そらのそこのくに せかいのおわり 〈 vol,08 / Chapter 06 〉
午後一時三十分。
事故発生から五時間が経過してもなお、総武線は運転再開に至っていない。
「ご覧ください! 駅の入り口にはこのような張り紙がされ、シャッターが完全に下ろされています!」
テレビ画面の中では、レポーターの女性が大げさな身振りでその張り紙を指差している。
〈酷暑により電気系統にトラブル発生。駅構内が停電中〉
人身事故の処理自体は終了しているのだが、いざ運転を再開しようとしたら、今度は停電したというのだ。午前中いっぱいは駅周辺で運転再開を待っていた人々も、完全に諦めて帰宅の途についている。もう誰一人怒る気力もない。現在の東京の気温は三十八度で、今年一番の暑さを記録している。この駅前だけでも熱中症で搬送された人間が二桁に昇る有り様だ。
テレビの取材班は駅周辺で街頭インタビューなどをして回っている。その途中、何度か中継画面が乱れた。現場中継にはよくあることなので、視聴者もテレビ関係者も、はじめのうちは何も気にしていなかった。その都度スタジオからの放送に切り替わり、コメンテーターの特に深い意味はない感想などを挟んでからCMに入る。しかしそんなことを何度か繰り返すうちに、一般視聴者らが録画した映像をネットにアップし始めた。
画面が乱れる直前、カメラは必ず駅のほうを映している。そしてその映像に、ほんの一瞬、黒い巨人のようなものが映っていたのだ。
「ニケ、これ……」
クラスメイトからの知らせで問題の動画をチェックした始鶴は、蒼白な面持ちでニケに確認する。
電車が動いていない影響で、図書委員会の活動も中止になった。始鶴は今、自宅のリビングでスマホ片手にテレビを見ている状態だ。
「これは、まさか……」
隣からスマホの画面を覗き込んでいたニケも、眉間に深い皺を寄せて唸る。
黒い霧に覆われた何か、ではない。これは黒い霧そのものが人の姿をとった、実体のない存在だ。事故や自殺の現場で何度も遭遇したことがある。これは人間の魂が闇に呑まれた、成れの果ての姿である。
「闇堕ちだな。しかしこの大きさは……私の《聖火》で焼き清められるだろうか……」
「さっきサイトさんから送られてきた番号、掛けてみる? いざというときには誰か来てくれるって言ってたし」
「誰か、というのが当てにならない。他の隊員では、どこまで頼りになるか……」
「信頼できない人たちなの?」
「違う。サイトが桁外れに強いだけで、他の隊員はそれほど強くはないんだ。状況や能力からみて、サイトを追ってくるとしたらレインとピーコックだろうが……」
ニケは知らない。自分が地球に渡ったあとでコニラヤが驚異的な進化を遂げ、バンデットヴァイパーが本来の姿、天使サマエルに戻って戦ったことを。
まだ彼らが『役立たずのクラゲ』と『闇を吸い込むだけの変な蛇』だと思っているニケは、彼らに協力を求めることを躊躇っていた。しかし、始鶴にそんな事情は分からない。煮え切らないニケの態度に業を煮やし、さっさと通話アプリを起動させる。
「考えていても状況が良くならないなら、動くしかないでしょ? ……あ、もしもし? サイト・ベイカーさんからの紹介でこちらの番号にお掛けしたのですが、特務部隊の方でしょうか?」
始鶴がかけたのはピーコックのスマホの番号である。地球での活動用に用意された端末の一つで、必ずチームリーダーが持つように指定されている。
まさかの『お問い合わせ』を受け、すみだ水族館でペンギンを眺めていたピーコックは餌のシシャモ以上に濁り切った『死んだ魚の目』で答えを返す。
「あ、はい、サイト君のお友達のピーコックさんですよ~。どちら様でしょうか?」
「申し遅れました。私は阿久津始鶴と申します。ニケの器と言えば、お分かりいただけるでしょうか」
「あー、ニケの。はいはい、分かります。それで、何の御用です?」
「闇堕ちが発生しました。ニケだけでは倒せないサイズなので、ご協力いただけませんか?」
「闇堕ち? どこに?」
「JR総武線の平井駅です」
「ベイカーもそこに?」
「いえ、サイトさんは新宿でうちの高校の後輩とデート中です」
「は? マジで? あいつ、女子高生とデートしてんですか?」
「はい。さきほどTwitterに、メロンソーダにストローを二本刺して一緒に飲んでいる写真をアップしていたので……」
「うわっ、どうしようあのバカ。……あ、じゃあ、今から行くんで。五分くらい待っててもらえます?」
「え? 今、近くに?」
「いえいえ、それほど近くも無いんですけど、オジサン本気出すと空飛べるんで。では」
「え、あの……?」
空を飛べるとはどういうことか尋ねようとしたのだが、それより早く、ピーコックは通話を終了してしまった。
「……ニケ? 今の人、まさか本当に飛べたりしないでしょ?」
ニケは肩をすくめながら答える。
「飛べる。おそらく、ペガサス型のゴーレムホースを使うつもりだ」
「ペガサス……?」
「論より証拠だ。始鶴はこのまま、ここで中継を見ていてくれ。あれは幻覚を使っても、映像には映ってしまうものだからな。どこかに必ず映り込むはずだ。では、行ってくる」
「あ、うん。気を付けてね?」
「ああ、すぐに帰るよ」
始鶴の頬を両手で優しく包み込み、額と額をコツンと合わせる。強く、優しく、美しい勝利の女神の『行ってきます』の挨拶に、始鶴は内心溜息を吐いていた。
ニケが男前すぎて、その辺の男がサルかブタ程度にしか見えない。
女子高生の性的嗜好に深刻な影響を与えている当人は、自身の罪深さになどまったく気付かず、颯爽と戦場に赴く。
それを見送る始鶴は、身体的にはただの女子高生。ニケと一緒に現場に行って、共に戦うことは出来ない。
「……本当に、気をつけてよね、ニケ……」
