幻聴
ダンッ、と大きな裁断音が鳴る。
苛立ったその音をよそに、背後から聞こえてくる女の声は明るく楽しげだ。
それにますます機嫌を損ねたように、林檎を切り分ける際の音が物騒に大きくなった。
「なんかすみません。夕飯までごちそうになってしまって」
言葉の割には満足げな声音に、つい「思ってもないことを」と口走りそうになる。
それを辛うじて堪えながら、切り終えた林檎を乗せた皿を手にリビングへと向かった。
ソファに浅く腰かけながら姿勢よくお辞儀をする志乃とは対照的に、その隣でふてぶてしく背凭れに寄りかかる哀歌は実に不満げである。
偉そうに脚を組んだかと思えば、軽く鼻を鳴らしてやってきたオレを一瞥した。
「不味くはなかったけど、客人をもてなすにしては質素過ぎね。ケチ臭い男は嫌われるわよ」
見事に平らげられた皿を横目に、思わず額に青筋が浮かぶのが分かる。
まあまあとなだめる志乃は非常に気まずそうな顔をし、繰り返し小さく頭を下げた。
「あの、とても美味しかったですよ! さっきの料理、もしかして全部刀祢くんが作ったんですか?」
「……そうだけど」
「すごいですね! 私、不器用なのでお料理なんて全然出来なくって」
ご機嫌取り半分、本音。
それがよく分かるような、中途半端に繕った笑みを浮かべる志乃。
嬉しいような腹立たしいような、複雑な気分だった。
切り分けた林檎の乗った皿を置く代わりに、空いた皿を回収する。
目を丸くする二人に視線を落としながら、食器を洗いにキッチンへと舞い戻った。
しばらく妙な間が空いてから、志乃の困惑したような声が飛んできた。
「あ、あの、これは?」
「テキトーに食ってていいよ。どうせ質素でケチ臭いから、その程度のデザートしか用意出来ないけど」
「す、すみません……」
嫌味を込めて言うと、彼女は申し訳なさそうに声をすぼめた。
その一方で、林檎をかじるみずみずしい音が聞こえてくる。
あぁっ、と声を上げる志乃の視線をチラチラと感じながらも、手早く洗い物を片していった。
水道の蛇口から延々と流れ出る水が、食器の中に溜まり幾重もの波紋を作り出す。
それを眺めていると、ゆらりと歪んだ水面の影が自分を見ているような錯覚に襲われた。
家へ帰ってくる前に見た、路地からじっと見据えてくる赤い二つの瞳。
あれが、水溜まりの向こうからこちらを監視しているような気になって、思わず皿を持つ手が滑った。
――“キミのお母さんをあんな風にしたのは、紛れもないキミ自身だろう?”――
「……っ」
皿が割れる音と重なって、幻聴じみた中性的な声が頭の中に響く。
まるでノイズがかかったように掠れたそれは、正常な思考回路を壊すように反響する。
水道の水が流れ落ちる音が、さらにそのノイズ音を悪化させ重複するように膨れ上がっていく。
気持ち悪い。頭が割れるように痛い。
息が、詰まる―――。
吐き気と閉塞感によろめいた時、背中に強い衝撃が走った。
驚愕と痛みで姿勢を伸ばした途端、つい先ほどまで体の自由を奪っていた不調がすべて消え去っていた。
シンクに手を突き、唖然と立ち惚ける。
すると、背中を力一杯叩いた張本人が、やけに真剣な表情で水道に手を伸ばしたのが横目に映った。
「心を強く持って。でないと、“思い”に取り込まれてしまうから」
志乃は出しっぱなしだった水を止め、静かに瞳の奥を覗き込んできた。
その視線にドキリとしながら、小さく深呼吸をして微かに残った目眩を振り払った。
大きく上下する背中を、志乃は何を言うでもなくさすってくれる。
彼女の言葉の意味ははっきりと理解出来ないものの、少しでも気を抜けば再びあの幻聴が襲ってくるように思えてひどく足が震えた。
暫しの沈黙後、ひたすら林檎を消化していた哀歌が歩み寄ってくる足音が聞こえてきた。
「林檎は、なかなか美味しかったわ」
「哀歌ちゃん、ちょっとは空気を読んでください……」
「分かってるわよ」
そう言いながら、哀歌は何故かオレの膝を自分のそれで小突いてきた。
まさか膝カックンをされるなどとは思っておらず、ただでさえ頼りなかった足は呆気なく崩れ落ちた。
苛立ちに眉を吊り上げながら顔を上げれば、無表情で見下ろす哀歌と目が合い妙な肌寒さに視線が惑う。
オレを見る彼女の目が僅かに歪んだかと思うと、まるで異質なものでも見るような眼差しへと変わった。
「……アナタ、一体何なの?」
「は? 何って……」
「それだけの強力な“思い”――『ムゲン』に取り憑かれているのに、どうして自我を保てているのかって聞いているのよ」
「ムゲン?」
聞き慣れない単語に首を傾げる。
それにますます怪訝な色を増す哀歌と、何処か不安そうな顔をする志乃。
小さく息を吐き、志乃は困ったように目を細めた。
「まずは……刀祢くんが置かれている状況を、簡単に説明しなきゃいけないですね」
そう言って立ち上がると、当然のように手を差し伸べられる。
一瞬悩んだが、それを受け取らずに自力で立ち上がり、一人でリビングのソファへと向かった。
志乃は笑ってくれていたが、哀歌は当然ながらいい顔はしていなかった。
少し遅れて二人も向かいのソファに腰を下ろすと、お互い無言で視線を交わしており再び静けさが返ってくる。
この家は、元々瞳が家族三人で暮らしていたマイホームであった。
しかし、数年前に両親が離婚し、瞳は母親に引き取られ母の旧姓である「佐倉」を名乗るようになった。
今となっては、瞳がこの家の主でありオレの養父をしている椹木銀次郎と同じ姓であったことが懐かしい。
そして現在、椹木は自室で仕事をしているためリビングにはいない。
故に正面に鎮座する二人が黙ると嫌に静まり返ってしまい、今はどうしても落ち着かない気持ちになった。
静寂の中に、自分を殺さんとする“何か”が潜んでいる―――、そんな根拠のない恐怖が心の奥で喚き散らしていた。
「大丈夫ですよ、刀祢くんは絶対に死なせませんから」
不意に飛んできた言葉に、目をかっ開いて発言者を見る。
オレと目が合うと、志乃はややわざとらしくニコリと微笑んでみせた。
「な、なんで分かったんだよ……」
「え?」
「だから! ……なんで、オレが殺されるんじゃないかって思ってるって分かったんだよ」
気が動転しているせいだろうか。
自分でも今何が起きていて、何を言っているのかもよく分からない。
そんな中で、志乃と哀歌だけは平然とこの現状で立ち振る舞っている。
さも、これが当たり前だと言うように。
再び笑みを浮かべた志乃は、「これから、普通なら『頭がおかしい』と言われてもおかしくない話をしますね」と前置きをしてから話し始めた。