
「為せば成る! 男は度胸ですぞ!」
「安心なされい! 心労も肉体疲労も、あとでわしが、鍼灸でなんとかしてやりますわい!」
「え~、そんなこと言われてもさぁ……」
渋るピーコックの背を、野見宿禰がバァンと叩く。
「俺っちも手伝ってやらぁな! ほぉら! モタモタしてっと日が暮れちまうぜぃ?」
力士に襟首をつままれて、ネコ科中年は強制的に連れ出されていった。
キツネと鍼灸師に見送られて出撃する猫、王子、海洋生物、雷獣二匹と神と天使と式神たち。なんとも不思議な組み合わせの一行は、ペガサスに乗って新宿を目指した。
彼らが現場に到着したときには、ベイカーはニケの『心の世界』に連れ去られた後だった。誰もいない芝生広場で、オプティエルが仲間の天使たちから事の顛末を聞き出す。
「……カリストを魔剣に変えて、そのあとニケに襲撃された?」
ニケは闇堕ちになっていたのに、しっかりと自分の意識を保っていたという。半堕ち状態特有の、知能指数の低下も見られなかったようだ。
「意識をハッキリ保ったまま、闇堕ちに……? どういう状況でなら、そんなことになるんだ……?」
ピーコックは自分の右腕を見るが、サマエルは何も答えない。その状況が何を示すのか、彼女にも見当がつかないらしい。
首を傾げる一同を、オプティエルとは別のエナガが案内する。このエナガは新宿駅近くのホテル内チャペルを拠点とするカラコレエルという天使だ。オプティエルより階級は一つ上で、婚姻の場に立ち合い、心清らかな夫婦が子宝に恵まれるよう祝福の光を与える役割があるのだという。
一行はカラコレエルの小さな体を追い、園内の散策道を外れ、こんもりとした茂みの裏側に入っていく。
「皆さま、こちらです。こちらがカリスト殿とアルテミス殿の『魔剣』でございます」
草の茂みに隠されていたものは、純白の歩兵銃とソードブレイカー一体型の籠手である。レインとマルコが拾い上げると、金属とは明らかに異なる、セラミックのような手ごたえを感じた。
「物質……ですよね? 隊長の剣って、光でできてたと思うんですけど……」
「そうですよね? この籠手は、普通に装備できるようですし……?」
マルコがそう呟きながら、何気なく手を通した瞬間である。
籠手が光り、カリストの声が響いた。
「やだ! ちょっと! やめてよ! これサイトのために作ったんだから! 王子様じゃ属性合わないでしょ⁉」
「え! しゃ、喋ったっ⁉」
驚き狼狽えるマルコだが、言われていることはきちんと理解し、即座に問い返した。
「あの、では、この籠手は雷属性の種族専用防具ということですか⁉」
「そうよ! だからわざわざこんな素材にしたの! 金属じゃあ雷撃のエネルギーで熱くなるし、最悪、その熱で溶けちゃうから!」
「え、えーと、では……エリックさん!」
「おうよ!」
ポイと放られて、エリックは籠手を受け取る。
マルコの隣にいたレインも、同素材と思しき歩兵銃をアスターに手渡した。
「どうぞ!」
「サンキュ♪ どれどれ~?」
アスターはチャッと構えて、何の躊躇いもなく引き金を引く。すると次の瞬間、はるか遠く、二百メートル以上先のケヤキの木から、太く大きな枝がどさりと落ちるのが見えた。
「ウッヒョォ~ウ! なにこの銃! スッゲー射程と威力!」
実弾ではなく魔弾である。射手の魔力が尽きない限り、何発でも連射できる。
エリックはそれを見て、ニヤリと笑った。
「ってことは、お前もそれなりに使えるんだよなぁ?」
「はあっ? それなりとは何よ失礼ね! サイトが全力出せるように、雷属性完全対応に決まってるじゃない!」
「それなら、《雷装》状態でも問題なく使えるってことだな?」
《雷装》は己の手足に雷を纏う肉弾戦用の魔法である。何の加工も施されていない装備品ではうまく電流が流れず、せっかくの魔法効果が台無しになってしまうのだ。
エリックはさっそく魔法を使ってみる。
「《雷装》発動! ……って、おおぅっ⁉ すっげ! 見ろよ弟ぉ~っ! 隅から隅まで帯電状態!」
「お兄チャン、こっちもたぶん、撃った魔弾に雷撃の付随効果ついてる! ほら、あれ!」
そう言いながら指差した先には先ほどの木がある。その木に止まっていたカラスが一羽、不自然な挙動で地面に落ちていくのが見えた。死んではいないようだが、感電状態から回復するにはしばらく時間が掛かりそうだ。
「おお~っ! 強ぇな! やったな弟! 変な武器と防具ゲット!」
「ちょっと! 変って何⁉ それに私、あんたのじゃなくてサイトの! 勝手に自分のにしないで!」
「え、駄目なのか?」
「当たり前でしょ! 拾ったモノをネコババしたらいけませんって、ママに教わらなかったの⁉」
「あー、言われたかもー……じゃ、あとでサイトに返すわー……」
