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そらのそこのくに せかいのおわり 〈 vol,08 / Chapter 12 〉

 空母『祥鳳』の船室の一つで、マルコとアルテミス、タケミカヅチらは話をしていた。

 彼らの前にはニケとの接続が切れ、元の姿に戻った始鶴がいる。マルコが治療を施したおかげで体の傷はすっかり癒えている。本来ならばすぐにでも目を覚ます状態なのだが――。

「……つまり、『器』との接続を切らないまま神が堕ちたせいで、彼女の魂にもダメージが?」

 マルコがこれまでの話を要約すると、タケミカヅチが頷いた。

「呑み込みが早くて助かる。心と魂は正確には同一のものではないのだが、今は『ほぼ同じもの』として理解してもらいたい。知っての通り人間という生き物は、体が健康でも、心の傷がもとで死ぬこともある。この娘の魂は、もう、自力で目を覚ますことも出来ぬほど傷付いている。このまま放っておけば、いずれ衰弱して死ぬだろう」

「救うことはできないのでしょうか?」

「出来るといえば出来るし、できないと言えば出来ない」

「……?」

「単純な話だ。体の傷同様、治療が出来れば元の状態に近いところまで持ち直すことは出来る。ただ、閉ざされた心の内側にまで、外から他人が声を届けることは出来ない。治療をする、しない以前の問題として、相手の心に接触することが出来ないんだ」

「……それはつまり、『器』の心に直接接触できる『神』ならば……?」

「そうだ。この娘にとっては、それはニケだった。誰より深い絆で結ばれ、互いのすべてを分かち合える最高のバディだったはずだが……お前だったら、そんな相手に裏切られて、平気な顔で生きていけるか?」

 マルコはほんの数秒考えて、短く答える。

「不可能です」

「だろうな。我もアルテミスもこの娘の心との接触を試みたが、無理だった。だから、駄目で元々だ。マルコ、この娘に呼びかけてみてほしい」

「え?」

「他の神で駄目ならば、人間が試してみるしかないだろう?」

「あの……それこそ、私は『赤の他人』ですが……?」

「だから、ダメ元だ。何もしないよりは少しはましだからな」

「……ダメ元、ですか……」

 本当に、そんなやけっぱちな手段しか残されていないのだろうか。マルコはため息交じりに小さく首を横に振り、始鶴の手を取って語り掛ける。

「始鶴さん、起きてください。あなたは、こんなところで人生を終えてはいけません。始鶴さん? 聞こえますか? 始鶴さん?」

 しかし、始鶴に反応はない。しばらく続けて、誰もが諦めかけたときである。

 船室の扉がノックされた。

「タケミカヅチ? おい、なんで俺を締め出すんだ⁉ 鍵を開けろ!」

 ベイカーである。今は自分の体に魂を戻され、切断された右手も元通り繋ぎ合わされている。治療を施した直後は虚脱状態で意識が無かったため、彼だけは別室で寝かされていた。目を覚まし、タケミカヅチの気配を追ってきたようだ。

「申し訳ないが、ここを開けることは出来ない。しばらく元の部屋で待機していてくれ」

「なぜだ? 理由を教えろ」

「……仕方ないな……」

 ベイカー本人に悪気はなかったとはいえ、始鶴の側から見れば始鶴の意思を無視して性行為に及んだ相手ということになる。あの状況でベイカーを強姦魔扱いするのも気の毒な話だが、ここはあくまでも『被害者の立場』で話を進めるべきであろう。

 タケミカヅチはその点を淡々とした口調で説明するのだが、ベイカーの主張は少々異なっていた。

「何を言っている? 逆だ! お前ら、そもそもの因果関係を取り違えていないか? ニケほど気高く貞淑な女神が、何のきっかけもなくいきなり熱愛モードに突入するはずが無いだろう⁉ ニケが暴走したんじゃない! 暴走したのは『器』のほうだ! 心が闇に呑まれたのも『器』のほう! ニケはそれを止めようとして、引きずられたに過ぎない!」

「……? 始鶴が、暴走?」

「いいから開けろ! 証拠を見せる!」

 そう言われては、開けないわけにもいかない。タケミカヅチが扉を開けると、苦虫を噛み潰したような顔のベイカーがいた。

 ベイカーはタケミカヅチの前に自分のスマホを突き付ける。

「見ろ。これだ」

「……んあっ⁉」

 画面に表示された文字列に、タケミカヅチは酷く間の抜けた声をあげた。

「なんです?」

「何が書いてある?」

 マルコとアルテミスに日本語の文字列は読めない。フリーズしてしまったタケミカヅチに代わり、ベイカーがそのやり取りを読み上げる。


〈はじめまして。俺はサイト・ベイカーといいます。あなたはニケの『器』ですね?〉

〈メッセージありがとうございます。確かに私はニケの器ですが、どこから私を突き止めたのでしょうか?〉

〈桜子ちゃんという女の子のアカウントから、フォローリンクをたどりました。あなたと同じ学校の子です。〉

〈魔法の国の人が普通にSNSを使いこなしているなんて、予想外でした。何の御用でしょう?〉

〈俺はニケの敵ではありません。それを伝えるためにDMしました。〉

〈敵ではないなら、味方ですか?〉

〈いいえ。現状、どちらでもありません。〉

〈曖昧ですね。ニケの態度次第、ということでしょうか?〉

〈いえ、そうではありません。今回、俺は本当に予定外に地球に来てしまいました。正直な話、ニケに構ってあげられるほどの余裕が無いので、そちらからもあまり接触してこないでほしいのです。〉