肝心なところで力になれない無力感。不安と絶望と口惜しさを足して割ったような、ひどくモヤモヤした感情。それを自覚しながら、始鶴はスマホの画面を見つめた。
画面の中では、サイト・ベイカーと伴馬場がセッションした二曲目の動画が再生されている。伴馬場がこのショップに来ていると知った他のバンドマンが、あとから続々と集まってきたらしい。始鶴にはそれが誰だか分からなかったが、インディーズシーンでは実力派として名の知れたギタリスト二名も参加し、hideの『ever free』を演奏している。ヴォーカルがいないため全員が演奏しながら歌うという、遊びのセッションならではの光景である。
「……わ……何このコメント数……固定ファンからだけじゃないんだ……」
動画には恐ろしい速度でコメントがついてゆく。否定的なコメントももちろんあるが、九割九分、彼らの演奏力を評価する内容である。
それを見終わると、関連動画として三曲目の動画が表示された。これはギタリスト二名が加わった状態で、もう一度『DICE』を演奏したものらしい。ショップ側が急遽用意したのか、サイト・ベイカーの横にはマイクもセッティングされていた。
聴いた瞬間、鳥肌が立った。
元の曲を知らず、ロックはあまり好みでない始鶴でも、ただただ圧倒される。上手いとか下手とか、そんな問題ではない。得体の知れない熱狂に、心臓を鷲掴みにされたのだ。
この動画は、その後しばらく都市伝説のように語り継がれることになる。なぜなら演奏に参加したベースの伴馬場も、ギターの武藤とKenも、誰もが口をそろえてこう言ったのだ。
「あの時は神が降りていた。同じ演奏をしろと言われても、もう絶対に出来ない」
正体不明の音楽の神、降臨。人々はそう言ったが、それは大きな間違いだ。そこにいたのは軍神タケミカヅチの器、サイト・ベイカー。地球人より多少耳が良くて体力もあるだけの、ごく普通の若者である。ドラムが上手いのも歌が上手いのも、本人が好きで練習しているから上手くなっただけなのだ。
「……この人、本当に強いの……?」
ひょろひょろのV系バンドマンたちと一緒にいても、何の違和感もない。どこからどう見ても、そのへんにいるお兄さんである。こんな細い腕でどうやってドラムを叩いているのかと聞きたくなる。
「ニケ……どうしてこんなのが好きなの……?」
いつも一緒にいるから分かる。サイト・ベイカーと接触して以来、ニケが変わった。
クラスや委員会の仲間が、ある日突然同じようになったことがある。だからすぐに理解した。
ニケはサイトに恋している。
勝利の女神の心を鷲掴みにする男だなんて、いったいどんな猛者かと思っていた。それがどうだ。いざ実物を見てみたら、始鶴よりもずっと背の低い、少年のような体格の男ではないか。これが二十五歳で、軍事組織の上から三番目の地位にいる男だなんて、いくら説明されてもまったく信じられない。
「こんな、男だか女だか分からない顔した奴なんて……」
いっそ男性ホルモンの塊のような、背の高いイケメンマッチョだったら良かったのに。それならすぐに納得して、ニケの応援も出来たのに。
「……これじゃ、諦めきれないじゃない……」
全部で何曲叩いたのか。スマホの画面には、まだまだたくさんの関連動画が表示されている。あとから駆け付けた他のバンドマンたちとも、別のアーティストの楽曲で何曲かセッションしたらしい。
確かに、歌とドラムだけはプロ並みに上手いようだが――。
「……こんな男の、どこが良いのよ……」
自分の声に含まれた嫉妬の響きに、始鶴は気付いていなかった。
無自覚に蓄積されていくモヤモヤとした感情は、鎮火も完全燃焼も出来ない、ひどく厄介な山火事のようで――。
ピーコックとコニラヤが現場に到着したときには、既に戦いは始まっていた。
「あれ? 炎のカミサマだけど……ニケじゃないよね?」
「どなたでしょう……?」
線路上で聖なる炎を放つ神は、立派な拵えの武具を纏った男神である。身長は二メートル以上。しかし高身長ゆえのひょろりとした印象は一切抱かせない、どっしりと筋肉質な体つきをしていた。
一目見て『武神』と分かるその神は、闇堕ちに向かって《火炎弾》を放っている。
戦闘中の神に迂闊に近づいて敵とみなされてはかなわない。あちらは闇堕ちとの戦いに集中していて、ホームの屋根の上に降りたピーコックとコニラヤには気付いていない。二人はひとまず、屋根の上から様子を見ることにした。
その神は刀身が炎でできた剣を持っている。対闇堕ち戦では非常に役立つ属性と形状の武器だが、何しろ相手が大きすぎる。接近戦に持ち込めるような状況でもないらしい。
敵は全長十メートル以上あるだろうか。人間のような形をしているが、自重で立ち上がることは出来ないようで、線路の上を這うように動いている。その闇堕ちが一歩踏み出すたび、周囲には酷い瘴気が撒き散らされる。しかし、人間の目にその姿は映らない。ホームには電気系統のチェックをしている作業員がいて、駅事務所には駅員たちもいる。彼らはすぐ間近にこんな化け物が出現しているとは思いもせず、運転再開に向け、必死に作業を続けていた。
炎の武神は、そんな人間たちを必死に守っている。彼らが瘴気に当てられないように、炎を放って闇を相殺し続けているのだが――。
「あ、駄目だな、これ。人間守るだけで手いっぱいだ」
「僕が先に行って、人間を守る障壁を張ります。そうすれば僕らが敵ではなく、加勢に来たのだと分かってもらえるでしょう」
「頼んだぞ」
「はい!」
コニラヤは闇属性の神。闇堕ちの瘴気を防ぐくらい造作もない。ひらりと屋根から飛び降りて、ホーム全体を覆うように魔法障壁を構築する。続いて駅員たちがいる事務室のほうにも障壁を。これで闇堕ちから発せられた瘴気は完全に防がれ、人間たちの安全は確保された。