装備品に叱られるという非常に珍しい体験をしたエリックは、意外にも素直に引き下がる。四十代にもなって「ママに教わらなかったの⁉」という言葉を投げかけられ、それなりにショックを受けたらしい。
エリックらの話が一段落つくのを見計らい、カラコレエルが話を始める。
「先ほど自己紹介させていただきました通り、私は婚姻の場に立ち会う『役割』を持ちます。教会や結婚式場での誓いに立ち会うことが基本ですが、主の聖名のもと、強い意志でプロポーズした場合、その言葉が『婚姻の宣誓』となります。先刻、私はサイト・ベイカーが主の聖名を呼び、誓いの言葉を口にする声を聞きました。そしてその言葉は、嘘偽りなく本心であると確信いたしました。ニケがそれを受け入れたため、婚姻は成立。現在、あの二人は主のお認めになった夫婦関係にあります」
「え?」
「婚姻……?」
「夫婦って……?」
何を言われているか分からない。
そんな顔つきになった一同の中で、他の生物と頭と体の構造が異なるシーデビルは、ごく普通に納得していた。
「そうですよね。あれだけ仲が良ければ、交尾に失敗して捕食される心配もありませんし。やっぱり単為生殖より、異性交配のほうが丈夫な子供が生まれますしね!」
何を言っているんだこいつは。
いや、それ以前に、シーデビルのセックスは失敗したら捕食されてしまうような命がけの行為だったのか。
深海生物の一般常識に頭を抱えたくなった一同の前で、カラコレエルは『婚姻』というもっともありふれた奇跡について解説する。
「結婚式で一般的に用いられる言葉ですが……『幸福なときも、困難なときも、富めるときも、貧しきときも、健やかなるときも、病めるときにも。死がふたりを分かつまで、愛し、慈しみ、貞節を守ることを誓う』という文言がございます。この言葉は変わらぬ愛を誓う以外に、もう一つ意味があります。それは伴侶の身に降りかかるはずだった災厄を共に受け、愛する者の負担を軽減するということです。ときには二人分の苦難をすべて引き受け、伴侶を守って死んでゆく者もいます。死を覚悟して愛を誓う者など、そうはおりませんが……サイト・ベイカーは主の聖名を呼び、確かにそれを宣言しました。彼は今、ニケが負うはずだった『闇』を一身に受け、彼女が完全な闇堕ちと化すことを阻止しているでしょう」
「それは……」
「え~と、つまり……?」
数秒考え、全員で顔を見合わせ、それから一斉に気付いて蒼褪める。
闇堕ちになっているのはニケではなく、ベイカーのほうだ。
タケミカヅチの『器』が闇堕ちになるなんて、まったくもって酷い冗談である。対マガツヒ用に特注された神は、当然『器』のほうも普通ではない。すべての能力値が他の『神の器』を大きく上回っているのだ。まともに戦って勝てる相手ではなかった。
「あのバカ、俺たちにとって一番クソ迷惑な選択肢を……っ!」
「ニケが堕ちたならさっさと斬って終わらせれば良かったじゃねえか! なに身代わりになってんだよ!」
「サイトってば、相変わらず女の子にベタ甘ジャ~ン?」
嘆く特務部隊OBとは対照的に、マルコとレインは冷静である。
「レインさん、もしもこのまま隊長と戦うことになった場合、どの程度までいける自信がありますか?」
「私は……今日の天候では、ほとんど動けずにやられると思います。今だって、ここの気温は三十度以上ありますから。私、四十度を超えると人の形を保っていられません」
「そうですよね……。私は防壁だけならば維持できますが、それでは隊長を浄化する余裕がありませんし……」
コニラヤとサラも困った顔をしている。この二柱は軍神でも武神でもない。自分が主力になるような戦いは不得手である。
ピーコックは暗殺系の搦め手を得意としていて、メリルラント兄弟は反政府組織を想定した対人戦闘のプロ。今この場に、たった一体の『最強モンスター』に集中砲火を浴びせられる能力者はいない。
全員の視線はピーコックの右腕に集中するが――。
「すまない。私の力は先ほど使ってしまった。天の国の門を開けるのは日に一度が限度だ」
頼みの綱、天使サマエルも消えた。
彼らと一緒に来ていた力士、野見宿禰も困り顔だ。
「そっちの天使さんたちの言葉に合わせるんなら、俺っちは『相撲の守護聖人』で、タケミカヅチ様は『相撲を含む古武術全般の守護天使』ってぇことにならぁな。格が違いすぎるし……第一闇堕ちになっちまってるんじゃあ、迂闊に組み合うわけにもいかねえぜ?」
闇堕ち状態の者に触れれば、こちらにまで闇がうつってしまうのだ。まるで質の悪い感染症のように、触れた箇所からも、吸い込んだ黒い霧からも毒気が回る。相撲のように直接組み合う戦闘法では、闇堕ちには対抗できない。