〈構ってあげられる、ですって? ずいぶんと上からの物言いに聞こえますが?〉

〈でしょうね。惚れられた強みです。〉

〈惚れられた? 何を言っているんですか? ニケがあなたみたいな男に恋するとでも?〉

〈お疑いでしたら、今夜俺と会ってみますか? 器のあなたも口説いてみせますよ?〉

〈口説けるものなら口説いてみてください。私、レズですから。〉

〈おや、では、ニケとはそういうご関係でしたか? てっきり姉妹のようなものかと思っていました。しかし、それならばなおのことあなたを口説いてみたい。ぜひお会いしましょう。今夜七時、新宿までお越し願えますか? 二人で一緒にディナーでも。〉

〈いいでしょう。ニケの恋人として相応しいのは私かあなたか、ハッキリさせましょう。〉


 ベイカーが読み上げた言葉の意味を理解して、マルコとアルテミスもフリーズした。

 どこからツッコミを入れるべきなのか。

 ベイカーの『超俺様・超上から目線』もさることながら、そんなハイパープレイボーイに真正面から勝負を挑むレズビアンの女子高生というのも、なかなかいないレアキャラである。

 これはデートの約束なのか、決闘の打ち合わせなのか。

 そしてそんな始鶴とベイカーが結果的に性行為に及んでしまったこの状況を、どうとらえればよいものか。

 何も言えなくなった一人と二柱を無視して、ベイカーはベッドに寝かされた始鶴の前に立つ。そして腕組みをして、顎を上げ、ふんぞり返って発した言葉は――。

「阿久津始鶴、聞こえているか? 俺はニケと結婚した。残念ながらニケは天に召されてしまったが、離婚していない以上、ニケは今でも俺の妻だ。この勝負、俺の勝ちだな」

 この状況で何を言っているんだ。

 誰もがそう思ったが、次の瞬間、マルコは「あっ」と声をあげた。


 始鶴が目を開けたのだ。


 始鶴は目覚めると同時にニヤリと笑い、ベイカーに負けない強気な口調でこう返す。

「いいえ、勝ったのは私です。気絶している間に、創造主に会ってきました。私とニケの運命の糸は、まだ切れていません。ニケはリセットされて、もう一度、私のところに帰ってきます。新たな存在として生まれ直す以上、彼女はニケではなく、別人です。あなたとの婚姻関係は綺麗さっぱり解消されています」

「それならお前も同じ条件だろう? ニケが別の存在に生まれ変わるなら、お前はもう神の器じゃない。新たに生まれた神と、赤の他人からスタートだ」

「フフ……ニケが神として生まれ変わるなんて、私、言ってませんけど?」

「……どういうことだ?」

「ニケの魂は、もうここにいますから」

「……まさか……」

 ベッドに横たわったまま、始鶴はそっと、自分の腹に手をやっている。

「男なんかに、ニケを取られてたまるもんですか。どう? 私の完全勝利でしょ?」

 この瞬間のベイカーの顔は、見ているマルコが泣きたくなるほど情けないものだった。


 恋のバトルで惨敗した敗北感。

 避妊に失敗するどころか何もしていなかった事への後悔。

 相手は女子高生だぞ、どう責任を取る気だ、俺! という狼狽。

 なにより、あれだけ色々頑張ったのに、結局自分のところには『戦利品』らしきものが一つも手に入らない徒労感。


 全ての感情が一気に押し寄せ、筆舌に尽くしがたい悲惨な顔つきになっている。

 始鶴はそこに、さらなる追い打ちをかける。

「あ、そうそう。創造主が言っていました。今日から私とこの子の守護には不動明王がつきます。今後あなたが一切干渉できないように、明王とその眷属が何重にも防御結界を張ってくれるそうです。そういうことですので、金輪際、私があなたと関わることはないと思います。父親としての責任を取ろうとか、そういう勝手な発想は控えてくださいね。私、男は嫌いなので。では、失礼します」

 始鶴はスッと立ち上がり、軽い足取りで船室を出て行ってしまう。

 止めることも出来ず、全員、ポカンとした顔で始鶴の後ろ姿を見送った。

「……え?」

「いや、その……」

「なんでしょう、この展開は……?」

 直後に響く艦内放送で、呆然としていた一同はハッとした。


〈一三七三機、着艦! 繰り返す! 一三七三機、着艦!〉


 識別番号一三七三。語呂合わせで『イザナミ』と読めるその爆撃機は、タケミカヅチの父、イザナギの愛機である。

「……どこまでクソ野郎なんだ、創造主め……。あの娘の迎えまで寄越していやがったか……」

 忌々しさ全開で呟くタケミカヅチ。立っているだけで限界の、燃え殻のようになったベイカーを両脇から支えるマルコとアルテミス。そんな船室に駆け込んできたのは、あのゼロ戦パイロットである。

「タケミカヅチ様! イザナギ様より伝言です! 『今回ばかりはお父さんも黙っていられません。近日中に硫黄島基地まで来るように』とのことです! ……あの、タケミカヅチ様⁉」

