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そらのそこのくに せかいのおわり 〈 vol,08 / Chapter 08 〉

 午後三時を回ったころ、愛花は桜子からの電話を受けていた。

「せんぱぁ~い! 超悔しい! サイトさん他の人に取られちゃったぁ~!」

「他の人って? え? 桜子と一緒にいたのに、別の女の人ナンパしたの……?」

「違うんです~っ! 女に取られるよりもっと悔しいっ! クロノスクロスオーバーですっ! 二人でカフェにいたら、『時空オペレーションシステム☆Chron-OS/Cross-over』の綾田ヤッピとサラシナ毒露と能褒(のぼ)野辺(のべ)伸信(のびのぶ)さんが来て! サイトさんと話がしたいからちょっとごめんね~、って!」

「え~と、バンドの事詳しくないんだけど、能褒野辺さんってタコヤキングのボーカルさんじゃ……?」

「はい! そうです! で、クロノスクロスオーバーは出入り自由のセッションユニットなんです! メンバーとして登録されてるバンドマンはV系以外の人も含めて六十八人! 綾田・サラシナ・能褒野辺の三人はユニット企画の発起人でスカウト担当! 気になったバンドマンがいたらその場で声を掛けることで有名! 私、まったく無名のドラマーが動画投稿で急浮上してユニットスカウトされるまでの現場に居合わせてたのに! 肝心の加入の瞬間にその場にいられないなんて! 先輩! これってすっごく悲劇ですよね⁉」

 音楽マニアの熱い発言に、愛花は大きく頷いた。

「うん! そうだよね! 桜子ほどのV系バンドマニア、そうはいないと思うし! せっかくなら、ちゃんとその瞬間を見届けたかったよね!」

「せ~ん~ぱ~いっ! 私のバンド愛を否定しないで受け入れてくれる人、愛花先輩だけですぅ~! 私、先輩大好きですぅ~!」

「私も桜子大好きだよ! だって桜子は、自分のやりたいことにまっすぐひたむきなんだもん。桜子が好きな音楽の話してるのって本当に幸せそうで、聞いてるだけで楽しいよ」

「ああぁ~っ♡ ありがとうございますぅ~っ♡ あ、そうだ! 先輩! 先輩って、サイトさんとお知り合いなんですか?」

「え? なんで?」

「サイトさんが、『愛花ちゃんと愛花ちゃんのお姉さんに伝言よろしく』って……先輩、お姉さんなんていましたっけ? 一人っ子ですよね?」

 愛花の『お姉さん』と言えば、カリスト以外に考えられない。愛花は咄嗟に「いとこのお姉ちゃんのことだよ」と言って誤魔化した。

「いとこまでお知り合いって、家族ぐるみのお付き合いなんですか? あれ? でも先輩、サイトさんのこと知らなかったんですよね……?」

「う、うん、私はね。さっきお姉ちゃんとLineで話して、ホントびっくりしちゃったよ~。まさか、お姉ちゃんの知り合いが桜子と一緒に遊んでたなんて……」

「あ、そういうことですか! ホント、偶然ってすごいですよね! 出待ち尾行でも全然自宅が特定できなかった綾田君が、普通に私服で、向こうから話しかけてきてくれたんですもん! サイトさんと出会わせてくれた偶然の神に熱烈大感謝祭ですよ! 感謝感激アメアラレです! もう生贄の肉を捧げて踊り狂うしかない!」

「桜子、あんたどこの部族⁉」

 それ以前に、バンドメンバーを尾行して自宅を突き止めようという発想が危険なストーカーそのものだ。はたしてこの子の趣味は自分が応援しても良いものなのだろうか。そんな微妙な危機感を抱きながら、愛花は話を戻す。