「そこのお方! 人間たちの守護はお任せください!」
唐突に現れたコニラヤに、炎の武神は驚きも露わに声を上げる。
「貴殿はいずこの神か⁉」
「僕はインカの月神コニラヤ・ヴィラコチャと申します! ゆえあって、こちらの国にお邪魔しております!」
「我はアチャラ・ナータ! この国に於いては『不動明王』と呼ばれし者である! コニラヤ殿、助太刀感謝する!」
手短に名乗り、武神は闇堕ちに炎を撃ち込む。チョコの使う《百裂火炎弾》と同系の技のようだが、一撃ごとの火力は人間の魔法の比ではない。闇堕ちの体は見る間に焼き削られてゆき、十秒もしないうちに姿を失った。
「あっれ? 超あっけない? 俺らの出番なかったじゃんねぇ?」
拍子抜けしたピーコックだが、彼の右手、天使サマエルはそうではなかった。ただならぬ殺気を放ち、底冷えするような声で言った。
「終わってなどいない……私の名を呼べ! すぐに復活するぞ!」
「え? それって…」
どういうこと、とは訊けなかった。
無音の爆発。それと同時に弾き飛ばされた炎の武神。
見るとそこには、先ほどよりさらにひとまわり大きくなった闇堕ちがいた。
「ぐ……なんの、これしき……うっ!」
倒れた武神の体には、黒い霧がべったりとまとわりついている。どう見ても、命にかかわる危険な濃度である。
このままでは彼が闇堕ちになってしまう。
ピーコックとコニラヤがそう思ったとき、武神の体が緋色の炎に包まれた。
「あ! この火は……!」
「うっわ。人の事呼び出しといて、そっちは遅刻ぅ~?」
ホームと屋根の上でそれぞれに呟くコニラヤとピーコック。そんな彼らが見守る中、武神の傍らに、緋色の翼を広げた戦装束の女神が舞い降りる。
「勇ましきお方、荒療治で申し訳ない。闇は?」
「すべて祓われた。すまない、助かった。我はアチャラ・ナータ。貴殿は?」
「私は勝利の女神、ニケ。共に戦わせてもらおう」
「ありがたい。あれほど強大な『闇』は、我一人では少々骨が折れる」
「それは私も同じこと。おい、バンデットヴァイパーと本体! そこにいるのだろう⁉ 隠れていないで、さっさと出てこい!」
ご指名を受けてしまった。遅刻しておいて何を偉そうにと、ピーコックは不機嫌な顔で屋根の上から飛び降りる。
「はいどーも、ヘビ子と素敵な竿男優ですよ」
頭の中ではサマエルが「下ネタはいいから早く名を呼べ!」と大騒ぎしているが、ピーコックは地球の平和も江戸川区民の身の安全も、まったくもって興味が無い。出来る事ならこのまま、武神と勝利の女神に主戦力として戦ってもらいたいところなのだが――。
(おい、ピーコック! 早く私の名を! これはただの闇堕ちではないのだぞ⁉ 通常攻撃では倒せないものだ! 早く手を打たねば、どこまでも成長を続けるぞ!)
「え? なにそれ? どういうこと?」
(説明してやるから名前を呼べ!)
「えぇ~? そういうお願いはさぁ、もっと可愛く『ねえダーリン、私の名前を呼・ん・で♡』って言ってくれないと……」
(殺すぞ)
「あ、はい、すみませんサマエルさま……」
さすがのピーコックも、この状況でサマエルを怒らせるのは危険と判断した。
「チッ……このゴミクズめ……」
宿主がようやく名を呼んだおかげで、サマエルは十二枚の光の翼をもつ天使として顕現できた。
深紅の光を纏う美しき大天使は、優雅な仕草で一礼する。
「私は天使サマエル。この戦い、私も参加させていただこう」
創造主、創世神に次ぐ高位の天使の降臨に、アチャラ・ナータは目を丸くした。
「おお! なんと! 大天使までもが加勢してくださるとは、百人力でござるな!」
隣のニケも驚いた顔をしているが、こちらは驚きの種類が違う。
「お前は……バンデットヴァイパーか? 天使だったのか……?」
「詳しい説明は後でしよう。ニケ、お前はあれの正体に気付いているか?」
「ああ。あれは人間たちの言葉によって形成された存在だ。この国の言葉では『言霊』と表現するようだが、人々が放った流言飛語、罵詈雑言それ自体が『力』を持ち、死者の魂を闇に堕としてしまったものだ。アチャラ・ナータ殿も、お気付きであったようだが……」
「いかにも。しかしながら、我はこの存在を根源から断つ方法を持たぬゆえ……」
「私もだ。現場でいくらこれを焼こうと、何度でも再生してしまう。大元となる人々の『心』を洗い清めぬことには……」
「その人間が我の力及ぶ範囲に居ればよいのだが、原因はあれでござるからな……」
アチャラ・ナータが親指でクイッと指し示したのは、ホームでスマホ画面を見つめる作業員である。本社に何かを報告しているのだろうか。先ほどから真剣な顔で、必死に画面をタップして文字入力を続けている。
「インターネットとやらの普及で、この場にいない者たちの怨嗟の念も一気に集約されるようになってしまった。昔は、その場に居合わせた者の愚痴で小鬼が生ずる程度であったのに……」
無関係な者までもが、まるでその場に居合わせたかのように被害者ぶってバッシングを行う。
死にたくて死んだわけではない事故の犠牲者。
何の咎も無いのに、一方的に暴力を振るわれた事件の被害者。
本当は生きたかったのに、死を選ぶしかない状況に追い込まれた自殺者。
それらの人々を「自己責任」「殺される側にも非があった」「死ぬ奴がバカ」などと貶めるたび、彼らの『死の現場』には負の念が蓄積し、魂を闇に染め上げてゆく。本来ならばそのまま天へと召されるべき魂が、他者から浴びせられた悪意によって『闇堕ち』と化してしまうのだ。
それも今回は、ただの流言飛語ではない。飛び込み自殺の影響で実際になんらかの損害を被った人間が数十万人単位で存在する。『被害者ぶった赤の他人』ではなく、本物の被害者なのだ。『ちょっとした愚痴』や『嘆きのコメント』でも、そこに含まれる闇の濃度は赤の他人の数十倍である。
