プロローグ
(‥‥‥見なかった。うん、何も見ていない)
綿貫ハジメは心の中でそう呟いた。
そこにある継ぎはぎだらけの頭部がやたら大きな2等身の薄汚れたクマのぬいぐるみ。
ソレはほんの数分前、ゴミ捨て場に捨てられていたモノだった。一目みて『あかん、これはあかんやつや』ハジメの本能がクマのぬいぐるみを忌避していた。
持ってきたゴミをあえてクマの上に置き、誰かの目に触れる可能性を減らしさえしたソレが自宅前にあったのだ。
「何も無い。うん、ナニモナイ」
自己暗示じみた言葉を繰り返し、全長50センチほどのソレを跨いだ。
ハジメは本当なら今頃ハワイにいるはずだった。
妹の海外挙式に出席し、ついでに溜まった有給を消化を予定していた。
しかし出発前日、同僚と飲みに行く途中、通り魔に出くわした。
さらに運の悪い事に背中を切りつけられ3針縫う羽目になった。既に出発していた両親はハジメの無事を喜びつつも、このまま妹の挙式に参列し、帰らない事を詫びられた。ハジメも妹と義弟、そしてその他両家の親族に参列出来ない事を謝って欲しい、自分の欠席理由は妹と義弟以外には仕事上の緊急トラブルと伝えて欲しい、と頼んだ。
せっかく取った有給が一人自宅療養。
それも普段は母任せの家事までしなければならなオマケつき。見舞いに来る同僚や友人達にひたすら弁当やレトルト食品を要求し、5日間引き込もっていた。
6日目、リビングに溢れる容器の山を片付け、ゴミ収集場所へと向かった。
既に幾つものゴミ袋が積み上げられていた。
そして。その上にソレが座っていた。
元々は柔らかな手触りだったであろう薄茶のぬいぐるみ。
切り裂かれた所を修繕したのかあらゆる所に縫い合わせた痕や、継ぎはぎがされていた。
量販品らしいプラスチックの大きな黒い目。
クマのぬいぐるみなのに、なぜか緩やか山型の眉毛。
そのくせ鼻はなく、本来は笑みを型どったアップリケの口に、一目で下手と判断できる縫い目で何度も何度も×(バツ)の形に縫われていた。
捨てられたぬいぐるみと言い切るにはナニかが違う、ソレから伝わる不気味さにハジメは手にしていたゴミを上に置いた。
そして痛む傷を無視し、早足で帰った。
「さっきのぬいぐるみ、何だったんだ」
リビングのソファーに座り、思わず呟いていた。
ゴミ捨て場で見たモノが自宅前にあった。
まるで出来の悪いイタズラ、その一言で済ませたいほど気味の悪いぬいぐるみだった。
常識的に考えれば目の錯覚だし、きっとその通りだとハジメは自身に言い聞かせていた。
薄汚れて、継ぎはぎだらけで、口は縫い付けられたクマ。
インパクトが強すぎて脳裏から離れない。
ふと、背後から気配を感じ台所へ視線を送る。
「うッ!」
ハジメは悲鳴を飲み込み、ソレを凝視する。間違いなく先程のぬいぐるみだった。
「残念だがお前が選ばれた。
私に出会えた事は唯一の幸運だ」
「・・・・・・」
「感謝の言葉は無いのか、綿貫ハジメ」
低いオッサン声でしゃべるソレはダイニングテーブルの中央に座り、此方を視ていた。
(気のせいだ、鎮痛剤と抗生剤の飲み合わせが悪かったんだ。うん、これって薬の副作用。ネットで薬の副作用調べよう)
「綿貫ハジメ。お前、アホだろ。
処方薬で幻覚のような重大な副作用が発症する可能性があるなら、処方するときにお前は聞かされているはずだ。
お前は幻覚の副作用なんて聞いていないだろ?
仮に飲み合わせで幻覚を発症するような鎮痛剤や抗生剤があったとしても、たかが少し斬られた程度の怪我で処方されるはずないだろ。論理的に考えろ、アホが」
(なんで?なんでクマのぬいぐるみがオッサン声でしゃべっているんだ。有り得ないだろ、俺、今、夢見てるんだな)
冷や汗で脇の下が濡れているし、口もカラカラに渇いていた。
それでもハジメはソレから視線を外せない。そして、夢であることを必死に信じていた。
「綿貫ハジメ。夢に逃避先を求めず、目前の現実を見ろ。
私は存在している。私との会話はお前の思考に返答し、その上で会話が成立している」
「は?思考に返答って・・・俺の考えを読めるのか」
(ホントにリアルすぎる夢だろ、これ。俺、いつ寝たんだ?)
「私の言葉を信じないのはお前の自由だ。
だが現実は回避出来ないし、否定し続けたらすぐに死ぬ。
私からの祝福は3つ。言語翻訳、能力上昇極限、創造。
異界の召喚者に歪められたお前の人生に私からの祝福を」