「それで、伝言って?」

「あ、はい。『絶対にあきらめるな』って言ってましたけど……ダンス部のことですよね? 大会近いし?」

「あ、うん、たぶんそうだと思う! きっと、お姉ちゃんから聞いたんだよ。お姉ちゃんも、ウチの部が予選突破したのすごく喜んでくれてたし!」

「だったら先輩! これから一緒に自主練しましょう!」

「え? 自主練?」

「はい! 私もサイトさんに『頑張ってね』って言われて、なんか今、すごくメラメラしてるんです! 今なら私、ターンのタイミング間違えずにできる気がする!」

「本当⁉ じゃあ、どこでやる⁉ もう電車も普通に動いてるみたいだし、学校?」

「今から学校行ったんじゃ、すぐに下校時刻になっちゃいますよ。この前の図書館裏の公園どうですか? 音楽さえ流さなければ、九時くらいまでいられますよ」

「あ、いいね! あそこなら、私も自転車で行ける距離だし!」

「じゃ、今すぐ家出る感じで~」

「うん、またあとでね~」

 愛花は電話を切り、手際よく荷物をまとめる。

「カリスト! 聞いてたよね? 私、今から桜子と自主練だから! 留守番よろしくね!」

 部屋の隅で少女漫画を読んでいたカリストは、びっくりしたように問い返す。

「なんで⁉ 私、一緒に行っちゃ駄目なの⁉」

 愛花はカリストのほうに体語と向き直り、腰に手を当て、はっきりと宣言する。

「ダメ! だってカリスト、この頃なんか変なんだもん! 妙にビクビクしてたり、急に暗くなったりしてさぁ! ねえ、サイト・ベイカーと、本当は何があったの? 勝手にいなくなっちゃっただけなら、そんなに怖がる必要あるの? あの人、私たちの面倒見てくれたアークさんの仲間なんでしょ? 動画見ても、なんかいい人っぽいし! 桜子のことも励ましてくれてるし! カリストが怖がってるから悪い人なのかと思ってたのに……なんか違う! ねえ、どうして私に隠し事するの⁉」

「そ、それは……」

 カリストは視線を逸らす。

 愛花には気付かれていないと思っていた。カリストにとって、愛花は可愛い妹のようなもの。いつもフワフワと柔らかい笑みを浮かべる小さなお姫様には、どんな苦難も与えてはならない。そう思い、必死に守り続けてきたのだが――。

「ねえ、カリスト? この際だから言わせてもらうね? 私、今桜子と話してて、自分の気持ちがハッキリわかったの。私は私の意思で、私の生きたいように生きる。もう、みんなの優しさに甘えていたくない。どんなつらい目に遭っても、痛い思いをしても、自分で選んでそうなったなら、私は何も後悔しない。だからお願い、カリスト。これ以上、私を守らないで。私、もうちっちゃい子じゃないんだよ?」

「……愛花……」

 何も言えなかった。人間のほうから神的存在の加護を拒絶することがあるなんて、カリストには理解不能だった。

 弱くもろい人間たちは、いつの時代も必死に祈り、神にすがって己の進むべき道を知ろうとした。けれど、愛花はそれを不要だと言う。己の力で、己の道を選択すると――。

「じゃ、行ってきます! 絶対についてこないでよね!」

 カリストの顔も見ずに、愛花は鞄を抱えて部屋を飛び出していく。

 一人残されたカリストは、頬を伝う涙の感触で自分の罪を悟る。

 愛花を守っていたのではない。

 自分が生きる理由を作るために、余計なおせっかいを続けていただけなのだ。

「……私……は……私は、結局……」

 自分が生き延びるためだけに、女神たちの心と体に酷い傷を負わせてしまった。

 彼女らからの報復を恐れ、ベイカーを恐れ、愛花を失うことを恐れ――それらはすべて、自分自身を守るための『恐れ』である。結局自分は、我が身一つしか愛してはいなかったのだ。

「……ああ……だから、主さまは……」

 愛されるばかりではなく、人を愛することを覚えなさい。

 いつか言われたその言葉が、胸の奥の、とても深いところに突き刺さった。その傷は深く、大きく、『カリスト』という存在それ自体を切り裂いていくようで――。

「私は……私、は……」

 体の傷から血液が流れ出すように、心の傷から、何かが止め処なく流れ落ちていく。

 その何かが流れ尽くしてしまったら、あとに残るものは何だろう。

 カリストはまるで他人事のように、ぼんやりとそんなことを考えていた。




 午後三時三十分。新宿駅近くのカラオケボックスを出たベイカーは、綾田、サラシナ、能褒野辺らと別れ、新宿御苑へと向かった。セッションユニットに加入することにはなったが、なにしろベイカーはこちらの人間でない。次にいつ日本に来るかもわからないと説明したのだが、都合のつくときに自由に飛び入り参加できるのが『クロノスクロスオーバー』の特徴だと、半ば強引に話をまとめられてしまった。

 某うどん屋の店員そっくりなギタリストに熱心に説き伏せられ、思わず首を縦に振ってしまったが――。

「う~む……本気で仕事に嫌気がさしたら、バンドマンに転職するのもアリかもしれんな。もしもの時のためにも、練習量を増やしておくか……」

 全騎士団員とベイカー男爵領民が号泣しそうな発言だが、幸い、今は隣に隊長補佐も執事もいない。何気ないつぶやきは誰の耳にも入ることなく、吹き抜ける風にさらわれていく。