SNSには、今なお新たな書き込みが増えている。
この『負の言霊』を根本的に消し去る手段はない。過度な燃料供給が絶え間なく行われるモンスター相手に、この顔ぶれでどこまで凌ぎきれるだろうか。せめて電車が動いてくれれば、自殺者への直接的なバッシングは収まるのだが――。
「よりにもよって、線路の上で……」
舌打ちするサマエルに、ニケも苦い顔で首を振る。
「それは言っても始まらないさ。下に落とそうにも、駅周辺が立ち入り禁止にされているわけでもない。必ず、何人かが犠牲になってしまう」
「ああ……今ある条件で戦うしかないな……」
「お二方! そろそろ、彼奴が動き出しそうにござる!」
アチャラ・ナータが言うとおり、『負の言霊』を受けて体を再生・燃料補給した闇堕ちは、小刻みに身震いし、わずかに上体を起こしかけている。
「ピーコック、お前はコニラヤの後ろに下がっていろ」
「全員火焔属性だ。三人同時に行こう」
「であれば、我は彼奴の背後に回ろう。天使殿、合図を」
「相分かった」
不動明王、勝利の女神、神の毒。戦闘に特化した神と天使が三人そろって同時攻撃を仕掛けようというのだ。魔法障壁を張っているコニラヤは、心底震え上がった。
「ぼ、僕の防御力を超えない程度でお願いしますよ……?」
コニラヤの後ろで、ピーコックも不安そうな顔をしている。
「おい、コニラヤ? お前、本当に大丈夫だろうな……?」
「が、がが、がんばり、ます……」
「ええぇ~? この神、すっごく駄目っぽい~……」
ピーコックは念のため、自分でも《銀の鎧》を使用して衝撃に備える。
サマエルは宙に舞い上がり、闇堕ちの直上に陣取った。アチャラ・ナータは闇堕ちの背後に回り、態勢を整える。
ニケ、アチャラ・ナータが構えたのを確認すると、サマエルは声高に言った。
「天の火よ! 罪悪の都を粛清せよ! 《メギドフレイム》!」
その声を合図に、ニケは《聖火》を、アチャラ・ナータは《迦楼羅焔》を放つ。
いずれも熱を持たぬ浄化の炎、悪しき心を持つ者のみが苦痛を感じる神の火である。闇堕ちは苦しげに身をよじり、炎の中でのたうち回る。
そして数秒後、消滅と同時に行われる再生。その瞬間に巻き起こる爆発に、コニラヤの張った障壁がビリビリと振動する。
「うわっ! おい! 本当に大丈夫かよ!」
「た、たた、たぶん大丈夫……だと思います……」
今にも壊れそうな障壁の内側で、彼らは明王と女神の戦いぶりを目撃する。
再び形を成した闇堕ちに、左右同時に斬りかかる。いずれの武器も炎の剣。一閃ごとに闇が焼かれ、その場の空気そのものが焼き清められていくのが分かった。
しかし、この敵は手ごわい。清め削り落とした端から、すぐにまた『負の言霊』が補填されていく。
このいたちごっこは三分ほど続いただろうか。三柱は次第に各々の能力特性を把握していった。
「サマエル殿! 胴体への攻撃をお頼み申す!」
「私たちは手足を落とす!」
「了解した! 天の火よ! 地上の闇を拭い去れ! 《聖霊降臨》!」
天から現れたのは、巨大な炎の舌だった。広域攻撃型のメギドフレイムを一点に集束させたような、赤い炎の舌。それがべろりと闇を舐め取り、闇堕ちの胴を深くえぐる。
欠けた胴体にはすぐさま新たな闇が補填されてしまうのだが、その際に発生する爆発は、全身を一気に焼き祓った場合に比べれば微々たるものである。
最も攻撃力のあるサマエルが本体を狙い、ニケが腕、アチャラ・ナータが足を。それぞれタイミングをずらして攻撃し、完全回復できないように焼き祓っている。
「おい、コニラヤ! これなら防ぎきれるか⁉」
「あ、はい! 大丈夫です!」
サマエルにそう返答するコニラヤを見て、明王と女神は攻撃の手数を増やす。その攻撃速度たるや、身体強化を受けているピーコックでさえすべてを見切ることができないほどで――。
「スゲエ……これが神の次元……」
「武神や軍神に限ってのことですよ? 他の神は、通常生物と同程度の速度でしか動けませんから……」
「って言っても神だから、体力的な限界値は全然違うんだろ?」
「まあ、神ですから」
「ホントすごいよなぁ、神って。でも、まあ、そんなカミサマ連中より、サマエルちゃんのほうがワンランク上なんだよな? いやぁ~、さっすが俺のサマエルちゃん♡ かぁ~っこい~いっ♡」
「うるさいぞゴミクズ! 気が散る!」
一喝され、冗談めかして『お口にチャック』のパントマイムを行うピーコック。この戦いは次元が違いすぎて、ピーコックには何の手出しも出来ない。これでも一応、腕っぷしにはそれなりの自信があったほうなのだが――。
(なぁ~んか俺、全然カッコイイとこ見せらんないんだよなぁ~……面白くねえな……)
ピーコックにとっての恋愛とは、気になる女子への猛アピールからの即アタック、その日のうちにベッドまで、という流れが当たり前になっていた。パパに監視されながら、ウソやハッタリは絶対に通用しない相手を地道に口説くしかないなんて、まったくもって勝手が違う。それもピーコックはバンデットヴァイパーがこんな美女とは露知らず、これまで当然のように自慰行為に使用し続けていたわけで――。
(ん~、今さら純愛ムードなんか作れないしなぁ~……どうすりゃいいんだよ、これ……)
ピーコックは生まれてはじめて、何をどうしても女子に振り向いてもらえない『モテヒエラルキーの最下層』の気分を味わっていた。サマエルが言うとおり、まさに『ゴミクズ』扱いからのスタートなのだ。攻略難易度は五段階評価で六か七と言っても過言でない。
(あー、なんだろ。考えるとすっげー気が滅入る……ってゆーか、なんか体がだるいような……?)