 イザナギからのメッセージを聞いた途端、タケミカヅチもベイカー同様、見るも無残な『大恐慌顔』になってしまった。イケメンのイの字も残っていない。

 しなびたナスかキュウリのように、しおしおと壁にもたれかかっていく。

「わ、我のせいではない。我のせいではないのに……うぅ……なんで、我ばかりこんな貧乏くじを……」

「お、俺の意思じゃなかったのに……不可抗力だったのに……酷い……こんなの、もう実質逆レイプじゃないか……」

 轟沈した神と器に、掛ける言葉も見当たらない。だが、このまま放っておけるような時間的余裕はないのだ。

 マルコとアルテミスは祥鳳の乗員たちに礼を言い、大敗を喫した二名を『心の世界』から連れ出した。




 しかし、本当の問題はこれからだった。それは現実空間に戻った直後に発覚した。




 時刻は午後七時二十分。東京都墨田区江東橋の活動拠点に出現したベイカーは、『心の世界』を出たと同時に意識を失った。

「隊長⁉」

「どうした⁉」

 両脇からマルコとアルテミスが呼びかけるが、ベイカーに反応はない。

 ぐったりと動かないベイカー。その顔色は、傷病者のそれとは明らかに異なる。これではまるで、血の通わない死体のような――その場の誰もがそう思い、咄嗟に呼吸と脈を確認した。

「……息は、ありますね……?」

「心臓も、動いているが……」

 なんとも言えない奇妙な違和感。彼は確かに目の前にいるのに、同時に、この世のどこにもいないような気がしてくる。『死んでしまってこの世にいない』という意味ではない。それは例えるならば、絵本や小説の登場人物のような、現実味の無い『架空のキャラクター』を見ているような気分だった。それも主人公のように印象深いキャラクターではなく、物語のどこかに一瞬だけ姿を見せた、覚えてもいないモブキャラの絵を見せられているような気分で――。

「……隊長? 隊長……ですよね? そんな……どうして……」

 慌てて駆け寄ったレインも、ベイカーの頬に触れながらそう呟いている。

 忘れたくても忘れられない、目を逸らしたくても逸らせない、あの圧倒的存在感。超俺様・超上から目線、これ以上ないほどわがままでぞんざいな口を利く癖に、それがチャームポイントになってしまう不思議な魅力。

 それが無い。

 彼という存在そのものが、極端に『薄く』なっている。

「……やはり、こうなってしまったか……」

 呟くタケミカヅチに、皆、一斉に視線を向けた。

 説明してくれと、目だけで訴えるマルコとレイン。メリルラント兄弟も、小さな舌打ちで『勿体を付けるな』と神を急かす。

 しかしタケミカヅチはあえてそうしているのか、床に寝かされたベイカーの傍らにゆっくりと、静かに腰を下ろす。そしてベイカーの胸に手を置き、そっと目を伏せた。

「……心と魂は完全に同一のものではない。けれど、相関関係にある。たとえ魂が傷ついていても、心が生きることを望んでいれば、魂の傷は修復される。心が傷ついていても、魂の炎が大きく燃えている者は、自力で立ち直ることも出来る。けれど両方が同時に、どうしようもないほど傷付いてしまえば……」

 他の者には伝わらなくとも、マルコにだけは分かった。『心の世界』で、ベイカーは普通に動いて喋っていた。あれは魂の傷を心が補い、修復している状態だったのだ。

 だが、始鶴の言葉で心が折れてしまった。マルコはその瞬間をしっかり目撃している。


 今のベイカーに手を差し伸べられるのは、自分しかいない。


 そう思ったマルコの行動は、マルコにとっては至極当然のものであった。

「隊長! 好きです! 大好きです! 勝手に死なないでください! 私には、隊長が必要なのです! お願いですから、私の隊長でいてください!」

 ベイカーの体を抱き起し、ぎゅっと抱きしめ、唐突にそう叫んだのだ。事情を呑み込めていないレインとエリック、アスターにしてみれば、何やらとんでもない告白の場面に遭遇してしまったことになる。

 驚きのあまり硬直する三人の前で、マルコはなおも続ける。

「始鶴さんにあなたの存在が否定されたとしても、あなたがこの世界から必要とされなくなったわけではありません! 少なくとも、私には隊長が必要です! 彼女があなたを否定した以上に、私があなたを肯定します! 彼女があなたを拒む以上に、私があなたを求めます! それではいけませんか⁉」

 だから、いったい何の告白なんだ⁉

 マルコ以外の三人には『愛の告白』以外の何物にも聞こえない言葉だが、そうでないことはベイカーには分かっている。死体のようだった顔に、わずかに血の気が戻る。

 マルコはそんな変化に気付くことなく、なおも必死に呼びかけた。

「隊長にとって、私たちは何ですか? 私たちでは、あなたの支えになることは出来ませんか? 今はここにいませんが、ロドニーさんやキールさんは、あなたの大切な友達でしょう? ゴヤさんやトニーさんは、あなたの大切な後輩でしょう? 確かに愛する女性に比べれば、友達も後輩も、隊の仲間も、あなたの心に占める比重は少ないかもしれません。それでも、私たちも、あなたを思っていることには変わりありません。あなたが好きです。あなたという人間が、私は大好きです。お願いです。あなたが私を……私たちを、少しでも思ってくれているのなら、生きることを諦めないでください。あなたがいなくなったら、私は、とても悲しい……」