 ベイカーは新宿御苑に入り、人気のない木陰を選んで腰を下ろした。

 降り注ぐ日差しはなおも弱まるところを知らず、東京の最高気温記録を更新し続けている。そのためか、園内の人影はまばらである。こんな暑い日に屋外、それも入園料が必要な芝生広場をうろつく人間なんて、よほどの暇人か物好きのみだろう。

「やれやれ。せっかく独占状態だというのに……」

 ベイカーは今、耳も角も引っ込めて地球人に化けている。少ないながらも人の目がある以上、翼を広げて寝転がることはできない。残念に思いながら、綺麗に刈り込まれた芝の上に横になった。

「……なあ、白虎? 俺を地球に連れてきた理由、そろそろ話してくれてもいいんじゃないか?」

 自身の内側にいる神に、小さな声で問いかける。

「地球の今の様子が知りたいと言っていたが、それは嘘だろう? お前はずっと、俺の目を通して誰かを探している。誰だ? ちゃんと話してくれれば、俺にも何か手伝えることがあるかもしれないが……?」

 返事はない。答えるつもりが無いのではなく、うまく説明できないようだ。それは白虎と一体化した自分が一番よく理解できる。

「名前を知らないのか?」

 そう尋ねると、かすかに頷くような気配を感じた。

「……そうか……」

 白虎は記憶をリセットされている。サラ同様、赤ん坊のように真っ新な状態に戻されているのだ。自分が心底会いたいと願う人物の顔も、名前も、何も覚えていないのだろう。

「お前の中に、『会いたい』という気持ちだけが残されているのだな?」

 白虎は頷く。そしてベイカーの前に顕現してみせる。

 傍らに現れた白虎は、虎の面をつけた五歳くらいの子供の姿をしていた。

「……サイト。我はお前に殺された。それは分かる。お前の記憶をすべて読ませてもらったから。けれど、どうしてもわからない。どうしてお前は、仲間に本当のことを話さない? お前がありのままを正直に話してくれたなら、きっと、我は己の意思でお前に斬られただろうに……」

 ベイカーはニヤリと笑い、不敵に言い放つ。

「それじゃあ面白くない」

「面白くない?」

「そうだ。せっかくタケミカヅチと同等以上の神に出会ったのに、戦いもせず終わりにするなんてつまらないじゃないか」

「……そんな理由で、我と戦ったというのか……?」

「悪いか? 俺はあくまでも、神に体を貸している側だ。タケミカヅチの真意は俺には読めないし、本気のタケミカヅチに何が出来るのかも、正直よく分かっていない。お前と戦うことで、タケミカヅチの力を試してみたいと思ったんだ」

「神を試したのか? 人間の分際で?」

「俺に試されて不適格品扱いされる不出来な神なら、俺より先に創造主がリコールしているはずだ」

「お前自身が……『神の器』という存在が、どんな意味を持つものか分かっていないのか? お前がタケミカヅチを信じなければ、彼の能力を最大値まで引き出すことは出来ないのだぞ? なぜ、わざわざ彼の枷となるようなことをする?」

「ほう? 俺の記憶を他人が見ると、そう見えるものなのか?」

「どういう意味だ?」

「言葉通りの意味だ。これでも当人同士は、それなりに上手くやっているつもりなんだが……まあ、諸手を挙げて歓迎される救世主様なんて、俺には似合わないからな。俺はタケミカヅチと違って、れっきとした常識人だ。光をもって悪を滅し、主の……天之御中主アメノミナカノヌシの聖名の元に地上を統治するなんて、そんな壮大な世界征服ごっこは不可能だと思っている。中二病じみた大それた夢は、逆立ちしたって抱けないさ」

「ならば、お前はどんな世界を望む?」

「そうだなぁ……? 善と悪とが適度な匙加減で人々を飽きさせない程度にせめぎ合う、エンターテインメント要素の高い戦争だらけの世界かな? 軍需産業は利益率が高いからな。ほどほどに安全なところで、薄ら笑いを浮かべながらボロ儲けさせてもらおうと思っている。現実的だろう?」