そう思って、軽く肩を回していたときである。ホームにいた作業員の一人がその場に倒れた。
「ん? あれ、どうしたんだ……?」
すぐに他の作業員らが助け起こそうとするが、彼らも倒れた一人と同じように、今にも卒倒しそうな顔色をしている。
幻覚魔法で姿を消しているピーコックは、彼らに歩み寄って様子を観察した。
「んんん~? ……貧血でも、熱中症でも無さそうだな? っていうか、ひょっとしてさ。この状況で一番ダメージ受けてるのって、駅の利用者じゃなくて、スタッフ側じゃない? ぶっちゃけいつ闇堕ちになってもおかしくないレベルで、心底ストレス感じてるんじゃ……?」
コニラヤに話かけるこの声も、人間たちには聞こえていない。彼らの五感は完全にピーコックの術下に置かれている。すぐ間近にいる猫耳の異界人に気付かぬまま、彼らは倒れた仲間に呼びかけ続ける。
コニラヤはそんな人間たちの緩慢な動作を見て、ふと、半堕ち状態だった自分のことを考えた。
心が闇に侵されかけたあの状態では、思考力や判断力が著しく低下する。先ほど必死な様子でスマホを操作していたのも、今、倒れた仲間に何をしてやればよいか分からず右往左往しているのも、半堕ち状態の自分と同じだとしたら――。
「サマエルさん! この人間たちに『導きの光』を! おそらくこの周辺にいる人間たちは、瘴気に当てられて半堕ち状態になっています!」
コニラヤに言われ、サマエルたちもハッとした。人間は弱い。ごくわずか、自分たちでは察知するのも難しいほど薄い瘴気でも、人間の体には深刻な影響が生じている可能性がある。
「アチャラ・ナータ殿、ニケ! 私はこの一帯の人間たちの『治療』に当たる。しばし、お二方で耐え凌いでいただきたい!」
「承知!」
「任せろ!」
サマエルはひらりと宙を舞い、ピーコックを掻っ攫うように抱き上げていった。
本体からあまり離れられない以上仕方がないとはいえ、その姿を見たアチャラ・ナータとコニラヤは、連れ去られたピーコックに心の底から同情した。あんな美人にお姫様抱っこなんかされたら、男の自尊心は木端微塵に粉砕されてしまうぞ、と。
神々の想像通り、絶世の美女の白くか細い腕の中、完璧に鍛え上げられた肉体のイケメン情報部員は下唇を噛み締めていた。
「……一言声掛けてくれれば、ペガサス使ったのに……」
「す、すまない……つい、反射的に……」
人間の心を傷付けてしまった。サマエルは猛省しつつ、慌てて体勢を変える。
「その……これで、いいか……?」
「うん。さっきよりは全然」
「そ、そうか……」
サマエルはピーコックの足を放し、自分の腰に左手を回させる。この体勢ではピーコックが片腕の力だけでぶら下がることになる。サマエルが抱きかかえるより、ずっと負担が大きくなってしまうのだが――。
「大丈夫か、なんて聞かないでね? それ聞かれたら、俺、本当に立ち直れなくなるから」
「……そう……なのか?」
「そうなの。そーゆーもんなの。すんげーくだらないって自覚してても、男のプライドってそーゆーもんなの」
「……わかった。以後、気を付ける……」
ピーコックは目を合わせず、淡々と話している。サマエルにはこの仕草が怒りを表すのか、悲しみを表すのか、もっと別の感情なのか、まるで理解が出来なかった。
天使に性的欲求は存在しない。ピーコックのことを愛していても、それは性愛とは違う。互いに『愛』という感情を寄せ合っているはずなのに、彼と彼女の間では、決定的に気持ちがすれ違っていた。
それぞれの気持ちは決して相手に届かない。そんなことすら知らぬまま、彼と彼女は言葉を交わす。
「で? 空飛んで、どうするつもり?」
「この付近一帯の人間に洗礼を施す」
「え? 強制的に改宗させちゃうの?」
「いや、違う。現代ではそのような意味合いになっているようだが、本来は主のお力で心に巣食う悪なるものを洗い流し、『正しき心』に立ち還らせる行為を指す。少し濡れるぞ」
そう言うと、サマエルは天頂を仰ぎ見た。
「主よ、天使サマエルより願い出ます。迷える子羊たちに、導きの光を。この地に生きる者たちは、今、悪しき闇に囚われようとしています」
サマエルがそう言った直後、空が暗くなった。にわかに掻き曇り、一分後には雨が降り始める。
あまりに唐突な天候の変化に、屋外にいた人間たちは大慌てで屋根のある場所に避難する。現象自体を見れば、いわゆる『ゲリラ豪雨』というものにそっくりだ。しかし、それにしても雨脚が強すぎる。降り始めて三十秒もしないうちに水溜まりが出来、見る間に路面を覆い始めているのだ。誰がどう見ても、道路わきの小さな下水口では排水が追い付いていない。
まさか創造主は、物理的に人間を丸洗いするつもりではなかろうか。
若干の不安を覚えたピーコックは、念のため、サマエルに確認してみる。
「これ、洪水になったりしない?」
至極当然の疑問に、サマエルは軽く首を傾げた。
「私には分からない。主がこの事態をどうお考えになっているかによる」
「じゃあ、大洪水起こして丸洗いの可能性もあるんだ?」