 ベイカーは目を薄く開き、自分を抱きしめるマルコにだけ聞こえるような、本当にか細い声でこう言った。

「……お前のせいで、この世に未練が出来てしまったではないか。この大馬鹿者め……」

 そして再び、意識を失う。

 マルコはベイカーの顔色を確認するが、先ほどまでと異なり、今はきちんと『生きた人間』の顔色になっていた。

「タケミカヅチさん! ベイカー隊長の中に入ってください! 今は、隊長を必要とする人々の『思いの力』が必要です! ネーディルランドに帰還しましょう!」

 タケミカヅチは無言で頷き、『器』の中に入る。

 マルコとサラ、ベイカーとタケミカヅチは、そのままネーディルランドへと空間移動してしまった。

「えーと……?」

「今のって、愛の告白とかじゃなくて……?」

「思いの力……とか言ってたジャン? みんなでサイトに『戻ってこーい』って言えば、魂の傷とかいうのも、治せる……っぽい?」

「……あ、じゃあ、私たちも帰りましょうか……?」

「お、それな」

「その前に戸締りと火の元確認ジャン?」

 突然現れてドラマチックな展開を繰り広げられても、海洋生物と雷獣兄弟には状況がわからない。三人とその内に宿る神々は、アイスのゴミと吸いかけの煙草の後始末をしてから元の世界に帰還した。




 それからのことはマルコにもレインにも、他の仲間たちにも、うまく言い表す言葉が見つからなかった。

 本部の医務室に担ぎ込まれたベイカーだが、その様子を目撃した本部職員たちは、誰もが同じような顔つきになっていた。


 あれ? これ、誰だっけ?


 一人の例外もなく、そんな顔をしていたのだ。王子が意識の無い人間を背負い、医務室に駆け込んだ。それはもちろん大変なニュースだし、騎士団関係者が仕事中に怪我や病気になったのなら、労災扱いで諸々の書類を整え、事務手続きを済ませることにもなる。だが――。

「えーとぉ、さっき、誰か搬送されて来ましたよねぇ~? 今夜中に書類作成すれば、明日の朝イチ処理に間に合うのですぅ~。これ、必要なところだけ記入しておいてほしいのですぅ~」

 そう言いながら医務室に記入用紙を持ってきたのは、総務部のリナである。リナはベッドに寝かされているベイカーの姿を見ても表情を変えることも無く、ごく普通の事務的な口調でそう言って出て行った。彼女はベイカー男爵領の出身で、ベイカーの推薦状で本部採用された、ベイカー家の親戚筋の娘なのだが――。

「……? どうなっているんだ?」

「さっき食堂で同席してた車両管理部の連中も、デニス以外、あんな感じだったよな……?」

「隣のテーブルの連中なんて、『特務の隊長ってどんな人だっけ?』なんて言ってやがったぜ……?」

 そう言うのはキール、ハンク、ロドニーの三人である。

 ベイカーが意識不明と聞いて駆け付けた他の隊員たちも、それぞれ宿舎や自宅からの移動途中、人々の奇妙な言動を目の当たりにしていた。

 ベイカーと親しいはずの事務職員も、ベイカーに彼女を取られて決闘を申し込んだことがあるような男も、誰もがベイカーを忘れているのだ。名前を聞いて、『ああ、そういえば特務の隊長ってそんな名前だったよね』という程度の反応しか見せない。

 ベイカーを覚えているのは、己の内に神や天使、精霊を宿す者のみ。そのことに気付き、全員、事の重大さを痛感した。


 魂が削られ、存在が消失する。


 それは単なる『死亡』よりずっと重い、『完全な存在抹消』なのだ。人々の記憶から、ベイカーと過ごした思い出すらも消えてなくなる。そこにサイト・ベイカーという人間がいた事実が、根こそぎ奪われてしまうのだ。

「……隊長がまだここにいるのは、俺たちが、隊長を覚えているからなんだな……?」

 そう尋ねるロドニーに、ベイカーの傍らのタケミカヅチが答える。

「そうだ。今はまだ、お前たちがサイトを必要としている。だからサイトは存在を維持できているが……人間の記憶と感情は、それほど確かなものではない。お前たちは、子供のころの友達の顔と名前を、全員分、きちんと記憶しているか? しばらく会わないうちに、うろ覚えになってはいないか? 顔か名前か、その両方か……どうしても思い出せない友達が、一人くらいはいるだろう? おそらく、サイトもそうなる。こうして言葉を交わせない状態が続けば、お前たちの記憶からサイトは徐々に消えていくだろう。そして誰からも忘れられたときが、この子の最期だ……」

