隠れ里の夏休み
曲がりくねった道に揺られて山に入っていく。視界が開けると、それは見えてくる。山々に囲まれた小さな集落、私の父の実家だ。私たちを乗せた車は山の傍にひっそりと佇むその家の前で止まった。祖父が植えたという木々と、祖母の趣味である園芸の花が青々と葉を広げている。玄関をくぐれば、先に来ていた妹たちといとこ達の姿が目に入る。この光景を見ると、私は毎年“夏休み”を感じるのだった。
夏でエアコンもない家だけれど、扇風機があれば涼しく過ごせてしまう。山の陰にあるからなのか、風通しがいいからなのか、理由は私にもわからない。が、自然の涼しさで心地よいものだ。辺りに家は数えるほどしかなく、お隣さんとの距離もいくらか離れている。馬鹿騒ぎして叫んでも、周りからとがめられることはない。解放された自由な空間だ――と言いたいところだが、実際はそうでもなかったりする。暴れて祖母が大切に育てている花に傷を付けた日には、真っ直ぐ叱り声が飛んでくるのだ。
それでも、私たちはこの空間が好きだった。携帯ゲームの通信を楽しんだり、据え置きのゲームを引っ張り出して盛り上がったり。ボールテントに小さな従妹達を押し込めたりと、遊びにはこと欠かない。しまい込まれた漫画や古ぼけた本を引っ張ってきて読むのも一つの楽しみだ。
暑い昼間には冷凍庫からアイスを出してきてみんなで食べる。他の人が別の味を食べていれば羨み、自分の口の中の冷たさを楽しむ。爽やかだったり甘かったり、酸っぱかったり。そのおいしさは儚くて、時間をおいてまた食べてしまう。夏だからこそ、そういう贅沢もできるのだ。
そんな風にだらだらと過ごす数日間だけれど、毎年誰もが楽しみにしている小さな催しが、夏にはあるのだ。
半分に割った竹の節を取り去り、やすりで削る。半分の筒となったそれを椅子などにくくりつけ、緩やかな傾斜を付ける。ホースから水を流して速度を調整すれば、設置は完了だ。後は日よけのテントを立て、机と椅子を準備する。食材と食器がそろえば準備万端だ。
それぞれが竹の横に立ち、黒っぽいつゆの入ったお椀を手に待ち構える。人工的なせせらぎに、白い束が下った。揺らぐそれを箸ですくい上げ、つゆの中に落とし込む。ずずっと音を立てて口に入れれば、幸せな涼しさが喉を通っていく。
流しそうめん。我が家の夏の風物詩だ。私と妹二人、いとこ五人の合計八人で裏山近くのスペースを占拠し、飽きるまでそうめんを流し続ける。流す役は大人達であったが、いつの間にか大きくなった妹たちの役割になっていた。適度な間隔で流していき、思い思いに食べる。上流の人が食べてばかりだと不満を漏らしたり、皆が食べてるときに流して下流にあるざるまで到達してしまったりと、とにかく騒がしい。削り切れていない節に麺が引っかかるのもまたご愛嬌。そうめんに飽きた頃にはサクランボや巨峰、ミカンやナタデココなんかが竹の川を流れていく。やっぱりすぐに引っかかってしまうそれを、そうめんの束で押し流し、つかめないとぼやく。一つずつ皆が年を重ねても、それはだいたいいつものことだった。
片付けが終わったら、妹と従妹とでモップを持ち出し、露天風呂の掃除だ。土木業に携わっていた祖父がかつて作ったそれは、普段は家の裏手でひっそりと佇んでいる。岩の隙間は苔むし、湯船の底には落ち葉が溜まっている。それを水で洗い流し、モップで土を追い出すのだ。こすってもこすっても土は出てくるし、山から葉っぱが落ちてくる。それでもある程度綺麗になったところで切り上げ、お湯を溜める。服を脱いで体を軽く流し、露天風呂に入った。
露天風呂から見えるのは、家と裏手の山、そして山から覆い被さってくる木々だけ。決して絶景とは呼ばないだろう。アブや蜂が飛んでくることもあるし、残っている苔の臭いが鼻に来る。使っているお湯だって普段と何一つ変わらない。夕暮れの暗さと外気のかおり。違いなんてたったそれだけ。けれど、“露天風呂”というだけでただの風呂より断然贅沢だと感じてしまうのだから不思議だ。余韻に浸る間に冷めていくお湯に名残惜しさを覚えつつ、私は風呂から上がった。
やがて来るその夜に備え、家の中では準備が始まる。なすに割り箸とトウモロコシのひげを差し込み、牛に見立てる。おにぎりなんかを頬の葉で包んで、麻紐でくくりつける。虫除けをして懐中電灯と作った牛とたいまつを持ったら、出発だ。
辺りはすっかり暗くなり、星も出ている夜更け。私たちははしゃぎながら夜の道を歩いていく。沢にかかる橋まで来たところで足を止めた。
松の木を組んで灯を付ける。たいまつの火は煌々と私たちの顔を照らした。風に揺らぎ燃えさかり、炎は枝を喰らっていく。細くなった部分が折れ、組んだ枝が崩れる。そうしたところで、作った牛と弁当とを川に放り投げるのだ。落ちていったそれは帰ってきた魂の乗り物となり弁当となってくれただろうか。それとも、繁茂する草に引っかかってしまっただろうか。暗闇の中を懐中電灯で照らしても、川の様子は見えない。
送り火はじりじりとその命を縮めていく。なおも明るい炎を見つめながら、私は終わりを思う。今年の夏も、これで一つの終わりを迎える。夏休みはまだ続くけれど、大きな一大イベントは、この家で過ごす騒がしい時間は刻々と終焉に近づいていく。この炎が燃え尽きたら、後は眠って普段の家に帰ってしまうのだ。
たいまつはただの灰になっていた。明るかった炎も消え、辺りには元通りの暗闇が訪れる。帰り道は振り返らない。霊がついてこないようにするためでもあるけれど、後ろを見なくても、今年の思い出はすでに心に刻まれているから。
嘘泣ぴえろさんからのリクエストで、「夏休み」でした。
つらつらと書いたせいで結局何が書きたかったのやらわかりません。
が、ちょっとでも夏っぽさを感じてくれたら嬉しいです。