「ああ。過去に幾度か実例もあるが……さすがに、そこまではやらないはずだ。ほら、見ろ。あのあたり、もう雲が薄くなっているだろう?」
サマエルの言うとおり、部分的には薄日が差している。
雲の切れ間から差し込む一条の光。人間の目には、それは単なる光として捉えられるものであるが――。
「……え? これ、ホントに……?」
サマエルと一心同体のピーコックには、確かにそれが見えていた。
光の梯子を滑り降りてくる数百、数千の小さな天使たち。幼い子供のような姿の者も、赤ん坊の天使もいる。彼らは一斉に拡散し、屋根の下で身を寄せ合う人間たちに光の種をふり蒔いてゆく。
苛立ったように舌打ちしていた女性は、憑き物が落ちたように、ふっと穏やかな顔になる。
具合が悪そうにしていた男性はパッと顔色が良くなり、空腹を覚えて定食屋に入った。
不安で泣き続けていた赤ん坊は、ピタリと泣き止み、愛らしい笑みを見せた。
コンビニの店員も、ラーメン屋の大将も、洋品店の女主人も、皆一様に顔つきが変わる。これまでのどんよりとした表情は消え失せ、誰もが急にはきはきと、元気になっていったのだ。
そうこうしているうちに雨は完全に上がり、人々はひとり、またひとりと、屋外に出てきた。
「あ! 見て! 虹出てる! 二本も!」
「太陽の周りにも光の輪っか出てるよ! なんていうんだっけ、あれ!」
「ガラケーでも撮れるかな……?」
二重に掛かった大きな虹、太陽の周りの虹色の輪を見て、人々の表情は明るく輝いている。普段なら虹を見てはしゃぐことなど無い気難しい人も、今日、この瞬間だけは、まるで子供のように素直な心で率直にそれを喜んでいた。
人々の心から闇を拭い去った天使たちは、光の中に溶けるように姿を消してゆく。
「……すごい……これが、創造主が直に行う『洗礼』なんだ……?」
想像していたものとは明らかに違う。規模も効果も桁外れ。人間の手によって行われる宗教儀式的な『洗礼』とは比較してはいけないものだと痛感できる。
地上の様子に感心していたピーコックだが、ふとサマエルのほうを見て、彼女の変化に気付いた。
「ちょ……サマエルちゃん⁉ 翼! 二枚だけになっちゃってるよ⁉」
毒々しいまでの極彩で彩られた、十二枚の光の翼。天使サマエルを象徴するその翼が、今はただ一対、下級の天使らと同等の二枚にまで減ってしまっている。
心配そうな顔をするピーコックに、サマエルは優しく微笑んでみせた。
「案ずるな。一時的に力を消耗しただけで、数日もすれば元に戻る」
彼女に消耗した様子はない。まさかと思い、ピーコックは尋ねる。
「もしかしてそれ、エネルギーの残量表示みたいなモノなの……?」
「現代の人間に分かりやすく例えると、そういうことになるかもしれないな。ザラキエルも言っていただろう? 天使の翼は主から賜った役割そのもの。果たせばそれだけ力を使うし、果たすべき仕事が増えれば、それに応じて新たな力を授かる。そういうものだ」
「じゃあ、べつに、翼が減ると疲れるなんてことは……」
「ない」
「そう……なんだ。うん、まあ、それは良かったんだけどさぁ……」
「……?」
落ち込むピーコックの様子に、サマエルは首を傾げる。
天使には両性、もしくは無性別の者が多いため、性別による役割分担という意識は薄い。ピーコックは男として当たり前のことをしようとしているし、サマエルは天使として当たり前のことをしている。
女性を労わって守ろうとしている男と、人間という『か弱い生き物』を守ろうとしている天使。この二者間の意識の溝は、どうにも埋めがたい広さと深さをもってそこに存在する。
聴覚に優れたコニラヤは、はるか上空の二人の会話を聞くともなしに聞いてしまい、大きな溜息を吐いた。
(うわぁ~……ここまですれ違ってるのに、ちゃんと両想いで、雰囲気だけは馬鹿ップルしてるんだよなぁ~。誰が見てもお似合いなのに、なんでそうなっちゃうのか……。あ~、も~、主はどうしてこの二人をくっつけてしまわれたのかぁ~……)
恋愛小説が大好きなレインと違い、コニラヤには人の恋路を覗き見て楽しむような趣味はない。今後の展開をワクワクしながら見守るより、横から失礼して双方の意識の違いをサクッと解説し、とっととゴールインさせてやりたくなる。
(ああ……人の恋愛にモヤモヤしている場合じゃないのに……そうだよ。こっちだって大変なんだよ。ヤム・カァシュのやつ、きっと今頃ルキナちゃんにベタベタくっついてるだろうし……ぬがあああぁぁぁ~っ! 早く帰りたあああぁぁぁ~いっ! でもレインとも思い出作りたあああぁぁぁ~いっ! うわぁ~んっ! やりたいことはいくらでもあるのに、どうしてなんにもできないんだよおおおぉぉぉ~っ!)
レインは暑さに弱いため、すみだ水族館に置いてきた。今頃、ショップでペンギンのぬいぐるみか何かを購入していることだろう。出来る事ならそれを一緒に選びたかったし、館内のペンギンカフェでオリジナルソフトクリームを食べながらキャッキャウフフと盛り上がりたかった。
(せっかく地球に来てるのに、まともに観光もできないなんて! 何もかも、白虎とかいうヤツのせいだぁぁぁ~っ!)
