そらのそこのくに せかいのおわり 〈 vol,08 / Chapter 01 〉
その日、僕はいつも通りに家を出た。いつもの道を駅まで進み、いつものように改札を抜け、いつもと同じ六号車二番ドアの前で電車を待つ。
プレイリストはいつもと同じ。『タコヤキング』というヴィジュアル系バンドの、セカンドアルバム『キュウバヌス皇帝の独裁』。目の前を通勤快速が通過するころ、ちょうど七曲目の『多幸~さちおおかれ~』が終わる。八曲目の『ケルベロス』はベースの伴馬場さんの作曲で、他の曲とはノリの違うインストゥルメンタルだ。嫌いな曲ではないけれど、この曲は朝ではなく、夜、ベッドの中で、一人静かに耳を傾けたいタイプの曲なのだ。
僕はここでスマホを取り出し、次曲へのスキップボタンをタップする。
ヘッドホンから流れる音楽が止まる、ほんの四秒間。
ホームに悲鳴が響いた。
十数人が同時に叫んだ。僕は何事かと思い、慌ててヘッドホンを外す。
しばらく周囲の人々の声を聞いていると、うっすらと状況が呑み込めた。どうやら人身事故があったようだ。僕が待つ上り線ホームとは逆、下り線のほうで、この駅を通過する快速に誰かが飛び込んだとか――。
「もしもし? あ、おはようございます、伊藤です。いや、それがですね、今目の前で電車に飛び込んだヤツがいて……はい、そういうことなんで、ちょっと遅刻しそうです。……はい、すみません」
「ねーっ! 今送った写真ヤバいっしょ⁉ グッチャグッチャでさーっ!」
「ちょっと! 困るんですけど! 今日はこれから大事な打ち合わせがあるんですよ!」
「あのー、駅員さーん? 血を見て気分が悪くなった人がいるんですけど、この駅救護室とかってありますかぁー?」
「こういう画像ってテレビ局に売れるんだよね? どっから売り込めばいいんだろ? お前、なんか知らない?」
「遅延って何分くらいですか? ……え? おおよその時間も分からないんですか……?」
「電車止めると遺族に賠償請求されるんだっけ? マジ迷惑だよな、飛び込みって」
「どうせ死ぬなら、どっか人のいない所でやってほしいよな……」
人々の好き勝手な言葉を聞きながら、僕はぼんやりと考えてしまった。
(死んでまで嫌われるなんて、ろくでもない人生だな……)
首にかけたヘッドホンからは、タコヤキングの楽曲が漏れ聞こえる。
〈いつか消えていなくなると
知っていても望んでしまうよ
誰もいない闇の底で一人は嫌だ
いつか消えていなくなると
言わなきゃいけない事なのにな
誰に言える? 言えやしない
まだここで消えていないのに
お別れの言葉なんかで分かり合いたくない
触れ合えない それでもまだ 君に縋りついて
最後に誰かに何か 伝えてほしくて叫ぶ
声は届かなくて
みっともなくても見てよ
格好悪くても聞いて
ここに居たんだ……〉
ああ、そういうことなのかと、何かを理解したような気分になる。でも、気分だけだ。本当にそれを理解してしまったら、きっと、僕もああやって飛び込んでしまうのだろう。おそらく世の中には、理解してはいけない何かがある。近付いてはいけないんだ。『それ』に接触してしまったら、もう二度と、元の自分には戻れなくなる。僕らは『それ』の存在に本能レベルで気付いていて、でも、知らないふりを続けていて――。
(……って、あーあ。何考えてんだろ。なんかこれ、すっげー中二病臭い……)
けれども、『それ』の存在は僕一人の妄想でもないのだろう。事実、空気の読めない一部の連中以外は、自分から進んで現場に近付いたりしない。遠巻きに事故処理の様子を見守るか、視界に入れないようにその場を立ち去るかだ。
(僕はそういう人たちを見てる側、ってことになるのかな……?)
それこそまさに中二病の極みだ。自分はその他大勢とは違いますと、誰に向けて言うでもなく自分自身にアピールして、勝手に満足しているんだ。
(そういえば、『趣味は人間観察です~』とか言ってるアイドルを観察するのが趣味って奴もいたな……)
そんなことを考えながら、何気なく視線を彷徨わせた。
僕を見ている人がいる。
ホームの片隅に立つ白髪の外国人が、まっすぐに僕を見ていた。小柄で、綺麗な顔で、男か女かよく分からない雰囲気で――。
「……?」
その人は微かに首を傾げると、まっすぐ僕へと歩み寄ってくる。
「え? あ、あの……?」
視線は一度も外れない。それどころか、わずかにぶれることも無い。僕の目をしっかりと見据えたまま、その人は僕の目の前まで来てこう言った。
「その曲、いいな。なんていう曲だ?」
「えっ!?」
驚いた。この人がいた場所からでは、ヘッドホンから微かに漏れ聞こえる音楽など聞こえるはずが無いのに。
さては新手の宗教勧誘の手口か?