「……おそらくお前は今、この世で最も邪悪な思想に溺れている。なぜ、主はお前を裁かないのだろうな?」

「創造主がタケミカヅチを『切り札』として考えているうちは、俺を消すことは出来ない。今から俺と同じ性能の『器』を作り直すには、時間が掛かりすぎる」

「なるほど。お前という存在それ自体が、タケミカヅチの最大の足枷か……」

「最大? 馬鹿を言え。こんなちっぽけな人間ひとりに足を引っ張られる神に、世界なんて途方もない大きさのものは救えはしない。無茶なことを始める前に止めてやるのも、ある種の優しさだとは思わないか?」

「理解不能だ。お前はその身に神を宿しながら、神を信ずることはないのだな?」

「いや、信じているぞ。役に立つ駒としてなら」

「なんと不遜なる者よ。けれど、なぜだ? なぜ我は、お前から邪気を感じることができないのだ……?」

「邪気だと? そんなもの、無くて当たり前だ。別に俺は、自分から戦争を起こそうとしているわけでも、大量殺戮を行おうとしているわけでもない。今、実際に起こっている状況をいかに上手く切り抜けるか考えているだけだ。うちの国が戦争を始めなくとも、他所の国同士は常に戦争をしている。俺にそのつもりがなくとも、うちの領地から産出した鉱物資源は武器や兵器に加工され、今この瞬間にも数十人、数百人の命を奪っていることだろう。俺にできる事と言えば、鉱物を売って儲けた金を使って、自国の防衛力を高めることくらいだ。皮肉だろう? 戦争を吹っ掛けられないようにするためには、他所の国同士の戦争にせっせと燃料を注いでやるしかないのさ。そうでもしなければ、獲物として狙い撃ちされるのはうちの国だからな」

「……間違っている。お前を含め、今の人間の在り様のすべてが。だが、残念だ。我にはその間違いを正すだけの力はない……」

「だろうな。おそらくこれは、今あるこの世界を丸ごと叩き潰さない限り修正できない『究極の不具合』だろう。それは誰より、創造主がよく理解しているはずだ。神や天使がバカだとしても、その上の存在は、もう少しだけましな頭を持っているようだからな」

「お前は、もう少し物の言い方を考えたほうが良い。そんなことばかり言っていると、敵が増えるばかりだぞ?」

「安心しろ。敵の敵を増やすのも得意だ」

「敵の敵?」

「共通の敵さえいれば、人間は簡単に手を取り合える。そこには愛情も友情も信頼も要らない」

「……どこまでも穢れた生き方を選ぶのだな、お前は……」

「何をもって『穢れ』とするか。それは個人の思想の自由だ。俺の中では、この辺はまだクリーンなほうだな」

「然らば、お前は何を禁忌とする?」

「さあな。その場の状況による。極論で言えば、殺人も略奪も強姦も是とされる状況は存在する。いくら仮定の話をしたところで、実際その場で同じ状況が発生する確率は限りなくゼロに近い。だから、俺は自分のルールは一つしかもたないようにしている」

「ふむ? 興味深い。その一つとは?」

「友を裏切らないことだ」

「……友? お前の記憶を見る限り、お前が真に『友』と認識している人間は二人しかいないな?」

「ああ。ロドニーとキールだ」

「彼らを裏切らないようにするには、彼らのルールに従って生きることになるが?」

「四六時中そうする必要はない。一緒にいる時間のみ、二人を判断の基軸に置いている。ロドニーの勘とキールの視野は、俺にはない要素だからな」

「……分からない。その友の一人は、いつマガツヒに呑まれるやもしれぬ不安定な状態に置かれている。お前は、それでも彼を判断の基軸とすると?」

「悪いか? 人間なんて、所詮は邪悪で穢れた間違いだらけの存在じゃないか。普通の状態だって、マガツヒと似たようなものだろう?」

「いいや。我はそうは思わない。人は己の力で間違いを正せる。マガツヒにその力はない」

「自浄作用のある奴は、そもそも後戻りできないレベルの間違え方をしないと思うんだが?」

「それは確かにそうかもしれない。しかし、今は己を正せぬ者も、我らが導けば、きっといつかは……」

「いつかの話なんて知ったことか。俺の人生はどんなに長くても百年と少しだぞ? そんな短期間で何ができる? 何十万年もかけて人間を進化させて、それでもこんなに不完全な猿のままなのに。神に一言助言された程度で、コロッと変われるものではないだろう?」