「どうする臨時リーダー? ベイカーを浄化できそうな『光』の持ち主は王子さまだけだが、王子様が攻撃に回ったんじゃ、防御力がガタ落ちだぜ?」
エリックに問われ、ピーコックは考えた。
レインは中・長距離型の攻撃魔法をいくつかマスターしている。コニラヤの防壁の中から援護射撃を入れるというポジションは確定であろう。
自分とサマエルは主戦力にはなれないが、幻覚で姿を消すことと、バンデットヴァイパーで闇を呑み込むことは出来る。ベイカーが闇堕ち状態でどんな攻撃を仕掛けてくるかは未知数だが、半堕ち状態になった仲間に接触し、闇を吸い出すことが出来るのだ。つまり、まさかの『回復担当』である。
エリックとアスターはベイカーと同じ雷獣族であるため、雷撃によるダメージを受けない。なおかつ、雷光には闇を浄化する作用がある。二人は兄弟であるため、連携は他のどんな組み合わせよりも円滑。歩兵銃『アルテミス』を装備したアスターが主戦力、ソードブレイカー『カリスト』を装備したエリックがその護衛。それ以外の最適解は無い。
とすれば、やはり問題はマルコとサラである。闇堕ちを確実に浄化するには、メリルラント兄弟の放つ雷光では足りない。創世神・青龍の放つ圧倒的な光が必要になるだろう。しかしマルコが攻撃に回れば、エリックが言うように防御力は下がってしまう。
どうしたものかとマルコを見れば、彼は何とも言えない情けない表情で左胸のあたりを押さえていた。
「あ、その、すみません。先ほどから、なにかポケットの中で動いているようなので……」
マルコは恐る恐る、上着の胸ポケットに手を突っ込む。てっきり虫か何かが入り込んでしまったものと考えていたのだが――。
「おうっ⁉ おめえさん、そんな武器持ってんのになんで出さねえんだい! さっさと使やぁいいじゃねえか!」
野見宿禰に言われ、マルコはポケットから取り出した紙切れを凝視する。
水波能女神と啼沢女の御朱印である。それが今、ブルブルと振動している。
「あの、これはいったい、何でしょう? 武器……なのですか?」
「知らねえで持ってたのかい⁉ そいつぁあ籠目の朱印さ! いいからとにかく言ってみな! 『後ろの正面見つけたり』ってよ!」
「は、はい! う、後ろの正面、見つけたり……?」
そう言った瞬間、呪符が光った。そしてあたり一帯が青い光に包まれ、それが収束したときには――。
「……え? これは……ベイカー隊長の『魔剣』では……?」
マルコの左右の手に一振りずつ、水属性の光の剣が出現していた。
まったく同じ色ながら、左右の手の剣は形状は大きく異なる。水波能女神は刃渡り百五十センチを超える長尺の刀で、いかにも攻撃的なギラギラとした光を放っている。対して啼沢女のほうは地味な脇差なのだが、まったく止まることなく、常にポタポタと水滴が垂れている。
マルコはこの剣は何かと尋ねようとしたのだが、それより早く、刀自体が名乗りを上げた。
「おタケさんファンクラブ、会員番号五番! 水波能女神、推参っ!」
「同じく会員番号ろっくば~ん! 啼沢女ちゃんっでぇ~す!」
「えっ⁉ 水波さんって、あの、今朝お会いした……?」
コニラヤの質問に、刀が答える。
「その通りであって、その通りでない。あたしゃ全国各地に分祀されてる『水波ちゃん』の本体さ。まあ、分身してるようなもんかねぇ? アンタが今朝会った翡翠とも意識は共有されているから、妙な前置きは結構だよ。あたしゃ気が短いほうだからね!」
「あの、本体が、なぜ刀に……?」
「決まってんだろう? 異界送りになったおタケさんを追っかけるために、自分で自分を『魔剣』に変えて朱印の中に封じたのさ! 呪符の状態でなら、『器』を持たないアタシらでも異界に渡れるからね! けど、ま、ちょっとしたハプニングで、おタケさんの手元にまで届けてもらえなかったんだけど……」
「ジョージが極度の無神論者だなんて聞いてないも~ん! アタシたちの声聞こえてるのに、完全無視で倉庫にぶちこんだのよぉ~⁉ あぁ~ん、もう! 運命のバカバカバカぁ~! おタケさぁ~ん! 早く会いたいよぉ~っ! うぇえええぇぇぇ~んっ!」
「ナッキー泣くんじゃない! きっとすぐに会えるから! ねっ⁉」
「うん、あたし、頑張るぅ~……」
「ってことで、ちょっとアンタ! 事情は聞かせてもらったよ! おタケさんの『器』がピンチなんだろう⁉ アタシらに任しときな!」
「おタケさんファンの暗黙の了解、『器には手出し無用』を破った罪、重すぎだも~ん!」
「ニケとかいう女、マジぶっ殺してやろうじゃないか……」
追っかけファン、ここに極まれり。
両手に持った魔剣から垂れ流される尋常ならざる殺意に、マルコは戦慄した。
「あ、あの……できるだけ穏便にお願いします……」