胸の内では大絶叫しつつも、表面的には涼やかな顔で魔法障壁を張り続ける。
駅周辺の人間、つまりは今朝の人身事故で直接影響を受けた鉄道関係者、警察官、バスやタクシーの運転手、コンビニや飲食店の従業員、近隣住民らの心が洗われたおかげで、闇堕ちの体は急激に委縮していた。SNS経由でどこか遠くから送られる『負の言霊』より、やはり周囲の人間から直接流れ込む負の感情のほうが強く、大きかったらしい。
「アチャラ・ナータ殿、今なら!」
「ああ、『本体』を救済出来るやもしれぬ!」
女神と明王は炎を放つ。既に三メートルほどまで縮んだ闇堕ちの体は見る間に焼け崩れていくのだが、完全に焼き切る前に二柱は攻撃を止めた。
先ほどのように霧散させてはいけない。まだ形を留めているこの状態でなら、『本体』となっている人間の魂と対話することも可能だろう。その魂さえ救済出来れば、『負の言霊』は形を成すための中核を失い、風に乗って何処かに掃われてしまうはずである。
「人よ! 答えよ! 其方の名は何だ!」
「名前を聞かせてくれ! 私たちに、お前の名前を! 私たちは、お前と話がしたい!」
明王と女神の声に、闇堕ちが体を震わせる。弱々しく、けれどもはっきりと、二柱に向かって手を伸ばそうとしているのだ。
二柱は頷き合い、アチャラ・ナータが進み出る。
「ここにいる。分かるか? 我は、其方を救いに参ったのだ」
闇堕ちの傍らにしゃがみこみ、その手を取る。
黒い霧がアチャラ・ナータの体を包み込むが、彼はぐっとこらえ、闇堕ちに語り掛ける。
「つらかったろう。苦しかったろう。だが、もうよいのだ。其方はもう十分、この世の苦難をその身に受けた。さあ、名を聞かせてくれ。苦しみの無いところへゆこう」
闇堕ちは声ともつかないうめき声を数度発したのち、小さな声で言った。
「たか……な…し……かな…え……」
「カナエ? カナエか。しっかり、我の手を掴んでいるのだぞ。……ニケ殿、お頼み申す!」
ニケは無言で手をかざし、《聖火》を放つ。アチャラ・ナータは闇堕ちもろともに炎に包まれるが、これは悪しき者のみを焼き祓う聖なる火。明王と、その手を掴んだ魂は決して焼かれることはない。焼け落ちていくのは彼らにまとわりついた負の感情と、それによって発生した黒い霧のみである。
炎が収まったあと、そこにいたのは一人の女子大生だった。彼女は呆然とした顔で、透けた自分の手足を見ていた。
「……え? 嘘……私、死んじゃったの……?」
「ああ……電車に飛び込んで死んだそうだが……覚えておらぬのか?」
「……よく、分からないんです。自殺した人の写真撮ってネットに流してたら、急に声が聞こえて……」
「声?」
「女の子の声で、『そんなに目立ちたいなら、貴女も死ねばいいのよ』って……そっか。私、死んじゃったんだ……」
「なるほどな。其方は、己の欲に呑まれたのだ。『注目されたい』という、ただそれだけの欲に。自業自得であることは、理解できておるな?」
「……はい……」
「ならば向こうで、写真を撮られた『本人』に謝ることだ。其方が闇を肩代わりした分、その少女は先に天へと昇っておるはずだ。……最後に、こちらに残された者に、何か伝えることは?」
「……じゃあ、お父さんとお母さんに、『ごめんなさい、今までありがとう』って……」
「分かった。伝えておこう。さあ、行け。浄土への道は、其方の目にも見えておろう?」
カナエはゆっくり頷いた。
死者の目には見えている。淡く虹色に輝く光の階段が、空高く、どこまでも高く、創造主のいるその場所にまで続いているのが。肉体が土に還っていくように、魂もまた、あるべき場所へと還ってゆくのだ。
女神と明王に頭を下げ、カナエの魂はゆらゆらと、しかし一歩一歩確実に、天への階段を上って行った。
時間の流れが止まったような、奇妙な感覚。神々は目を細め、哀しい死者を優しく見守る。
カナエの姿が蟻か砂粒ほどになるまで見送ってから、アチャラ・ナータはその場に倒れ込むように腰を下ろした。
「はー……やれやれ、無事、天へと上って行けたようだな。いや、実に骨の折れる相手であった。のう、ニケ殿!」
戦闘中の厳めしい表情とはうって変わって、まるで子供のように屈託なく笑う。つられてニケも、悪戯っ子のように笑って見せる。
「よもや、噂に名高い『不動明王』殿と共闘することになろうとはな。面白い偶然もあるものだ」
「なんの。それを申せば、我も同じ思いでござる。よもやこのようなところで、あの『勝利の女神』にと! 何しろ、首から上は現存しませぬからな!」
「フフフ。いかがですかな? 首なしの彫像と、実物のイメージの差は?」
「うむ! 本物のほうが、いささか刺激が強うござる!」
「刺激?」
アチャラ・ナータの視線の位置を確認し、ニケは慌てて衣を直す。
闇堕ちが放つ霧や衝撃波を回避しているうちに、スカートの一部が捲れ、腰帯に挟まっていたらしい。
「し、失礼した! ご指摘感謝する!」
ニケはそう言いながら、ホームでブーイングしているコニラヤを睨む。アチャラ・ナータが指摘してくれなければ、あの月神に丸出しの尻を眺められ続けていた。あんなクラゲ野郎にいやらしい目を向けられていたのかと思うと、全身に鳥肌が立つ思いだ。
「いや、しかし、ニケ殿にも驚いたが、まさか大天使までもが降臨されようとは……」
アチャラ・ナータの言いたいことは分かる。ニケやアチャラ・ナータのような神は、そもそも『人間の前に姿を見せる神』である。それぞれ姿を見せる場面は異なるが、ニケに守護される者、アチャラ・ナータに救済される者には、ハッキリとその姿が認識できるのだ。
だが、サマエルは違う。彼女は本来、人前に姿を見せるような存在ではない。神や天使らの監査官的な役割を担う『神の毒』は、滅多なことでは地上に降臨しないはずなのだ。
「……ニケ殿。今、貴殿らのもとで何が起こっているのか、ご説明願えぬか?」
アチャラ・ナータの言葉に、ニケはわずかに視線を逸らす。
どこから、何を話せば良いのだろう。