「……お前は、もう少し夢を見てもいいと思う……」

「断る。俺に必要なのは現実的な目標と、その実現に必要な力だけだ。さあ、白虎。納得したなら、そろそろ俺に行動の自由とタケミカヅチを返してくれないか? あの中二病患者が大言壮語を喚き散らしていてくれないと、どうにも調子が狂って仕方がない」

「申し訳ないが、それはまだできない」

「なぜ?」

「彼は酷く弱っている。今彼の意識を回復させたとしても、彼は戦うことが出来ない」

「そうか。ならば白虎、今だけはお前が相棒だ。周囲の人間に『何も起こっていない幻覚』を見せることくらい、お前には容易かろう?」

「……皮肉だな。共通の敵さえいれば手を取り合えるのは、神も同じか……」

「ああ、この上なく皮肉だな」

「来るぞ、構えろ」

「わかっているさ。……我が手に降りよ! 魔剣《麒麟》! 魔剣《燭陰》!」

 ベイカーは勢いをつけて立ち上がり、両手に剣を構えた。

 その瞬間である。


 芝生に漆黒の矢が突き刺さった。


 気配を読んでひらりと躱したベイカーは、矢が飛来した方角へ《雷火》を放った。それは上空を高速で飛翔する『何か』に直撃し、見事撃墜することに成功したのだが――。

「きいいいぃぃぃやあああああぁぁぁぁぁーっ!」

 地面に叩きつけられてもダメージはないらしい。それはすぐさま起き上がり、奇声を上げながらベイカーに迫る。

 黒い霧に覆われた、小柄な何か。闇堕ちと化した神であることは一目瞭然だが、霧のせいで顔も体も見えない。ベイカーはその闇堕ちに、悲しげな眼を向ける。

「……だから、諦めるなと言っただろうに……」

 ベイカーに掴みかかろうとした手は、黒い霧に覆われてなお、細く小さいものだと分かる。もとは白く滑らかな、柔らかな肌であったのに――。

「……妹のように思っていると、伝えただろう?」

 どうやら自分では、彼女の心を支えてやれるだけの存在にはなれなかったらしい。己の力不足を悔やみつつ、ベイカーは剣を振るう。


 闇堕ちの両腕が切断された。


 苦痛に悲鳴をあげながら、それでも彼女はベイカーに襲い掛かる。

 ベイカーは闇堕ちの体当たりをオーロラの剣でいなし、背後に回り込んで足払いをかける。

「白虎!」

 名を呼ばれ、白虎は転倒した闇堕ちに手をかざす。その手から発せられた銀色の光に包まれ、闇は一瞬で浄化されたのだが――。

「……して……」

 黒い霧から解放された彼女は、一切の光を失っていた。死人のような生気の無い目で、中空を見つめてぼそぼそと呟く。

「……おねがい。殺して。私は、間違えてしまったから……」

 何を、とは訊かない。ヘファイストスは女神らを強姦し、自分やヒハヤヒ、ミカハヤヒにまで手を出した。直接的ではないにしろ、ニケとカリストが力を貸していたことは間違いない。二柱に悪気が無かったことは分かるが、あのコンプレックスの塊のような神に力と場所を与えておいて、その後の監督を怠った責任は大きい。

 ベイカーはカリストの頬に触れながら、感情を殺して淡々と尋ねる。

「お前は、自分自身を許せなくなったんだな?」

 カリストは何も答えない。ただ、感情の無い目でどこともつかない宙を見つめ続ける。

「……カリスト、お前はどうしたい? このまま消えるか? それとも、俺と一緒に行くか?」

 魔剣となって次の時代を生きる。

 これまで考えもしなかった選択肢を提示され、カリストはベイカーに視線を向ける。

「……私には、生きる資格なんてないでしょ?」

「そうでもないさ。まだこの事象に創造主は介入していない。つまり、生きること自体は否定されていないんだ。ただ、死ぬ事も否定されていない。お前が望むようにしても、何の問題もないということだ」

「私の、望むように……?」

 カリストはしばらく考えるような顔をして、ゆっくりと首を振った。

「わからない。サイトの好きなようにして」

 この答えに、ベイカーは肩をすくめた。

「こういう重要な判断を俺に丸投げするなよ。お前が自分自身を許せない気持ちはよくわかるが、生きることを望むのが、それほど重い罪なのか?」

「そりゃあ軽いわけないでしょ? だって私、これが二回目だし」

「二回目?」

「そう。私、生き残るために、他のカミサマ食べちゃったんだもん。でなくちゃ、私みたいな弱い精霊が生き残ってるはずないじゃない」

「そう言われてみれば、そうだな。誰を食べた?」

「アルテミスさま」

「……あのアルテミスか? 月の女神で……太陽神の妹の?」

「そうよ。他に誰がいるの? 月の女神の心臓は、私が食べちゃったの。アルテミスさまはもういない」

「それは……お前の意思で食らったのか? お前が、そんなことをするとは思えないのだが……」

「私の意思じゃない……とは、言い切れないかな。アルテミスさまが、『貴女だけでも生きなさい』って自分で心臓を抉り出して……私は、それを食べずに捨ててしまうことも出来た。でも、私は食べたの。だから私、アルテミスさまの分も生きなきゃって、必死に生き延びてきたけどさ……」