「女性の争いって、恐ろしいですね……」
歯の根を震わせるマルコとレインの後ろで、神々の反応は様々だった。
いつもの事よと笑い飛ばす野見宿禰、涼やかな笑みでノーコメントを貫く式神、男女の関係が理解できずにオロオロしているサラ、タケミカヅチのモテ男ぶりに嫉妬して悔しがっているコニラヤ、あまりの殺気に怯える天使や小鳥たちを背後に庇うサマエルと宿主。
肩と背中にしがみ付く数十羽の小鳥の重みを感じながら、ピーコックは苦笑する。
「あっれ~? なんで俺がピヨちゃんたちの保護者的立ち位置ぃ~?」
「諦めろ。私と一体化している以上、非常時にはこうなる」
「こういう正義の味方っぽいポジションは俺のキャラじゃないんだけど……」
「ぼやくな。そんなことより、ベイカーの事が気になる。ベイカーがニケを守るために身代わりとなったなら、奴はニケを傷付けぬよう、ニケの『心の世界』から出てくるはずだ。闇堕ち状態で長く留まれば、それだけニケに負担をかけることになるからな」
「じゃあ、ここで待ってればすぐに出てくるかな?」
「だと思うが……なあ、ピーコック? 一つ聞かせてもらいたいのだが……?」
「うん? 何、サマエルちゃん?」
「人間とは、そんなに簡単に覚悟を決めて、誓えるものなのか?」
「……ん? それって……?」
「……いや、なんでもない。忘れろ」
「ちょっとちょっと! そんな一方的に……」
「いいから忘れろ!」
「待ってよ! そこはちゃんと答えさせてくれないと! 他の男はどうだか知らないけど、少なくとも俺は誓える! もしもサマエルちゃんが闇堕ちになりそうだったら、俺は絶対、サマエルちゃんの身代わりを申し出る! この気持ちは本物だから! 俺が嘘ついてないって、サマエルちゃんが一番よくわかってるよね⁉」
「……ああ。分かっているから、聞きたくなかったんだ……」
サマエルはピーコックの右手から天使の姿に変じ、ピーコックの肩に乗ったカラコレエルに問う。
「今の言葉は、『婚姻の宣誓』と認められるものか?」
エナガは小さな胸を精一杯張って、高らかに宣言する。
「新郎側の言葉と心に偽りはありません! サマエル様がこれをお受けになれば、婚姻が成立します!」
それを聞いて、サマエルは諦めたように言った。
「……残念だ。私は、守護天使失格だな。人を導き、その営みを見守るだけの存在でいなければならなかったのに……」
「え? あの? サマエル様……?」
「ピーコック、すまない。私はお前の気持ちを受け入れることは出来ない。私はお前の守護天使だ。妻となることも、お前の子を産むことも、守護天使という立場では……」
「ちょっと待った! サマエルちゃん! 正直に教えて! 立場じゃなくて、俺が聞きたいのはサマエルちゃんの気持ちのほう! サマエルちゃん自身は、俺の事好きなの⁉ 嫌いなの⁉ どっち⁉」
「……好きか嫌いかと聞かれれば、嫌いでは……いや、その……どちらかと言えば好き……かも、しれないが……」
「じゃあ俺は、サマエルちゃんが守護天使を引退するまで待つ!」
「……お前、何を言っているのか、わかっているのか? 私がお前の守護天使を引退するということは、つまり……」
お前の命が終わるということだぞ。
そう続けようとしたサマエルに、ピーコックは宣言する。
「すぐに結婚できなくても、婚約だけはできる! 死ぬ瞬間に、一瞬だけでも構わないから! それでも俺は、サマエルちゃんと結婚したいの!」
「……カラコレエル? 主は、なんと……?」
問われたエナガは、またも胸を張って答える。
「サマエル様がご自分のお気持ちを表明されましたので、『婚姻の宣誓』は成立いたしました! 主はこの婚約をお認めになっておられます!」
「っしゃあっ! 婚約成立!」
「……本当に? 本当に、私とこの男の……? 何かの間違いでは……?」
「間違いではございません! 天使サマエル様とフラウロス族の男ピーコック、本名ケイン・バアルとの婚約は成立しております!」
「そんな……主よ、いったい何をお考えに……?」
絶望的な顔で天を仰ぐ天使と、小さな天使と小鳥たちに祝福されて浮かれるネコ科中年。この唐突に始まったプロポーズと婚約成立という一連の流れに、その他大勢はリアクションを取り損ねている。『この非常時に何を』という気持ちと『とにもかくにもおめでとう』という気持ち、それと『この中年男は本当に天使と結婚する気だったのか』と呆れる気持ちが綯い交ぜになり、何の言葉も出てこないのだ。
唯一平常心を保っていたのは、男女の機微についてまだ理解できないお子様、サラだけである。
(ねえ、マルコ? みんなどうしたの? なんか変な音がするから、気を付けたほうが良いと思うんだけど……?)
