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今際の青  作者: 由科
第一章 灰舞う桜
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眠る、母




 ふわりと何かが額を撫でる。


 冷たい風が鼻腔に流れ込み、冬の香りが肺を静かに満たした。



 くすぐったさに小さく身じろぎ、ゆっくりと瞼を上げる。


 視界一杯に飛び込んできた白の眩しさに、思わず目を瞬かせた。




「……母さん」




 目の前で白いシーツに包まれたベッドに横たわる女性。


 小さく呼びかけるが、一切の反応を示さず眠り続けている。



 否、これはただ眠っているのではない。


 当時小学三年生だったオレが見舞いへ訪れた日から、もうかれこれ五年ほどその目は開けられることなく閉ざされ続けている。


 従来其処まで身体の強くなかった母だったが、別段大きな病を患っている訳でもなかった。


 それどころか、もうじき退院出来るかもしれないという話が持ち上がった矢先のことだった。


 突然死んだように眠り続け、とうとうこの五年の間で一度も目覚めることはなかった。



 原因不明の奇病、“眠り姫病”。


 その患者はここ数十年の間で急増しており、決して珍しい話でもない。


 しかし、母を知る誰もがこう思っていた。


 どうして彼女だったのだろう、と。


 その理由に心当たりがある息子のオレにも、そんな周囲の空気は伝わっていた。


 それでも周りの大人達は、誰一人として事情を訪ねようとはしなかった。



 唯一の肉親である母を失ったも同然だったオレを気遣ったからなのか、はたまた別の理由があったのか。


 何処となく、少なくとも前者ではないことを感じざるを得なかった。



 当たり前だ。だって、母さんは…―――。




刀祢(とね)さん、入りますよ」



 不意に病室の外から投げかけられた声に、肩が小さく飛び跳ねた。


 振り返ると、病室のドアを開ける白衣姿の男性と目が合った。


 やけにぐるぐるとうねった黒髪を無造作に垂らしている彼は、長い前髪から微かに窺える細い目をさらに細め笑みを浮かべた。



「やあ、直親くん。今日もお見舞いに来ていたんだね。関心、関心」



「一応……。白波(しらなみ)先生は今日も徹夜?」



 座ったまま見上げる視線に気付き、白波先生は弱ったように苦笑を浮かべた。


 頭を掻くように前髪をたくし上げると、その細い目の下に出来た大きなクマが露わになる。


 うわあ、と思わず苦々しい声を漏らすオレに肩を竦めてみせながら、疲れたような吐息を盛大に絞り出した。



「いやぁ、どうしてだろうねぇ。最近、やけに『眠り姫病』を発症する患者さんが多くって。連日泊り込みで対処に追われているから、そろそろお家のふかふかベッドで寝たいかなぁ」



 彼は大きく口を開けて欠伸をしながら、両手を天井に向かってうんと伸ばした。


 座っていた椅子を勧めるが、朗らかな笑顔でやんわりと断られる。


 中途半端に浮かせた腰を椅子に落としながら、ポリポリと頭を掻く白波先生の姿を見遣った。



 ざっと見、三十代くらいだろうか。


 ちゃんと整えれば世の女性達が放っておかないだろうというほどの美形であるのにもかかわらず、彼の浮ついた話は一度も耳にしたことがない。


 どうも身だしなみというのに興味がないらしく、白波は常にうねりのひどい天然パーマの髪を伸ばしっぱなしにしており、前髪が表情の大半を覆い隠してしまっている。


 だが、その優しい声音のおかげもあり、主に小児病棟の患者からの人気は絶大だという。


 かつてはオレも、彼の温かさに心を救われた経験があった。



 とはいえ、とても三十路だとは思えないほんわかとした口調には毎度、無駄に肩の力を抜かれる。


 そう思考を巡らせた後、横目に眠り続ける母の姿を一瞥した。



「どうしたら、眠り姫病患者は目覚めるんだろうねぇ」



 オレの心境を察したような言葉に、無意識に体が強張る。


 何故かそれを見て笑顔を浮かべた白波先生は、オレの肩を叩きながら横たわる母に視線を移した。



「そもそも、眠り姫病は謎が多いからね。現代の医学でも解明出来ないことが沢山ある。仮に何か原因や理由があるんだとしても、それがなかなか分からない。いやぁ、まったく厄介な病気だよ……って、医者が言うことではなかったかな」