「……もう、いいんだな?」

「うん。もういいや。私、疲れちゃった。自分が生き延びるためだけに、いろんな人に迷惑かけたり……なんか、生きる理由が分からなくなっちゃった。だからもういいの」

「そうか……。何か、言い残すことは?」

「ん~、そうだなぁ~? ……あ、そうだ。もしも愛花が困ってたら、私の代わりに、サイトが助けてあげて。他には……特にないかな……?」

「ニケには、何もないのか?」

「あるにはあるけど、言わない。あの子真面目すぎるから。私が何か言ったら、この先一生、私の言葉に縛られるだろうし……」

「……わかった。では……」

「うん。バイバイ、サイト」

「ああ……」

 ベイカーは両手の魔剣を解除し、改めて、何の色もついていない光の剣を作り直す。それを両手で構えるところまで見届けて、カリストはゆっくりと瞼を閉じた。

「さようなら、カリスト」

「……これからよろしくね、サイト」

 ストンと真下に下ろされる、透明な光の剣。実体無き刃はカリストの額に吸い込まれるように突き刺さり、彼女の精霊としての存在のすべてを吸い上げてゆく。

 十秒にも満たない、無音の終焉。

 カリストが消えたそのあとには、純白の魔剣を手にしたベイカーの姿があった。

「……月の女神と、その添え星か……」

 両手で握り締めていたはずの剣の柄は、いつの間にか、左右それぞれの手にひとつずつ存在していた。


 スパイクバヨネットを装着した歩兵銃、《アルテミス》。

 ソードブレイカー一体型の左手用の籠手、《カリスト》。


 長距離戦から接近戦までをカバーする、二つでひとつの純白の魔剣である。

「う~ん……? 魔剣なのに、銃……なのか? 籠手と一体型のナイフもはじめて見る形状だが……実体がある物を、どうやって取り込めば……?」

 白虎がそうであったように、通常、魔剣は実体を持たない。光の剣を自身の胸に突き刺すことで体内への取り込みが完了するのだが、どこを触ってもセラミックのような硬質な手触りがある。これを体に突き刺したりしたら、普通に怪我をするだろう。

 ベイカーが武器の感触を確かめていると、突然、白虎が叫んだ。

「この炎の気配! 『彼女』だ! 我が探していたのは、きっとこの……!」

 目をカッと見開き、大地を蹴って跳び上がる。そのまま宙を駆け上がっていく白虎の姿を目で追って、ベイカーは上空の影に気付く。

 大きな翼は闇の色、纏う瘴気は闇堕ちのそれ。けれど、まだ正気を失ってはいない。正気を保ったまま、あまりに巨大な怒りから、今まさに闇に堕ちようとしている。


 それは勝利の女神、ニケであった。


 カリストの異常を察知して追ってきて、一部始終を目撃したようだ。はたしていつから見ていたのか。こちらの会話はどの程度聞こえていたのか。ニケがこの状況をどう理解しているかは、表情からは窺い知ることが出来ない。それでもベイカーには、彼女の気配で分かったことがある。


 ニケは今、魔剣カリストを装備した自分を『攻撃対象』と認識している。


「白虎! 離れろ!」

 声を上げるも、遅かった。ニケに近付こうとした白虎の体は、闇色の炎に呑まれ地に落とされる。

 白虎は苦悶の声をあげながら炎の中で身もだえているが、ベイカーには彼を救う余裕はない。白虎に浴びせられたものと同じか、それ以上の火力の攻撃が連続して撃ち込まれている。

「く……やめろ、ニケ! 俺とお前に、戦う理由などないだろう⁉」

 白虎とタケミカヅチは行動不能。パークスやコンコルディアはこちらの世界に来ていない。ベイカーは今、完全にひとりである。とてもではないが、人間一人の力で神、それも軍神であるニケに敵うわけがない。必死に回避しつつ、どうにか言葉でなだめようとするのだが――。

