不安要素
ギシッ。
一歩ずつ、ゆっくりと階段を上る。
その度に体重が掛かって軋む音が鳴り、静まり返った廊下で嫌に大きく響いた。
ギシッ。
振り返れば、また何かが其処にいるような気がして。
ギシッ。
何度も都合よく、誰かが助けてくれる訳じゃない。
今度は、本当に殺されるのではないか。
そう、次こそは……。
ギシッ―――
「っ!」
勢いよく身を翻すが、暗い廊下にも階段の下にも、人影は見当たらない。
それどころか、先ほど見たような得体の知れない物体もなく、其処に広がるのは見慣れた我が家だけだった。
雀の涙程度の安堵を励みにしながら、竦みかけた足を無理やり動かし早足で進んだ。
逃げ込むように部屋へ飛び込み、ドアを閉める。
扉に凭れながら強張った肩を落とすが、部屋の主は不思議なくらいまったくオレの存在に気付いていない。
熱心に何かを読み込んでいるようだが、手元だけを照らすライトだけではその表情は窺えず、何処か心地よい沈黙だけが広がっている。
何かに集中している時に人が発する、独特な雰囲気。
あの、程よい緊張感と鋭敏な集中力が作り出す空間は、存外嫌いではない。
その空気を壊すのは忍びなかったが、声を発し答えてもらうことで何処か安心したいという自分の欲求には、どうしても勝つことが出来なかった。
「……椹木、お茶持ってきたけど」
躊躇いがちに紡がれた言葉は、掠れすぎてどうにも情けない音になった。
しかし、かなり集中していて聞こえないのか、返答はなかった。
ただゆらゆらと紫煙が立ち昇るばかりで、猫背の背中はうんともすんとも言わない。
「茶だぞ、オッサン」
「んあ?」
ぞんざいな言葉遣いをすると、ようやく間抜けな声と共に振り返る。
が、椹木の身体にまとわりついている“それ”に、思わず目を見開いた。
それは、ついさっきリビングでオレの肩にへばりついていた、負のムゲンと呼ばれたものと酷似していた。
椹木の顔の半分を覆うほど巨大化したそれは、音こそ発さないが、人体に悪影響であろうことは嫌でも肌に伝わってきた。
存在を意識するだけで吐き気がするような、胸糞悪い感情の塊を直視しているような気分になる。
たとえるなら、自分の最も醜い部分がさらけ出され、それを直視しろと言われているような感覚だ。
あからさまに顔を歪めるオレに、椹木は怪訝そうな目を向けた。
「おい、どうした直親。生意気に気ぃ利かせたんなら、さっさとその茶よこせ。俺も暇じゃねえんだ」
「……」
あれは、どうやったら取れるんだろうか。……殴るとか?