体内の水分に直接反響するような、澄み切った神の声。マルコはハッとして、両手の刀を握り直す。
「ほらほら! ボサッとしてないで、全員構えな!」
「はっじま~るよ~んっ!」
水神らの声が響いた直後、ドサリと音を立てて、何かが落下してきた。
音のしたほうを振り向いてみれば、芝生の上には得体の知れないモンスターが一体。
大きさはおよそ二メートル半。熊のような上半身と、バッファローに似た下半身。体全体が黒い毛に覆われているが、顔は動物よりも昆虫に近い。
そのモンスターはマルコたちの姿を見て、首を傾げて声を発する。
「ぷみゅ? ぷみゅみゅ~っ! みゅぷぅっ!」
ひどく醜いモンスターが、ゆるキャラか何かのような、大変可愛らしい鳴き声を発している。
ただそれだけの状況に、一同、一斉にフリーズした。なぜかと言えば、見た目と声が一致しないせいで第一印象が定まらなかったからだ。第一印象とは、その対象を無意識のうちに敵・味方・その他に区分した結果である。頭がその判断を下していないのなら、体が動くはずもない。
しかし、マルコだけは違った。動くことを忘れた一同の中で、彼だけは即座に反応し、一直線に斬りかかってゆく。
マルコはこのモンスターを知っていた。これは義母が異世界から召喚した魔獣と同じものである。
「はっ!」
先手必勝。右手の長刀で袈裟懸けに斬りつけ、よろけたところに左手の脇差を突き込む。
「みっ……!」
モンスターは鈍く短い悲鳴を上げて、そのまま空気に溶け込むように消えてゆく。
マルコは警戒を緩めず、仲間たちに呼びかける。
「今のモンスターは、クエンティン子爵領に出現したものと全く同じです! 皆さん、鳴き声に惑わされてはいけません! ためらわずに攻撃を! あれは人を襲い、食らいます!」
「マルコさん! 後ろ!」
「!」
音もなく二体目が出現していた。モンスターはマルコの首めがけて、熊のように巨大な手を振り下ろす。 もう防御も回避も間に合わない。誰もがマルコの死を予感した、そのときである。
黒い稲妻がモンスターを撃ち抜いた。
モンスターは感電し、その場に倒れ込む。止めを刺されたわけではないので体が消失することはなかった。痙攣しながら、目だけで自分を攻撃した何者かの姿を探している。
マルコらも襲撃者の姿を探すのだが、視界に飛び込んできたのは新たに出現した数百体のモンスターの姿だった。現時点で少なくとも五百体。驚きたじろいだ数秒の間にも、数十体のモンスターが次々と出現している。
「ハッハァーッ! すっげえ数だなオイ! 面白そうじゃねえか! 行くぞ、弟!」
「オーケー、お兄チャン!」
エリックとアスターが飛び出していく。それと同時に、野見宿禰と宇迦の式神も動いた。
「沈み鎮まれ荒ぶる御霊! 踏みし固めし此なる地に!」
祝詞を詠み上げながら、野見宿禰は四股を踏む。一つ、また一つと地面を踏みしめるたびに、草木から光の粒が湧き出でる。この光には大地の穢れを祓い、荒ぶる御霊、つまりは闇堕ちと化した神的存在を弱らせる効果がある。このモンスターらは闇の属性を持つらしく、この光に触れることをひどく嫌がっていた。
「かくも畏き我らが祖、伊弉諾尊に御願い奉り申し上げます。その御力を持ちまして、祓い給いませ、清め給いませ。荒ぶる御霊を打ち倒さんとする、この身、この手に、その御力の一端を!」
宇迦の式神が天を仰ぐと、太陽から何かが降ってきた。それはツクヨミの使用した『天尾羽張』とよく似た、黄金色の剣である。
「おお! なんと、私に『八重垣』を⁉ ありがたきこと、この上なし! 感謝いたします!」
式神は光の剣を手に、モンスターの群れへと斬り込んでゆく。
コニラヤは仲間たちのために防御結界を張り、天使や鳥たちは園内にいる人間らの避難誘導に向かう。
このモンスターは数が多いだけで、共通の目的をもって行動しているわけでも、協力し合っているわけでもないようなのだが――。
「サマエルちゃん、これ、何⁉」
「主の祝福を受けずにこの世に生まれ出た者たちだ!」
「詳しく!」
「神的存在と人との間に、異形の怪物が生まれ出る話を聞いたことはないか? その誕生が主の祝福を得られるものであれば、たとえ異形であっても言葉は通じる。心を通わせることも出来る。神的存在として人や大地を守護する役割を担うことになる。しかし、祝福されざる者は……上だ!」
「ほっ!」