「……り者……裏切り者……裏切り者……」

 ニケは壊れた音楽プレーヤーのように、同じ言葉をぶつぶつと繰り返している。こちらの言葉は聞こえていないのか、聞く気が無いのか。話が通じそうにないことだけは分かった。

「ニケ! 頼む! 聞いてくれ! 俺は、お前とは戦いたく……ぅぐっ⁉」

 炎は回避できたが、その炎の真後ろからニケが迫っていた。ニケはベイカーの首を掴み、同時に足払いを掛けている。ベイカーの体はほんの一瞬宙に浮き、次の瞬間、地面に激しく叩きつけられていた。

「あ……」

 ノーガードで後頭部、背中、腰を強打した。もしも足元が芝生でなくコンクリートやアスファルトであったら、この一撃で頭蓋を砕かれていただろう。しかし、だからといって何かの救いになるわけでもない。死の瞬間がほんの数分先延ばしされただけだということは、ベイカー本人が一番よく分かっていた。

 芝生に横たわる自分の体。その感覚が、一切感じられない。

(脊椎をやられたのか? いや、それとも、闇の毒で麻痺状態に……?)

 ピクリとも動かない自分の体。その上に、闇を纏った女神が圧し掛かる。

「……っ! ……っ⁉」

 言葉を発したつもりなのに、自分の口から出たのは掠れた呼吸だけだった。どうやら喉も麻痺しているらしい。

「……」

 こちらから何かを問うことはできない。ベイカーはニケの目を見て、彼女の言葉を待った。

「……すまない、サイト。本当は、こんな手荒なことはしたくないのだが……」

 ふっと溜息を吐き、ほんの一瞬、視線を逸らす。

 善悪の判断はつくらしい。ということは、やはりニケは完全に正気を保ったまま闇に堕ちている。なにをどうすればそんな状態に陥るものなのか、ベイカーには原因が分からない。

 ベイカーの心を見透かしたかのように、ニケは話を始める。

「なぜ、私が堕ちようとしているか分かるか? なぜ、闇に包まれても正気を保っていられるか分かるか? 分からないだろう? お前は、私と違って自由だからな……」

 ニケはベイカーの手元に転がった歩兵銃と、左手に装着されたソードブレイカーに目をやる。

「……裏切り者。一人で逃げるなんて。……共に生きようと、約束したではないか……」

 ベイカーは気付く。ニケが怒りを覚えているのは自分に対してではない。カリストが約束を破ったことに対してだ。だが、しかし。その怒りから我を見失い。闇に堕ちたというわけでもない。確かに自分を攻撃してきた理由は左手の魔剣カリストなのだろうが、それだけの理由でこうしているわけではなく――。

「……なあ、サイト? お前は私を姉のように慕ってくれたな。私はそれが嬉しくて、同時にとても悲しかった。お前がお前でなければ、私はそれでも構わなかったのに……」

 近づけられたニケの顔。その目を見て、ベイカーはようやく理解した。

 ニケが自分に寄せている感情は、弟を見守る姉のような、慈しみに溢れた愛ではない。もっと激しく、ドロドロとした――煮えたぎる溶岩のような、すべてを焼き尽くす灼熱の情愛である。

「サイト、私はもう我慢できない。私はお前が欲しい。お前が他の女と一緒にいるところなんて見たくない。他の女神を魔剣として使うともころも見たくない。お前の手の中に他の女がいると思うだけで、私は気が狂いそうになる……」

 そう言いながら、細い指先でツウッとベイカーの肌をなぞる。白い指は頬から首、肩、腕へと、焦らすようにゆっくりと進み――。

「お前を、私だけのものにする。他の女になんて触れさせない……」

 左腕に装着された籠手、カリストが変じた魔剣が外され、ポンと放り投げられる。体の右横に落ちていた歩兵銃もニケが放った闇の衝撃波に弾かれ、いずこかへと飛ばされてしまった。

「これで邪魔者はいなくなった。さあ、サイト……」

 両手でベイカーの頬を包み込み、優しく唇を重ねる。啄むように、軽く触れるだけの口づけ。その瞬間、ベイカーは自分がニケの『心の世界』に連れ去られたのだと悟る。

 一瞬で様変わりした周囲の景色。

 真っ暗な夜空に、真っ赤な月が燃えている。

 柔らかな草の上に身を横たえていることは同じだが、自分たちを取り囲むように、茨の檻が出現していた。どこにも逃げられない。

「ニケ、ここは……」

 声が出せる。

 体の感覚も戻っている。

 しかし――。

「んっ……」

 ニケの唇で口をふさがれた。舌を絡めるたびに、少しずつ、少しずつ、心が麻痺していくのを感じる。

(……ああ、そうか。この『闇』は……)