哀歌の行動を思い出しつつ、ひとまず言われた通り茶を出しに行く。
けれど、近付くにつれてその嫌悪感は増していき、見慣れた無精髭の中年オヤジの顔を見ることすら出来なくなった。
乱暴にデスクへ湯呑を叩きつけるように置くと、分かりやすいほど嫌そうな顔をされた。
「おま、捜査資料が汚れたらどうしてくれんだ、クソガキが」
「捜査資料? ……あぁ、またなんか警察の資料持ち帰ってんの? いつも思うんだけどさ、それって規則的にセーフなわけ?」
「本当ならよくねえが、別にこの家にこれを持ち出して悪用しようなんて輩はいねえだろ」
「オレは? 自分で言うのもなんだけど、結構そういうの置いてあったらちゃっかり見るタイプなんだけど」
「直親が見る程度なら問題ねえよ。友達とかに情報拡散したりしねえからな」
「それは安心していいよ。そんなこと話すほど仲いい奴いないから」
バッサリと断言するオレに、寂しい中坊だなお前は、と同情するような目を向けられる。
だが、その表情の半分はどす黒いどろどろとした物体に覆われてしまってよく見えない。
いよいよ耐えられなくなったオレは、言い訳も考えずに大きく手を振り上げた。
「お? なんだ、いきな―――痛っ!?」
「あ」
力一杯に、よれよれの背広を着た丸い背中を叩く。
すると、椹木にまとわりついていた負のムゲンは一瞬で霧散した。
同時にずっと感じていた嫌悪感も消え去り、すべてがオレの知るものへと戻る。
その一方で、いきなり意味もなく殴られた椹木は、すこぶる不機嫌そうに眉間を皺だらけにしている。
叩かれた反動で落ちてしまった煙草の吸殻を回収しながら、ジロリと恨めしそうに視線を投げてきた。
「……おいこらクソガキ、いきなり何しやがる!?」
「オッサンさぁ、今まで何ともなかったの?」
「はあぁ? 何の話だ」
「だから。吐き気がしたり、悪寒が襲ってきたりとか。そういうのはなかったのかって聞いてんの」
「ねえよ! 強いて言うなら、今さっきお前にぶん殴られたせいで肩が痛えよ、この野郎!!」
人の心配をよそに、いたって元気そうに不満を叫ぶ椹木。
素直に安堵の表情を浮かべたつもりだったが、向こうからすれば嫌味に映ったのかひどく顔をしかめられた。
そして何を思ったのか、椹木は急にニヤリと口角を持ち上げ、実に薄気味悪い笑みを湛え始めた。
「そういやあ、『コレ』はどうしたんだ?」
そう言って、何故か小指をピンと立てて見せびらかされる。
意味が分からず首を傾げ怪訝な声を返すと、微かにつまらなそうに背凭れへ寄りかかった。
「だぁーかぁーらぁー、カノジョの志乃ちゃんはどうしたんだって聞いてんだよ」
「はぁ? 別に彼女とかそんなんじゃないし、あんな得体の知れない奴」
眉をひそめて、ふと疑問が湧いた。
オレの記憶が正しければ、志乃とは初対面のはず。
それなのに、どうしてオレを助けるなどという話になったのだろうか。
それ以前に、どうして彼女はオレのことを知っていたのだろう?
気になるのなら確かめればいいのだが、それが出来ないから困っているのだ。
リビングでのひと騒動があってから、一瞬目を離した隙に彼女は忽然と姿を消した。
それこそ、今までのことはすべて白昼夢だったと言われれば、そうなのかもしれないと片付けてしまいそうなほど呆気なく。
テーブルやシンクには確かに、彼女達がいた痕跡が残っているというのに。
何故か、それを手放しにすべて事実で、実際に起きたことだと言えないような何かがあった。
“胡蝶の夢”―――この言葉が、これほどまでにしっくりくることはないだろうと思うくらいに。
――“必ず……刀祢くんのこと、守ってみせますから”――
どうして、そんなことが言える?
オレが一体、あんたに何をしたっていうんだ?
どんなに自問自答しようと、彼女達がいた場所に問いを投げかけようと、答えは返ってこない。
目の前に広がっている静寂に、ただ言いようのない不安が視界を覆い尽くしていくような、漠然とした恐怖だけがオレが“ここにいること”を教えてくれた。
それすらも、“夢”でない確信すら持てずに。
「……お前に限って、そんな心配はいらんと思うが」
珍しく、真剣な声音を出す椹木に、ふと顔を上げる。
手元にある資料に目を落としながら、やけに渋い表情を浮かべた。
「黒いフードの人物と、そいつが配ってるっていう黒い果実には気を付けろ。……どうもありゃあ、“クスリ”に限りなく近いヤバイもんの臭いがする」
「へぇ。ま、オレには関係ないけど」
しれっと聞き流すように言うと、それもそうか、と椹木は何処か安堵したように目を細める。
少し前に消えたはずの煙草の残り香が、微かに鼻腔をくすぐり続けていた。