ピーコックが飛び退ると、真上からモンスターが降ってきた。襲い掛かろうとしてきたわけではなく、結界内の中途半端な位置に出現してしまったらしい。体勢が整わないまま頭から地面に叩きつけられ、首がおかしな方向に折れ曲がっている。
「どっから出てきやがった……。っていうか、サマエルちゃん? まさかと思うけど、こいつら……」
「ああ。おそらく……」
ニケとベイカーの子供。それ以外に、考えられる可能性はなかった。
モンスターはなおも数を増やしている。サラとマルコ、メリルラント兄弟、野見宿禰と宇迦の式神も奮闘してはいるのだが、出現するペースがあまりにも速い。
「ピーコックさん! 私も行きます!」
「ちょ、おい、待てレイン! お前、この気温じゃ……」
「大丈夫です! 少なくとも、マルコさんの近くなら!」
「ん? ……ああ! なるほど!」
水の龍に守護され、水神の刀を二振りも装備しているのだ。神々の発する水飛沫が光を反射し、マルコの周囲にはいくつもの小さな虹が出現していた。
「無理はするなよ!」
「はい!」
コニラヤの結界内に残ったピーコックは、ポケットからスマホを取り出した。
「何をする気だ?」
「いや、ベイカー本人が出てこないから、なんか、嫌な予感が……」
駄目で元々、ピーコックはベイカーのスマホに電話をかけてみるのだが――。
軽快な呼び出し音。それはピーコックの真後ろから聞こえた。
振り向いて確認することは出来なかった。自分が攻撃されたと気付いた瞬間、ピーコックの視界には青々とした芝生しか映っていない。
「あ……あぁ……」
背中に高濃度の闇を食らったようだ。体が麻痺して、指先はおろか、声を発することも出来ない。
ピーコックの耳にコニラヤの悲鳴が聞こえた。それから何かが地面に落ちる音。その音からピーコックは、コニラヤが自分と同様に一撃でやられてしまったのだと理解した。
(サマエルちゃん……ベイカーは……?)
心の声で問いかけるが、答えが無い。
(……!)
痺れていて全身の感覚が無いが、それでもわかる。右腕が消えている。
(サマエルちゃん……!)
天使の姿に変じたサマエルは、赤い光の剣を手にそれと対峙していた。相手はベイカーではない。それは幼い子供の姿をした神、白虎である。
「あはははは♪ お電話ありがとう♪ ねえねえ、どんなお話しようか?」
白虎はベイカーのスマホを持っていた。ただし、スマホと白虎の手との間にもう一つ、手首から先だけになった人間の手が挟み込まれていて――。
「貴様……それは、まさか……」
「あはは! そうさ! あの穢れた人間の手だ! 奴はその人間に電話を掛けようとしていた! だから取り上げてきてやったのさ! どうだ? これで直接話ができるだろう⁉ あはははは!」
白虎の目はサマエルを見ていない。左右の瞳がそれぞれ別々の方向を向いている。そして体はあちこち食いちぎられたように欠けていて、胸や腹からは内臓がはみ出し、ぶら下がっている。
全身から吹き出す黒い霧。一目見て闇堕ちと分かる姿なのだが――。
「何があった⁉ その傷は、一体何者に……っ!」
白虎が放つ衝撃波を躱しながら、サマエルは問いかける。白虎の手にあるのはベイカーの右手。それは間違いないのだが、問題はその指がモゾモゾと動いていることだ。白虎の闇の影響でそうなっているのか、それとも、ベイカー本人が動かしているのか――。
白虎はボトボトと内臓を落としながら、じりじりとサマエルに近付いてくる。
「奴は神を食らいおった! あはははは! 死ぬんだ! 我は死ぬ! 奴も死ぬ! 闇に堕ちた神を食らうとは! 実に馬鹿げている! なんと笑える話だ! 神が人に食われるなんて! 人が闇を食らうなんて! あはははは!」
白虎は完全に正気を失っている。サマエルは救済不可能と判断し、光の剣で白虎を斬った。
白虎は避けない。というより、もう『避ける』という判断すらできなかったようだ。赤い光に体を貫かれ、そのまま沈黙した。
創造主の判断を待つまでもない。この神は死んだ。
サマエルはピーコックとコニラヤを守るように位置取り、迫りくるモンスターたちに《メギドフレイム》を連射する。
「く……そっ! ごめん、サマエルちゃん……!」
わずかに回復し、声だけは何とか発することが出来た。ピーコックには白虎の姿も何も見えていないが、サマエルが自分を守るために戦っていることは分かる。いざというときに役に立たないばかりか、惚れた女に守ってもらうだなんて、情けなくて涙が出そうだった。