 話しながら、タケミカヅチは優しく、とても優しく、ベイカーの頬を撫で続けている。それは誰の目にも、最期の別れを惜しむ様であると分かった。

「……それでも、俺は、意地でも忘れねえ。絶対、忘れねえからな……」

 絞り出すような声でそう言うロドニーに、タケミカヅチは穏やかに、『サイト・ベイカー』として語り掛ける。

「すまないな、ロドニー。俺はお前と友達になれたことを嬉しく思う。ありがとう。俺も、お前のことは絶対に……」

「うるせえ! 黙れ! 隊長と同じ顔で、勝手に別れの言葉なんか口走ってんじゃねえよ! 何が何でも、俺が元に戻してやるからな! そこで待ってろ!」

 ロドニーは医務室を飛び出していった。それを見て、ポールとミカハヤヒ、ヒハヤヒも後を追う。

 何をしに行くのか、聞くまでもない。サイト・ベイカーを知る人々が彼を思い出すよう、片っ端から声を掛けに行ったのだ。

 残された隊員たちも、互いに顔を見合わせ、一斉に立ち上がった。

「俺、シアンさんとナイルさんのトコ行ってくるッス。あの二人が隊長を忘れるなんてありえないッスから!」

「じゃあ俺は、クラブ関係者かな。ベイカー隊長のおかげでデカいイベントに出られるようになったDJ、けっこういっぱいいるわけだし?」

「よし、ハンク。俺たちは刑務所にでも行こうか」

「それは名案だな、キール。ベイカー隊長の電撃を喰らってお縄についた連中なら、嫌でも記憶に残っているはずだな」

「ああ。この際、『いつか出所して報復してやる』という動機でも良しとしよう。それでも一応、サイトを必要としていることには変わりないからな。そうだろう?」

 言葉と視線を投げかけられたタケミカヅチは、ただ、静かに頭を下げた。




 マルコは総務部へ向かった。本部の事務員たちは特務部隊の最大の味方。特務の任務が上手く行くのも、彼らの根回しやバックアップがあってこそなのだ。彼らがベイカーを忘れてしまうことなどありえない。

 はじめは何の話をされているのか分からなかった職員たちも、マルコの真剣な様子にただならぬものを感じ、その言葉に耳を傾け、そして少しずつ思い出していった。年がら年中想定外のトラブルに見舞われる、ハプニング体質のあの男を。

「お願いです。皆さん、協力してください! 隊長は地球で、非常に特殊な呪詛を掛けられてしまいました。このまま人々の記憶から存在が抹消されれば、隊長は、本当に死んでしまうのです!」

 本当のことなど言えない。だからマルコは、この事象を『地球の呪詛』ということで説明した。

「大変だ! 本当に……本当に僕は今、ベイカー隊長の事を綺麗さっぱり忘れていたぞ⁉ なんて恐ろしい呪詛だ!」

「おい! 各部署に連絡だ! 何が何でも、ベイカー隊長のことを思い出させろ!」

「なんで私、ベイカー隊長のこと忘れてたんですっ⁉ 信じられないですぅ~! 私、女子寮行ってくるですぅ~っ! ミリィとサーシャにも、早く思い出してもらうですぅ~っ!」

 総務部の職員らは一斉に行動を始めた。マルコはそれを見届けると、足早に騎士団本部を後にした。




 マルコと同時に医務室を出たレインは、中央市内にある治安維持部隊中央司令部へ向かっていた。そこにいるのはベイカーより年上の『昇進しそこなったキャリアたち』である。彼らは自分より年下で爵位が低いベイカーに先を越され、ベイカーのことを心底嫌っている。事あるごとに模擬戦や練習試合を申し込んできて、見物人たちの前でベイカーに恥をかかせようと、あの手この手で裏工作を仕掛けてくるのだ。

 特務部隊員の突然の来訪に、何事かと飛び出してきた大卒キャリアたち。レインは彼らに『国家の存亡にかかわる一大事です。サイト・ベイカーという人間を思い出してください』とだけ伝え、その場を去った。

 ベイカーの事を忘れているキャリアたちは『その人物』を事件の関係者か何かだと思い、あちこちの資料を必死に調べた。そしてある瞬間に、何もかも、すべてを思い出した。それはまるで、記憶に掛けられていた薄っぺらなカーテンが一息に取り去られたようで――。

「……なぜ、これほど忌々しい相手を忘れていたのだ……?」

「あの真っ白な小僧を忘れるなど……」

「ありえん! 絶対にありえんぞ⁉」

 愕然とすると同時に、彼らはこう考えた。

 これは『攻撃』だ。『国家の存亡にかかわる一大事』とは、人の記憶に干渉する非常に危険な呪詛、もしくはなんらかの魔法薬が中央市内に出回っているということに違いない。

「た……大変だぞ⁉ おい、君! 中央司令部内に放送を流したまえ! 『サイト・ベイカーという人物を思い出せ。諸君らは、絶対にその人物を知っている』と! おそらくこれは反体制派からのテロ攻撃だ! 特務部隊がテロの標的にされている!」

「団長はご無事か⁉ 特務部隊オフィスの真上が団長室ではないか! 本部機能は維持できているのか⁉」

「君たち! 市内の全支部長にも放送と同じ文言を通達しろ! あと、呪詛に長けたウィザードのリストを司令部に持ってこさせろ! どう考えても、これは並の術者の仕業ではないだろう⁉」

 キャリアたちは慌てふためきつつも、レインが狙った通りの『正しい指示』を出してくれた。

 サイト・ベイカーを思い出せ。

 その言葉は、あっという間に中央市内のすべての騎士団員に広がった。




 中央市内の各所では、クラブDJやダンサー、バンドマンらが路上パフォーマンスを敢行していた。楽器の演奏や音楽イベントが禁止された広場でも、今はそんなことを気にしてはいられない。