自分とカリストは、ベイカーやマルコ、ピーコックらとは違う。創造主からの命を受けて何かを成そうとしているわけでも、己の意思で何かを手に入れようとしているわけでもない。ただ自分たちが生き延びるためだけに他の神々を巻き込み、迷惑をかけた。そして今は状況に流されて、なし崩し的に闇堕ちと戦うことになっただけだ。
何が起こっているかは、ニケには分からない。彼女と始鶴は、他の神々のように『役割』を与えられてはいないのだ。
ニケは軽く頭を振り、正直に話した。
「それは私には説明できないことだ。私は創造主に選ばれていない。何かが起こっていることは分かるのだが、それが何かということまでは、知り得る立場にないのだ」
「そうでござるか……いや、失礼。大和の神々とも武蔵の土着神とも異なるお方ゆえ、てっきり、何事かご存知であると思い……」
「ご要望にお応えできず、申し訳ない。では、私はこれにて」
「うん? サマエル殿とお知り合いのようでござったが、良いのか? まだ降りてこられぬようだが……?」
「ああ。知り合いには違いないが、仲が良いわけでもないのでな。失礼する」
「また、いずこかで!」
屈託なく笑い、大げさに手を振るアチャラ・ナータ。そのいかにも武神らしい仕草に、ニケも笑って手を振り返した。
緋色の翼を羽ばたかせ、軽やかに天へと昇ってゆくニケ。その後ろ姿が見えなくなった途端のことである。
「そこの御仁! コニラヤ殿と申したな⁉ 貴殿はニケ殿とお知り合いのようでござったが、どのようなご関係であろうか⁉」
「えっ⁉ いや、どのようなもこのようなも、僕は単なる顔見知り程度で……」
「恋仲ではござらんのだな⁉」
「あ、はい。僕にはルキナちゃんという、将来を誓い合う予定の女神がいますから!」
本人のいないところで、随分と勝手な宣言である。しかしアチャラ・ナータにコニラヤの私生活など分かるはずもない。コニラヤの言い分を信じ、拳を強く握り締める。
「では、貴殿にお尋ねする! ニケ殿は、いずこかの神とお付き合いされているのだろうか?」
「え? お付き合い、ですか……?」
彼女と同じギリシャの神族は壊滅状態。かなり近しい間柄のローマ、エジプト、エチオピア、ソマリアの神族も、ごくわずかな神を残して死に絶えている。ツクヨミやサマエルの反応を見る限り、大和の神族とも天使とも親しくしている様子はない。
コニラヤは『断定はできないものの』という前置きをつけて、こう答えた。
「現在フリーではないかと」
その言葉を聞いた瞬間のアチャラ・ナータは、実に分かりやすい反応を見せていた。
両手の拳をぐっと握り締め、脇をキュッと締め――いわゆる、『ガッツポーズ』という構えをとっている。
「あ、もしかして、ニケさんに一目惚れしたとか……?」
「応とも! あれほど気高く、美しい女神がこの世に存在したとは! 是が非でも、お近づきになりたい!」
「では、こちらの『器』からニケさんの『器』のほうに、『アチャラ・ナータ殿がお会いしたがっておられた』と伝言してもらいますね?」
「おお! ありがたい! 貴殿はなんと親切な神か!」
「どこに行けばお会いできるのでしょう?」
「我はすぐそこの燈明寺に『像』を持つ! 年中無休! 日中であれば、いつでも門は開かれておるぞ!」
「燈明寺、ですね? あの、すみません、『像』とはなんでしょう? 僕、他の神族の事情には詳しくなくて……」
「我ら仏神は『器』を持たぬ。その代わり、仏像や曼荼羅を憑代として現世に顕現するのだ」
「えっ! 生き物ではなく、器物を憑代に⁉ 珍しいですね! 精霊たちならともかく、貴殿のような高位の神が? そんな神族があるなんて初めて知りました!」
「うむ。我も良くは知らぬが、他にはあまり無いらしいな。ところでコニラヤ殿。貴殿は先ほど、インカの神と申されていたな? 我の記憶違いでなければ、インカは既に……」
「はい、滅びた文明の名です。ですから今は、正確にはインカの神ではなく、レインという、たった一人の人間のための守護神なんですけどね」
「ただ一人のための……? 失礼だが、よくそれで存在を維持しておられるな? 一人の人間から寄せられる信仰心では、人の姿を保つのも……」
「あはは。ええ、その通り。ギリギリです。大丈夫、全然失礼なんかじゃありませんよ。僕はもう、いつ消えてなくなってもおかしくない、本当に不安定な神なんです。でも、だからでしょうか。インカの民を守れなかった分まで、今度こそ、レインを守り切ると覚悟できたんです。背水の陣……というほど、格好良くはないのかもしれませんが……」
「いや! その心意気! 我には分かり申す! 貴殿は優しいばかりでなく、強い心もお持ちの神なのでござるな!」
「や、そんな。面と向かって言われると、なんか恥ずかしいですよ……」
グイグイと押しの強い武神の、何の含みもない率直な賛辞。おそらく同じ戦いの神であるタケミカヅチなら、同じテンションで平然と言葉を返せたのだろう。そう考え、コニラヤはほんの少しだけ、タケミカヅチに嫉妬した。
(あの人くらい堂々としていられたら、僕も、ルキナちゃんに『好き』って言ってもらえるのかなぁ……)
水波能女神もフォルトゥーナも、タケミカヅチのことを心底好いている。ライバルとなる女神が何人いようと、それでも自分のモノにしたいと思っているのが分かる。
逞しい体でも男らしい顔でもない。少女のように華奢な体と、小鳥のさえずりのように愛らしい声の軍神。男として、軍神として、それらしい要素なんて一つも無いのに、いつでも胸を張って『自分らしく』笑う。それがタケミカヅチという男なのだ。
(欲しいよなぁ……ああいう強さ……)
そうは思っても、それが不可能であることは理解している。努力や決心で手に入るようなものではない。あれはきっと、生まれ持った『天賦の才』というものである。
それからコニラヤとアチャラ・ナータはいくつか言葉を交わし、そのまま別れた。サマエルとピーコックが降りてくるのを待つつもりでいたのだが、ピーコックのスマホに着信があり、すぐに移動する必要が生じたというのだ。
ただ、それを地上のコニラヤに伝える手段が『空の上から大声で怒鳴る』という原始的方法であったことには、大声を張り上げた本人も含め、その場の全員が苦笑するよりほかになかった。