 ザラキエルと同じである。あの天使は創造主から与えられた『役割』を放り出し、己の望みのためだけに行動した。それゆえに発生した闇に包まれ、苦痛に苛まれていたが――。

(ニケも、今は自分の望みのためだけに……)

 闇の影響だろうか。抵抗する気も起きない。ベイカーはされるがまま、衣服を剥ぎ取られ、女神の愛撫を受け入れる。

 今の彼女は勝利の女神でも、人を導く霊的な存在でもない。ただ一人の男を求め、愛する、当たり前の恋をする女性。それだけの存在だった。

(……ん? いや、待てよ……? ということは、まさか……ニケには『恋愛』が許されていなかったのか……?)

 ベイカーは女神たちの騒々しいやり取りを思い出し、ハッとした。彼女らは地球での神としての勤めを終えて、ようやく恋愛許可が下りたような話をしていた。けれど、ニケは違うのだ。ニケは『器』となる人間を創り出し、自分たちの意思で二つの世界を自由に行き来していた。ニケは『地球の神』を引退していない。

(だから……だからか! ニケ同様、カリストもまだ『地球の神』のままだ! 魔剣が実体をもっていたのは……っ!)

 カリストとアルテミスは、姿を変えてなお果たすべき『役割』の中にいるのだろう。そうでもなければ、タケミカヅチの『器』である自分が、魔剣を体内に取り込めないことが説明できない。

(ならば、ニケがまだ正気を保っているのは、『役割』を完全に捨ててはいないからか……? だとすれば、今なら……っ!)

 ベイカーは自分の下腹部に伸ばされたニケの手を掴み、抵抗を試みる。

「やめてくれ、ニケ! 駄目だ! これ以上は絶対に駄目だ! 今ならまだ引き返せる! 俺は、お前が本当の闇堕ちになるところなんて見たくない!」

「……私だって、お前に、無様な姿は見せたくないさ。でも、お前を愛するにはこうするしかない。私は、すべてを捨ててでもお前だけが欲しい……」

「……ニケ……」

 女性にここまで言われて何もしないなんて、男として情けないことこの上ない。けれど、それはあくまでも相手が普通の女性だった場合だ。抱いたら確実に闇堕ちになると分かっていて、行為に及べるはずがなかった。

 悲しげな眼を向けるベイカーに、ニケは、どこかいびつな笑顔を返す。

「お前は、どこまでも優しい男だな。お前がもっとひどい男だったら、迷うことなんて何も無かったのに……」

 ニケは離した顔をもう一度近づけ、ベイカーの顔に甘い吐息を吹きかけた。

 闇の気を孕んだ呼気に、ほんの一瞬、意識が遠のく。ニケの手を掴んでいた腕はあっさり振りほどかれ、ベイカーは再び、女神の手の中で踊らされる。

「なあ、サイト? 私は、私一人が無様に堕ちた姿なんて見られたくないんだ。だから……」

 馬乗りになった女神が、真っ黒な翼を広げて天を覆う。ベイカーは遮られた月明りを探して、視線を彷徨わせるが――。

「……一緒に、堕ちよう……」

 ニケの言葉とともに周囲に満ちる黒い霧。その中でベイカーは叫んだ。それは恐怖の叫びでも、命乞いでもない。しいて言うならば、最後の足搔きに近いものだった。

「おい! 聴こえているか、創造主! 俺は今、この場で誓うぞ! 俺はニケと結婚する! 自分の妻とセックスするなら何の問題も無いよな⁉ だから、ニケを救え! 貴様の脳ミソがクリームチーズやプリンでないなら、何が何でも救って見せろ! これは貴様がやらかした、くだらないミスの結果なんだからな! 俺はともかく、ニケを闇堕ちにしたらこの世界ごと滅ぼしてやるからな! 覚悟しておけよ、このクソ野郎!」

 それだけ言うと、ベイカーはありったけの力で上体を起こし、女神の体を組み敷いた。乱暴にスカートを捲り上げ、その下にある薄絹を引き裂いて――あとはもう、何も覚えていない。

 彼が理性を保っていられたのは、この瞬間までのことだった。


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