「頼む! 思い出してくれ!」

「俺たちの恩人を!」

「私が今もこうして歌っていられるのは、あの人のおかげなの!」

「みんな! 彼の名前を呼んでくれ!」

 必死に声を張り上げる彼らの頭上から、紙吹雪のように何かが舞い降りてくる。道行く人々はそれを拾い、しばらく眺めたあと、「あっ」と声をあげた。空からばらまかれたビラに印刷されているのは、あの『王子の竜退治』の新聞記事である。そこには確かに、『マルコ王子と特務部隊長サイト・ベイカーが竜族の生き残りを退治した』と書かれていて――。

「……どうして、忘れてたんだ? 僕、この記事、切り抜いて部屋の壁に貼ってあるくらいなのに……」

「そう……だよ。私、これで王子のファンになったのに……?」

「どういうこと⁉ ねえ、あなたたち! なんで私たちがベイカー隊長を忘れているのか、理由を知ってるんでしょ⁉ 教えてよ!」

 思い出した市民らに説明を求められ、中央市のちょっとした有名人、アマチュアダンサーの綾田ラミアが進み出る。

「これはさっき、特務部隊のチョコさんから聞いた話だ! ベイカー隊長は今、滅茶苦茶凶悪な呪詛を掛けられている! みんなの記憶からベイカー隊長に関する記憶だけがごっそり消えて、そんな人間はいなかったことにされるんだって! 特務部隊は今、その呪詛を掛けた犯人を追っているらしい! みんな、自分で体感しただろう⁉ これがもし、自分の家族や友達、恋人の記憶だったら⁉ 心の底から大切に思ってる人の記憶が、誰かに勝手に消されるんだぜ⁉ そんなの許せるか⁉」

 綾田の言葉に、集まっていた市民らは一斉に騒ぎ始めた。

「そんなの、絶対に嫌だよ!」

「どこの誰だ⁉ そんな最悪な呪詛を垂れ流してるのは!」

「他の奴らにも教えてやろうぜ!」

「おう、そうだな! そんな凶悪なウィザード、さっさと捕まえてもらわないと!」

 人から人へ、話はどんどん拡散していく。そんな市民らの様子を、ビルの屋上から眺める人影があった。

 情報部・貴族案件専従セクション『コードブルー』所属、シアンとコバルトである。

「……よし、上手くいったな。コバルト、残りはどのくらいある?」

「五十枚くらいかな?」

「じゃあ、もう一か所撒いておくか」

「そうだね、残しておいても仕方がないし。いや、それにしても、まさか僕たちがビラ配りなんてねぇ?」

「そのうち駅前でティッシュ配りをすることになるかもな」

「一度やってみたい気もするけど、僕が配ると目立ってしまうかもしれないね? 無駄にハンサムに整形してしまったから……」

「それは困るな。情報部は一応、『目立たずこっそり』が信条で……っと、失礼、ナイルからの着信だ。……もしもし? ナイル、そっちはどうだ? 上手くいったか?」

 通信機越しにそう問いかけると、相手はハイテンションに返事を寄越す。

「百パーセント完全オッケーだよシアン! もう最高! シアンのこれ、超ナイスアイディア!」

「そうか。上手くいったならそれでいい」

「アウッ! 淡白! あのさぁシアン~? うまくいった時くらい、もうちょっとアゲて行こうよ~っ!」

「断る。というか、まず訂正させろ。これは俺のアイディアじゃなくてピーコックの持ち込み企画だ。チヤホヤするならあっちの猫を褒めてやれ」

「え、そうなの⁉ うわ、やだなー。ピーコックの奴、褒めるとすぐ調子に乗るんだもんなぁ~!」

 通信機越しでも唇を尖らせるナイルの顔が想像できてしまい、シアンは口の端だけで小さく笑う。

「俺たちはもう一か所回る。ガル坊を連れて、先に戻っていてくれ」

「りょーうかーい! それじゃ、また!」

「ああ」

 通信を切り、シアンはもう一度、足元に広がる中央市の喧騒に目をやる。

「……くそったれ……」

 口の中でぼそりと呟かれたその言葉の意味は、コバルトにはよく分かっていた。ほんの数十分間のこととはいえ、情報部員の頭の中から、仲間に関する『情報』がごっそり抜け落ちていたのだ。シアンが怒りを覚えているのは、他でもない、彼自身に対してである。

(う~ん……さすがは情報部最強戦力。これがカミサマ由来の騒動でも、許せないのは『自分の不甲斐無さ』とはねぇ……)

 いったいどれだけ自分に厳しいのか。自分よりずっと小柄な男の背中に、コバルトは憧れにも似た感情を寄せていた。

(あ、これ、まずいな。女子なら絶対惚れてる……というか、男でも惚れるのも分かる気がする……? 嫌だなぁ。僕もついに『あっち側』に合流かぁ?)