けれど、そんなピーコックを意外な人物が叱咤した。
「違います! そこは自分を呪うところじゃありません! 相手に感謝するところです!」
コニラヤである。さすがは神というべきか、同じ攻撃を食らっても受けたダメージは軽微。彼はピーコックの傍につき、改めて結界を張り直している。
「サマエルさん! 彼は僕が守ります!」
「ああ、任せた! もしもその男を死なせたら、貴様を地獄に叩き落としてやるからな!」
そう言い放つと、サマエルは自らモンスターたちの中に突っ込んでいく。モンスターの注意を自分のほうに引き付け、ピーコックから引き離すつもりなのだ。
「クソ……クソ! 動け! 動けよ、俺の体!」
なおも己を責めるように呟くピーコックに、コニラヤは容赦ない平手打ちを食らわす。
「……っ⁉」
「あなたは馬鹿ですか? サマエルさんがどうしてあなたの気持ちを受け入れようとしなかったのか、まだ分かってないんですか?」
「……何のことだよ!」
「弱者のくせに強がらないでください」
「……なんだと?」
「確かにあなたは、人間の中では強いのかもしれません。身体能力も、幻術も、弱い神になら十分通用するレベルです。ですが、それだけです。サマエルさんから見たら、あなたはその辺の子猫と大差ないんですよ。無知で、無力で、愚かで可愛い愛玩動物のようなものだ。だから彼女はあなたを守っている。いい加減、自分の大きさを正確に認識すべきです」
コニラヤの言葉に、ピーコックは一切の表情を消した。そしてそのまま、氷のような声音で言い返す。
「分かっていないのはどっちだ? そんなこと、とっくの昔に気付いてるさ。気付いているから、強がるしかないんだろ?」
「強がってどうなるというのです? サマエルさんを苦しめるだけでしょう?」
「だろうな。だけど、それがどうした? 可愛いペットでも世話の焼ける馬鹿でも、何でもいいさ。男として愛されないのなら、せめて、常に俺のことを考えていてもらいたい。例えばそれが、怒りや嫌悪でも……殺意でも……」
「それはもう、愛ではありませんよ。ひどくいびつな独占欲です」
「分かってる。何もかも、ちゃんと分ってる。けど、好きなんだ。どうしようもなく好きで仕方ないんだ。お前は神だから、自分の気持ちを抑えられるのかもしれないけどな」
ピーコックにそう言われ、コニラヤはしばし沈黙する。
神であっても、自分の心を抑えることは出来ない。コニラヤはレインが大好きだし、異性としてはルキナのことが気になって仕方がない。必死にこらえていても、今もピーコックなんか放り出してレインの隣に居たいと思っている。それどころか、レインと背中合わせに戦うマルコに嫉妬心すら抱く有り様だ。
そこは僕の居場所なのに。
そう言いたくて、気が狂いそうになっていて――。
「……僕だって、簡単に気持ちを抑えられるわけではありませんよ。好きなものは好きです。それだけは、どうにも我慢できません」
「クソ野郎。自分のことは棚に上げて偉そうに説教かよ」
「……すみません、言いすぎました。でも、これだけは言わせてください」
「なんだよ」
「自分を呪うくらいなら、サマエルさんに感謝の言葉を。神や天使は、信徒からの信仰心で真の力を発揮します。あなたがサマエルさんの行動に感謝すれば、彼女はもっと戦いやすくなります。彼女を強くするかどうかは、あなたの心次第なんです」
「……そういう関係は、お前とレインだけじゃないんだな?」
「はい。タケミカヅチさんやツクヨミさんのように信徒が多ければ、『器』一人に大きく左右されることはないと思いますが……サマエルさんは僕と同じく、『器』以外の信徒を持たないはずです」
「……本当にクソ野郎だな」
「はい?」
「何が無力だ! 俺にもできる事があるなら、さっさと言いやがれ! このド腐れヘタレ野郎!」
「ぅぶっ!」
いつの間に回復していたのか、ピーコックは突然体を起こし、その勢いでコニラヤの鼻っ面を思い切り殴りつけた。そして胸いっぱいに、大きく息を吸い込み――。
「サマエルちゃーんっ! 頑張れえええぇぇぇーっ!」
口に出した言葉はそれだけである。けれど、サマエルにはそれ以上の思いが伝わっていた。
心させてごめん。
俺は大丈夫。
愛してる。
君を信じてる。
意地でも信じ抜いて見せるから――だから、全力で暴れろ!
