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深雪が降った夜

 それでは、この男の経験した、もうひとつの「あたたか~い極寒」を見ていこう。

 当時、男は二十代の前半だった。一人暮らしを満喫しつつ、仕事もそれなりに順調だった。日々に白いカバーロール――つなぎの作業着――に痩せた身を包んで、つま先に鉄板の入った黒い安全靴をはいて、航空関係の整備という仕事に従事していたのだそうな。毎日が肉体労働であり頭脳労働であったそうな。面白おかしい先輩や個性的な上司に囲まれて楽しく働いていたんだそうだが、なにか物足りなさを感じていたこともまた確かだったのである。

 おうおうにして、そうした職場にあっては女子が希少である。まあそうした他愛のない理由がこの男の抱えていた物足りなさだった。して、そうした小さな虚無感を埋め合わせるために男はスナックに通うようになったのだ。

 わが城の主人として――一人暮らし――の視線で見てみれば、天守閣の居心地だって決して悪かったわけではない。しかし、本能には逆らえない。まあ、そういったことだったのだろう。

 ともあれ、夜な夜な店に通うということは、この男にとってはマイナスであったわけではなかったのだ。

「今日こそはユキちゃんに逢うぞー! おっしゃ、効率よく仕事を終わらせて飲みいくべさー!」

 てな具合に、作業の励みになっていたこともまた事実だったのである。しかし、仕事はハードだった。できるかぎり頑張って天守に帰ると、とたんに眠けに襲われて――

「ちょっと寝る。起きたら店いく……」

 などといって起きると、深夜……などということもあったのだそうな。かとおもうと――

「今日は塗装かー。シンナー臭い体で店いきたくないんだよねぇ」

 とボヤキながら仕事を終わらせると、部屋にもよらずに店に直行するなどという日もあったのだ。


 そんなある夜、男はあさちゃんに出逢ったのである。あさちゃんは、男より六つ七つ年上であった。細い茶色がかった髪は軽くウェーブを描いて背中まで流れていた。眉にかかる前髪はストレートで美しい曲線を描いて額に垂れかかっていた。そのしたにある瞳はブラウン。日本人であるからこれは普通のことである。ぱっちりとした目は優しさとともに、生きていることにたいする楽しさがいつも宿っていた。笑うと目がなくなる。そういった印象を強くあたえたのである。背丈は男より少し低く、どちらかというと、ぽっちゃり系の美人といえるだろう。

「でもね、あの夜どんな服を着ていたかとか、ぜんぜん覚えてないんだなぁ。瞼に浮かぶのは、白地に小さな花がプリントされたワンピースなんだよね」

 それは、男があさちゃんと一緒にうつった写真にある服装である。まあ記憶とはえてしてそんなものである。

「あの晩も凄い雪だったんだよ。店にいるときは全然気づかなかったのね。ほら、雪ってさ、降ってるときはやたらと静かじゃん」

 で、ラストまで飲んで終電を逃したわけですね。

「それもあるんだけどね、店から家まではさ、歩いて二駅だったのよ。だから、あの当時は終電とか考えて呑んでなかったんだなぁ」

 そして、あさちゃんの住む場所は店と男の家の中間にあったのだそうな。中間地点。どっちつかずの距離。こうしたものは、人の恋愛感情を揺さぶるものだ。例に漏れず男も恋心を夜毎にぐらつかせたのだそうな。

「うわーすごい雪! あさちゃんどうします? タクシー拾うならそこまで送りますよ」

「どうしよう。でもここまで積もっちゃうとタクシー乗り場にいってつかまえるだけでも大変そうだね」

 典型的な呑み屋のお姉さんと、その女に惚れている客の会話である。にしても同意を求める女性の心理とはいかがなものであろうか。某とて、「だね」とか言われたら……である。

「どうしますぅ? まあ僕はどっちみち歩いて帰りますけどねー」

「じゃああたしも歩こうかなぁ。一駅だしね」

 そういう展開でしたか。意外といえば意外ですね。女心が滲み出ていますね。このあさちゃんという方は。理屈は間違ってないんです。大雪という状況で、タクシー乗り場までいって帰るのと、歩いてしまうのとはさして時間的な差はなかったと言えるのだから。

「でも、この積もりかたですし、それ以前に寒いですよ、これは」

「だいじょうぶ。誰かと歩いてればそんなに寒くないと思うし」

 そうですか、そうですか。そうきましたか。それはあれですか? あさちゃんは暗に男のことは「嫌いじゃないよ」と言ったということですね。

「じゃ、歩きますか。というより、歩きながら途中でタクシー拾ってもいいですしね」

「うん、そうね」

 嫉妬深いお雪さんは、そんな二人にを見て、情け容赦なく体当たりやら、膝蹴りを加えて翻弄したのだそうです。

 ――これは口で言うほど楽じゃなかったなぁ……。

 それでも男と女は幹線道路の歩道に積もった新雪を鳴らしながら足を進めていた。

「タクシーぜんぜん走ってないね……」

「うん、拾う前に着いちゃいそうだね」

 道路を行く車はまばらで、忘れたころにチェーンが雪とアスファルトを踏みしめる音をさせていた。二人の吐く息は白く、手は真赤になっていた。足元はずぶ濡れになり、タクシーを掴まえても乗車拒否されそうな有様だった。