 情報部内にはかなりの数のシアン信者がいる。気付かれないように必死に感情を押し殺しているようだが、本人たちが思っているほどうまく隠せてはいない。いい年をしたおじさんが恋する乙女の眼差しで猫耳のお兄さんを見つめる様は、見ているほうが辛い。ただただ辛い。

 ストイックすぎる男は、その視線すらも『自分へ挑戦の機会をうかがうライバルたちからの殺気』だと思っているようだが、コバルトとしては『別の意味で危険だから単独行動はダメ、絶対』と忠告してやりたくなる。

 それぞれの胸中にてんでバラバラな思いを抱えながら、シアンとコバルトは次の現場に向かった。




 キールとハンクが向かった刑務所では、暴動寸前の怒声が飛び交っていた。

「てめえこのクソ野郎! せっかく忘れてたのに、なんで思い出させやがるんだ⁉」

「あの女顔のドチビ! シャバに出たら絶対殺す! ブチ犯し殺す!」

「つーかまずてめえらが死ねっ!」

「呪われろ!」

「ぶっ潰れろ、特務!」

 この刑務所に収監されているのは、その大半が特務部隊と情報部の共同作戦によって壊滅したマフィアの関係者である。幹部クラスは処刑されたが、下っ端の構成員は極刑に値するほどの罪を犯していない。数年から数十年の刑期を終えるまで、鉄格子の内側から憎き仇敵、サイト・ベイカーとその仲間を恨み続けることしかできない連中だ。

 つまり彼らにとっては、サイト・ベイカーへの復讐こそが現時点で最大の目標であり、今を生きる最大の理由なのだ。

「よーし! 貴様ら、思う存分サイトを恨んでやってくれ! 貴様らの無様な遠吠えが、サイトにとっての最高の応援歌だからな!」

「ご協力、感謝する!」

「このクソども舐めてやがんのかゴルァッ!」

「食らえぇぇぇーっ!」

 長い廊下の両側に設けられた数十の房の扉。その扉の鉄格子付きののぞき窓から、房の中への持ち込みが許可された数少ない私物類が一斉に投げつけられる。だが、キールとハンクはそれらをひょいひょいと避けながら、わざわざ囚人たちをからかい、挑発して回った。

 二人には拘束された相手を侮辱して楽しむような嗜虐的趣味はない。しかし、今はこれが最適解だ。この『無駄に元気に長生きしそうな皆さん』が常時ベイカーのことを考え続ける限り、サイト・ベイカーは消えない。この世界に『もっとも憎むべき敵』として存在し続けることになる。

 ベイカーが『敵の敵を作る達人』なら、キールは『敵すらも己の武器として使う戦略家』である。そしてハンクは、そんなキールの策を正確に理解し、的確にサポートする最高の相方。この頼もしすぎる仲間たちの行動により、ベイカーの存在を揺るがす『魂の傷』は少しずつ、少しずつ修復されていった。




 真っ先に飛び出していったロドニーとポールは、ベイカーと親交のある貴族らに連絡を取り続けていた。何しろ相手は貴族。事前の約束が無ければ直接会うことはできないが、その分、誰といつ面会するか、どこの家の誰とどの程度の付き合いをするかは厳密に管理されている。

 そんな貴族らに、ロドニーとポールはこんな内容の話をし続けていた。

「市の東側に、工事が遅れている造成地がありますでしょう? ええ、そうです、レイクシティです。あの場所に、サイト・ベイカーが大型ショッピングモールの出店を計画しています。あそこはまだ、商業施設の計画書が一つも提出されていません。今ならどことも競合せずに低予算で出店できそうなのですが……え? それは誰だ? 何をおっしゃっているのです? サイト・ベイカーとは、これまで何度も共同プロジェクトを動かしてきたでしょう?」

 通話を終えた貴族たちは、『はて? どこの商人だったかな?』という程度の、軽い疑問で過去の面会記録、商談記録を確認する。

 そして思い出し、誰もが蒼白になるのだ。


 国内最大の金鉱脈保有者、サイモン・ベイカー男爵の長男。

 王立騎士団特務部隊長として、魔女王ヴィヴィアンのプライベートルームへの入室を許可されたただ一人の男。

 なぜ騎士団なんかに籍を置いているのか分からないほど、数々の商業プロジェクトを成功させているやり手の商売人。

 そのくせ騎士団員としてもしっかり武勲を挙げているため、市民からの人気は絶大なもの。

 サイト・ベイカーとマルコ王子が兄弟のように仲良く会話しているところがたびたび目撃されていることと、彼が『女王の事実上のカレシ』であることから、貴族たちからは『ほぼ王族』と認識されているほどの人物で――。


 彼は何をどうしても忘れるはずのない『最大の取引相手』、もしくは『最高のビジネスパートナー』である。貴族たちは慌てて電話をかけ直すが、ロドニーとポールは端末の着信機能を完全にオフにし、ただひたすら発信を続けている。

 サイト・ベイカーを『誰それ?』扱いしたことで、関係を切られてしまったのではないか。そんな恐怖心に駆られた貴族たちは、どうにか関係を取り持ってもらおうと、ベイカー、ロドニー、ポールらと親交のある他の貴族たちに連絡を入れ続けた。

 だが、肝心の本人たちには電話がつながらない。

 恐怖と不安のどん底に陥っている貴族らに、今度はマルコ王子からの直接連絡が入る。

「先ほどご連絡した限りでは、あまり乗り気でないようだと伺いました。今はまだ公表できない話なのですが、この出店計画には私も参加しています。王家ではなく、あくまでも私個人です。近日中に、話し合いの場を設けさせていただきたいのですが?」