僕は反射的に身構えるが、その人は当たり前のような口調で尋ねてくる。
「さっきの『いつか消えていなくなると~♪』と歌っていたのも良かったが、今流れている曲のほうが良いな。なんて曲だ? 誰が歌ってる?」
どうやら本当に聞こえていたらしい。
自分で考えているよりも、ヘッドホンからの音漏れは遠くまで響いてしまうのかもしれない。そう思って、僕は急いで謝った。
「あの、すみません! そんなに音漏れ酷かったんですね……?」
「いや、それほどでもないと思うが……誰の曲なんだ?」
「あ、えーっと、『タコヤキング』というバンドの曲で……」
「なんて曲だ?」
「今流れてるのは『ナイトメアゲーム』っていう曲です」
「普通に売ってる音源?」
「いえ、メジャーデビューしてない人たちだから、ライブハウスでCD買うしかないんですけど……」
「そうか……いや、急に話しかけてすまなかったな。どうしても気になってしまったんだ。教えてくれてありがとう」
「あ、ど、どういたしまして……」
「じゃあな」
「……あれ?」
ぺこりと下げた頭を上げると、そこにはもう、白髪の外国人の姿はなかった。
「……え? えーと……?」
僕の前には誰もいない。思わず周りを見回すが、周囲の人間は事故現場かスマホ画面のいずれかを凝視していて、僕のことなど眼中にない。
背筋に冷たいものが走った。
何のとりえもない僕なんかをまっすぐに見つめて、迷いなく歩み寄って、僕の大好きなマニアックなバンドの曲について聞きたがる性別不明の外国人。全く予想外で、突然すぎる出会いと会話。まるっきり、安っぽいラノベの展開だ。
「……幻覚? 幻聴? え? それって、僕、かなりヤバいんじゃない……?」
飛び込む瞬間こそ目撃しなかったものの、やはり『人間の死』を間近で感じて、それなりに精神的ショックを受けているのだろうか。
「……今日は学校、行かないほうがいいかも……?」
そうは思えども、事故があったのは僕が待っているのと反対の下り線。上り線の電車は定刻から三分遅れで到着し、僕の体は人の波に流されるまま、いつもと同じ六号車二番ドアに吸い込まれていく。
窓の外を流れ去るのは、いつも通り何の変哲もない住宅街である。そんな景色をどこかぼんやりした気持ちで眺めながら、僕はまた、妙なことを考えてしまった。
(……なんだろう。さっきのホームに、僕の『中身』を何か落っことしてきちゃったような……? 同じ車両に乗ってる人たちもそうだとしたら、全員分集めたら、きっとすごい量の『中身』だよなぁ……)
大勢の人間がその場に落としたあらゆる感情が、もしも一つに寄り集まって融合したら――それはもう、普通の人間が持つ心の総量に匹敵する『何か』になってしまうのではないだろうか。
(……そういえば、先月も同じ場所で飛び込みがあったんだよな……)
オカルトマニアならば『死者に呼ばれたのだ』と盛り上がるところだろう。けれど、僕の心には確信にも似た不思議な思いがあった。
(……違うよな? 死んだ人は、他の人を殺したりしない。人を殺すのは、きっとそんなものじゃなくて……)
なんだというのだろう。
しっくりとハマる表現が見つからず、僕は遠くの景色を見る。今日は空気が澄んでいるようで、普段なら見えない小さなビルまでくっきりと見えた。
ヘッドホンからは相変わらずタコヤキングの曲が聞こえている。アルバム単位でリピート再生設定してあるため、最後の曲が流れ終わったあと、もう一度一曲目が再生される。
〈このまま世界中に『絶望』が蔓延るようなことがあるなら
君には諦めるべき『正当な理由』が与えられるね
Dear Lie & Lier.
この世の支配者よ
諦めは是か非か?
Dear Lie & Lier.
愛される意味など
始めから無いものを
夢見た世界なんて 所詮は幻想 妄想の産物だけど
何も願わぬよりは 幾許かばかりはマシな世界になるだろう?
Dear Lie & Lier.
この世の支配者よ
諦めは是か非か?
Dear Lie & Lier.
信ずるべきモノなど
始めから無いものを〉
セカンドアルバム『キュウバヌス皇帝の独裁』は、独裁者の歌でも、架空の帝国の物語でも何でもない。愛も信仰も否定したような歌詞の一曲目も、本当はそんな内容じゃない。
最後の一曲で、『彼』はこう問いかけるのだ。
〈君の心の支配者は 愛に理由を見出すの?
君の心の中にまで 物やお金は持ち込める?
ところで君はどこの誰?
君の心の王国は 誰の指図で何するの?
ちなみに僕はキュウバヌス
僕の心の帝国は 未来を信じて剣を取る
不屈の戦士 キュウバヌス
どんな未来も恐れない 八本足の海の王
教えて 君はどこの誰?
君の心の王様が 君でないなら誰なのさ?〉