 男はなぜそうなったのかもすでに覚えていないのだそうだが、いつしか二人は寒さをしのぐために一つの傘にはいって、体を寄せ合っていたのだそうな。しかしそれでもお雪さんの嫉妬と羨望で血走った眼は見逃さかったのだ。

(こうなったら、肩にのしかかってやるわ……)

 そうして、一つの傘にはいった二人は互いに違うほうの肩を濡らしながら深い雪道をせっせっと、とは言えないまでも、歩き続けていたんだそうな。

 そのとき、男は温かい光景を見たのである。

「リンガーハットがありますね」

「うん、あそこね、よく息子と行くんだよ」

 ちょっと待って!? あさちゃんはそういう人なの? 某ちょっとびっくりしましたよ……。

「へぇー、ユウくんと行くんだぁ。なんかいいですねー」

 ――無視すんなよ……。まあよい。

 ともかくも、少しずつ少しづつ近づいてくる赤くとんがった塔とそこにある看板が、男の目にはやけに温かくて明るく見えていたのだ。深夜だというのに、真昼の光景で思い出せるのだそうな。真白の世界。暗い星空にぽっかりと浮かんだ赤い塔と黄色い看板を。

「ねえねえ寒くない? まだ一駅歩くんでしょ。少し温まっていったら」

「え、でも時間とか平気なんですか?」

 男の記憶は風化し、本当のところ、どちらがどう誘ったかは覚えていないのだそうな。だが、互いにあり余る寒さをどうにかしたかったことだけは事実だったようである。

 何を注文してなにを食べ、何を話したかもすでに塵とかしてしまったが、とにかくあの赤い塔と、すぐそこにあった、あさちゃんの弾んだ声と笑顔だけは忘れられないのだそうな。

「もう二十年近くたつけどね、あれほど寒い思いと、あれほど、あたたか~い心が一体になったことってないんだよねー」

 で、そのあさちゃんとはどうなったのでしょうか?

「それなりの期間それなりに良い関係だったよ。けどねー決定的に無理だ……と思うことがあってさぁ。そのときのことも忘れてないけどね」

 男から聞いた話はこうである。

 初夏のある日、男とあさちゃんは公園デートをしたのだそうな。ですが、その日は二人だけではなく、あさちゃんのお子様であるユウくんがいたのだそうな。

「珍しいなぁ。ユウね、人見知りがすごく激しいの。でも懐いたね」

「え!? そうなの」

 公園にあった軽食喫茶で会計をしようとしていた男は、レジの近くにあるお菓子を物色しているユウくんに目を向けた。

「ユウだめよ。今日は買わないからね」

 男は母子がしばらくお菓子をめぐって争っているのを見ながら言った。

「なんか一個買ってあげますよ。ユウくん、どれ欲しいのかなぁ?」

「だってよー、ユウ。良かったねー。どれ欲しいの?」

 お目当てのお菓子を小さな掌にのせて伸ばしているのが見えた。

「ほんと珍しいんだよ。この子初対面の人にはほとんど懐かないから……凄いね」

「…………」

 男が別れを決めたのはこのことがあったからだそうな。気弱といえば気弱な理由なのだ。でも、わからないでもない気もする。

「だってさぁ、当時はまだ若かったしねー。俺……こんな可愛い子の親になれる自信も責任感もないや。なら傷口が大きくならないうちに……」

 とまあそうした理由だったのだそうな。

 けれども、そのあともそれなりにあさちゃんとは友達の関係はつづけたのだそうな。

「なにしろね。歳の差もあったし、別居はしていたんだけど、旦那さんと離婚していたわけでもなかったからねぇ……。もしも俺がそのことを言いだすとしたら、それなりの責任感、つまり、ユウくんも含めて絶対に幸せにするという責任感がないとだと思ったしねぇ」

 切ないですな。大人な判断といえば大人な判断ですが、色恋というものは勢いでもありますからね。

「そうなの。でも後悔してないよ。俺も惚れっぽかったけど、あさちゃんもそうだったしね。だからどっちかがしっかりしてないでいたら、いつかは暴走したと思うしね。まあ当時は子供だったのさ。でも、あたたか~いことに変わりはないってとこだね」

 もしも、このあと男と女が泥沼になるようなことがあったなら、赤い屋根も長崎ちゃんぽんも、見たくもないものになっていたのだろう。人の心は機微である。

 そして、過ぎ去った恋とは儚くも美しいものである。


          ~完~

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