「…………」



「とにかく。専門家でも分からないようなことなんだ。子供の君がそう気負う必要なんてないよ」



 そう微笑んで頭を撫でた白波先生は、応答を一切示さない母の検診を始めた。


 その白い背中をぼんやりと眺めながら、母が患う病について持ちうる記憶を手繰り寄せた。



 “眠り姫病”。


 数十年前に突如現れ始めた、謎の多い奇病。


 この病について分かっていることは、これを発症した患者は突如深い眠りに落ち、長い間目覚めなくなるということだけだ。


 人によっては、数ヶ月で目覚める者もいる。


 しかし、一方で五年十年と目覚めない者もおり、この先目覚めるのかどうかも危ういという患者は決して少なくなかった。



 では、その発症理由は何なのか。


 それすらも謎に包まれているのだ。


 昨日まで元気に外を走り回っていた子供が発症することもあれば、母のように入院していた大人が発症することもある。


 この眠り姫病において断言出来ることは、老若男女問わず皆が成りうる可能性を持ち、眠ったまま目を覚まさなくなる病気だということだけ。


 それ以外に現在解明されている情報は、あまりにも少なすぎた。



 それこそ、白波先生の言う通りなのである。


 仮にも、子供のオレに出来ることなどありはしない。




 ―――けど、そうじゃない。問題は“其処”じゃないんだ。




 無言で唇を噛み締めたが、扉の開閉音にふと顔を上げた。


 目の前にはまだ先生が母の診察を続けている。


 ならばと振り返ると、其処にはオレと同年代ほどの男女二人が立っていた。


 二人はオレの顔を見ると、互いの顔を見合わせて安堵を浮かべながら歩み寄ってきた。



「やっぱりここにいたんだ、直親」



秀樹(ひでき)。やっぱりってなんだよ」



「さっき、家に行ってみたけど誰も出なかったから。ここにいるんじゃないかなって」



 隣に立つ少女を一瞥した秀樹は、その視線をまっすぐ直親に向けてきた。


 彼の隣で何処かぎこちなくもじもじとしている彼女は、懸命に繕ったような言葉を紡いだ。



「その、最近特にナオの元気がないからって、ヒデと心配してたんだよ?」



「……」



「あ、あの、ナオ……?」



 じっと彼女を見据え続けていると、あからさますぎるほどの狼狽が返ってきた。


 小さく息を吐き出した後、静かに椅子から腰を上げた。



「なんだ、(ひとみ)もいたのかよ」



「ちょ、なんだって何!? わたしがどれだけ心配したと思って……っ!」



「お前は秀樹の側にくっついて、いつもみたいにヘラヘラしてればいいだろ」



 しれっと言い捨てると、瞳は頬を微かに染めて風船のように大きく膨らませた。


 その焼き餅さながらの様子を横目で一瞥しては、さらに眉間のしわが深くなるのを感じる。



 瞳の恨めしそうな視線を無視したまま、少し高い位置にある秀樹に視線を合わせた。


 彼はその視線を受け止め、静かに首を傾けた。



「おれの顔に、何かついてる?」



「……いや。別に」



 歯切れ悪く言い淀むと、秀樹は微かに目を細めた。



「隠したって分かるよ。幼馴染で、親友なんだから」



 秀樹の何処までもまっすぐな言葉に、カッと顔が赤く歪む。


 気付くとオレは、きょとんと目を丸める瞳の横を通り過ぎ、静止する声も聞かず病室を飛び出していた。





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