 渡りに船とはこのことだ。貴族らは誰もかれも、マルコの『日時は追って連絡する』という言葉に救われた思いになっていた。しかし実際には、救われたのはベイカーのほうなのだ。よもや自分が『人命救助』をしているとは思いもせず、貴族らはせっせと自領の産業や特産品の売り込み企画を考え始めた。

 現時点より先のこと、つまりは『未来』の計画を立てながらサイト・ベイカーという存在を意識する。それだけで彼と世界の『運命』は少しずつ、確実に結び付けられていった。




 日付が変わるころには、ベイカーの存在感はすっかり元に戻っていた。顔色も良く、呼吸も安定している。普通に眠っているようにしか見えないところまで回復したのだが――。

「……目、覚ましませんね……」

「まだ足りないのかな……」

「でも、僕たちには何もできないし……」

 ポールとミカハヤヒ、ヒハヤヒは、瞼が閉ざされたままのベイカーの顔を覗き込み、幾度目とも知れぬ溜息を吐いた。他の隊員たちはまだ粘り強く活動を続けているが、ポールは未成年、それも十一歳という若さである。さっさと寝ろと言われ、本部に帰されてしまった。

 このままベイカーが目を覚まさなければ、代わりにタケミカヅチがこの体を使い、『サイト・ベイカー』として一生を過ごすことになる。そうでもしなければせっかく命をつないだこの体も、どんどん衰弱して、そのうち死んでしまうからだ。ベイカーの心と魂はいつか完全回復するかもしれないし、しないかもしれない。それでも、タケミカヅチはその日を待つという。

 ベイカーがベイカーでなくなる。それはポールには耐えがたいことである。また、タケミカヅチが『神』から『人』の次元に下ることは、兄弟神であるミカ、ヒハヤの二柱には心底受け入れがたい没落だった。

 利害が完全一致している天才少年と軍神たちは、今なお必死に考えていた。どうにかして、ベイカーを復活させる方法はないものかと。

「……隊長の心に入れるのは、タケミカヅチさんだけですよね? 隊長の心に入って、心の傷を治せば、魂の傷も回復するのでは……?」

 ポールの問いに、タケミカヅチは首を横に振る。

「心の傷など存在しない。サイトは本当に我が強くて、俺様気質だからな。ニケをかばって死にそうになっていることも、微塵も後悔していないのだ」

「……でも、不本意な結婚までさせられたんですよね?」

「いや、それはそれで、滅多にない経験だと楽しんでいるようなところがあって……」

「レズの女子高生にこっぴどく振られたって聞きましたけど?」

「あー……それについてだが……『俺の子を産む気満々なんだから、口説き方を変えればレズからバイセクに趣旨変えする可能性もあるのでは? ニケとの結婚が解消されているなら、上手くすればニケと同じ顔の現役女子高生妻ゲットの可能性も?』などという希望的観測を抱いているようで……」

「さすがは隊長。メンタルタフすぎ」

「ああ。タフすぎて、我はもう、どう対処すべきか分からん……」

「しっかりしてください。それでも神ですか」

「いや、その、我はしっかりしているのだが、それ以上に器の性癖が強烈すぎて手に負えないのだが……」

「じゃあ、なんでまだ目を覚まさないんです?」

「分からない。だが……これは我の想像の域を出ないのだが、もしかすると……」

「なんです? 何でもいいからさっさと言ってください。聞いてあげます」

「おのれこのクソガキ。サイトに劣らぬ俺様ぶりだな……。我の実感としては、サイトの魂はもう十二分に修復されておる。けれども、それは皆の心に残っている『思い出』によるものだ。人間は思い出だけでは生きてはゆけぬ。必要なのは、未来への希望だ。今よりほんの少しでも先に、何かがあると信じることが出来ねば……人は、歩みを進めることなどできないだろう。これまでに我が憑代とした人間たちも、皆、希望を失くした瞬間に命を落とした。サイトは魂を直接損傷し、絶命寸前まで陥ったのだ。その状況から『元通りの命』を取り戻すには、並の人間が抱くような希望では足りぬのかもしれぬ……」

「……並ではない希望、ですか? 見当もつきませんね……」

「ああ……本当に、まるで見当がつかない。……なあ、サイト? お前は、いったいどれだけ想定外な人間なのだろうな……」

 ベイカーの頬をそっと撫でるタケミカヅチ。その目からは、先ほどまでのような諦めの色は消えているが――。

「……こういうの、僕のキャラじゃないんですけど。ロドニー先輩もマルコさんもいないんで、代わりに言いますね」

「うん? なんだ?」

「泣きたいときは、素直に泣いてもいいと思いますよ? なんなら僕の胸、貸しましょうか?」

「……あのなぁ……」

 見た目年齢六~七歳、実年齢十一歳のエルフのお子様に胸を貸すと言われても、大人が抱きついておいおいと泣きすがるだけの物理的スペースはない。

 さあ来い受け止めてやると言わんばかりに両手を広げるポールと、その両側で『さあさあどうぞ遠慮せず!』というポーズをとる兄弟たち。彼らの姿に、タケミカヅチはたまらず吹き出した。

「どうしてお前らは、揃いも揃って……」

 そう言いながら、笑って誤魔化すタケミカヅチ。その目には、確かに光るものがあった。


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