サマエルは自分に流れ込む力を感じていた。無力感や劣等感にゆがめられた不純な感情ではない。何の濁りもない純粋な愛と信頼は、天使にとっては最高の力となる。
「ふん! 生意気だぞ、ゴミクズのくせに!」
フッと笑って、天に向かって手を伸ばす。
次の瞬間、サマエルの体は天から降り注いだ光に包まれた。
〈人間よ、其方の内に眠る『愛』は、今、確かに呼び起こされた。
認めよう。そして祝福しよう。
其方の伴侶、天使サマエルに新たな力を授けん。〉
どこからともなく聞こえた声。その余韻が消えぬうちに、世界に赤い閃光が奔る。
「愛を知らぬ不幸な子よ。其方等を、聖母の愛へと導かん! 《レッド・アサンプション》!」
赤い光の矢に撃たれ、モンスターが倒れてゆく。胸を射抜かれたモンスターたちは一体、また一体と姿を変え、赤ん坊の姿となって天へと召し上げられた。
しかし、これで終わるならば苦労はない。五百体以上のモンスターを瞬時に浄化したにもかかわらず、その次の瞬間から、またもモンスターの大量発生が始まる。
「ウッソ! なんで⁉」
「今の超必殺技で終了じゃないんですか⁉」
思わず声をあげるピーコックとコニラヤに、サマエルが告げる。
「どこかの馬鹿ップルが現在進行形でこれを作り出している! 親のほうを何とかしないと、恵まれない子供は増える一方だぞ!」
「あのクソ野郎!」
「馬鹿ップルに死を!」
婚姻の宣誓は成立していても、闇堕ち状態で人と神とが交わっているのだ。まともな子供が生まれるはずが無いことは、説明されずとも理解できた。
「早くあのバカチンをぶん殴ってやらないと……ってゆーか、どこにいるんだよ! いないじゃん!」
「それ以前に、右手千切れてるのに子作り続行してるって、いったいどんな状況なんでしょう? いくら神でも、さすがにそんな状況ではフニャフニャなんですけど……」
「完全に人間を引退しているとしか思えないな……」
「千切れた手首だけが動いていたのもかなりのモンスター感が……あれ? そういえば、さっきの手首は……」
コニラヤが視線を動かすと、芝生の上でスマホ画面をタップする手首が見えた。軽やかな手つきでトトトンと入力している文字列は、どうやらピーコックへのメッセージのようだ。
日本語が堪能でないピーコックの代わりに、日本在住の天使たちが画面の文字を読み上げてくれた。
「どんな手段を使ってでも俺を止めてくれ。俺は闇の影響で暴走中だ。……と、書かれています」
「ん? ってことはこの手首、ベイカーの意識あるのか?」
ピーコックの声に、手首は作戦行動用のハンドサインで『YES』と答えてみせる。
「お前、今どうやって生きてんだよ……?」
今度は『NO』。もう生きてはいないと言いたいらしい。
「ってことは何か? 今のお前は幽霊か何かで、自分の死体の断片を操ってるだけなのか?」
また『YES』と示してみせる。
「……お前、そういう笑えない冗談、やめろよな……?」
もう一度『NO』と示す。
冗談ではなく、本当に死亡していると言いたいらしい。
「……やはり、人間の体で神の『闇』を肩代わりすることは出来なかったのですね?」
コニラヤに問われ、ベイカーの手は若干の間を置いたあと、『YES』と答える。
「……そうですか。納得できました。だから、婚姻は成立したのに子供は祝福を受けていないと……」
ピーコックはコニラヤに目配せした。モンスターたちと交戦中のマルコとレイン、メリルラント兄弟はこのやり取りに気付いていない。彼らにはまだ知らせてはいけない。そんな言葉の代わりに投げかけられた視線に、コニラヤも黙って頷く。
コニラヤは草の上に落ちているスマホとベイカーの手を拾い上げ、仲間たちからは死角になるよう、自分の腕の中に抱え込む。
「サイトさん、しばらく、他の人には黙っていようと思います。いいですね?」
手首が『YES』と答えるのを見て、コニラヤは次の質問をする。
「あなたを止めるには、どうしたらいいのでしょう?」
ベイカーの手首は指先だけで何かを指し示す。
「……? なんです?」
指が向けられた方向を見ても何もない。しかし、手首はもう一度同じ動作を繰り返す。
「……こっちに行けと……?」
そう呟きながら足を踏み出して、コニラヤは背中に妙な悪寒を感じた。
もう一歩踏み出せば、そこに別の世界の入り口がある。
そんな感覚に囚われ、慌ててピーコックに視線を送る。
ピーコックも気付いていた。一見すると何もないその場所は、つい先ほど、どこからともなく白虎が出現した地点である。
「ここに、空間の裂け目があるんですね……?」
ベイカーは『YES』と答える。
二人は視線を交錯させ、同時に頷き合った。ピーコックもコニラヤも、サマエルとレインとは一心同体である。相方を置いて別の世界へ飛ぶことは出来ない。今この場でベイカーを止めに行けるのは、メリルラント兄弟しかいなかった。
「エリック! アスター! ベイカーのいる『心の世界』に入る方法が分かった! こっちに来てくれ!」
ピーコックの声に気付き、メリルラント兄弟が駆け戻ってきた。ピーコックが二人に伝えた言葉は、「ここに空間の裂け目がある」、「絶対に死ぬな」。その二点のみだった。
ピーコックとの付き合いが長い二人は、それだけでおおよその事情を理解した。ベイカーの救出は不可能。それは確定事項なのだと。
「行ってくるぜ」
「すぐ戻るジャン」
何の躊躇いもなく足を踏み出し、二人は空間の裂け目に消えていった。