空の下、地面のその上で
『来世は、あなたの為に――』
『……もっと大切に、したい』
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これは、むかしむかしのこと。
地上に、天使も悪魔も、妖精も妖怪もいた頃でございます。
ある日、ひとりの天女が獣人の
若者の元に降り立ちました。
若者の足は人間の流れ矢が当たりたくさんの血が流れていたのです。
哀れに思った天女はおもむろに自分の着物を裂くとその切れ端を若者の足に巻き付け、布の上からふっと息を吹き掛けました。
すると不思議なことに矢傷は癒え、現れたのは射られる前と何ら変わらない綺麗な肌。
助けられたことなどない獣人は、この時から天女を忘れられなくなってしまいました。
帰ろうと羽衣をまとった天女の腕に獣人は手をのばしますが、その手は空を切るだけ。
実は天女は羽衣をまとうと風や光のように実体がなくなってしまうのです。
天女はふわりと滑るように進むと
とある泉の前で羽衣を脱ぎました。
治療の為に付いた血を洗い流さないことには仲間の所に帰ることが出来ません。
しかし羽衣を脱ぎ水浴びをしていると、後を付けていた獣人が羽衣を盗もうとしているのを目にしました。
天女は問いかけました。
「なぜ羽衣を盗もうとするのですか」
獣人は答えました。
「あなたが私の前から居なくならない為に」
更に天女は問いかけます。
「なぜ居なくならないでほしいのですか」
「傍に居て欲しいのです」
天女は彼のその願いを聞き、受け入れることにしました。
決して、天女が物好きなわけではありません。
天女にとって、それは呼吸をするにも等しいほど当然の選択でした。
天女、天使と呼ばれる種族の性質は「絶対的な、他者への奉仕」
悲しみ、苦しみ、切なる願いを受け取ること、そしてそれを出来るだけ救うこと。
彼女らが天から与えられたものはそれだけです。
拒否するなんて選択肢は無いし、そもそも思い付きもしません。
彼女はそれからずっと、彼の望み通り獣人の傍に漂っていました。
逆に獣人という種族は、種類にもよりますが
基本的に本能に主軸を置いていました。
誰よりも食べるため誰よりも生きるための彼らの思考回路は、自分が全ての中心です。
誰かの感情を大事にしたり自分の行動が誰かの迷惑になると感じたりしたことなど、1度もありませんでした。
だからこそ、彼はこの一言を発してしまったのです。
「羽衣をどうか、捨てて欲しい」
獣人は不安でした。天女が逃げようと思ったら、自分に捕まえる方法は有りません。
しかし羽衣さえなければ逃げることが出来ないと獣人は知っていました。
そして天女は願いを聞き、羽衣を投げ入れたのは獣人が用意した焚き火の中。
燃え盛るそれに獣人はほの暗い喜びを感じます。
しかし天女という存在は、非常に儚く。
そもそも天女の足は長く歩けるようには出来ておらず、更に人と同じように実体を持った彼女は何かを口にする必要が有ります。
彼女はご飯の調達方法、物の噛み方、飲み込み方さえも知りません。
どんどんと弱っていくのは当然のことでした。
獣人は、倒れ伏した彼女が弱っていく様子をただ見ていました。
何度も置いていこうとしましたがその度に足に力が入らず、その場に留まってしまうのです。
本能は、置いていくべきだと告げています。しかし体がそれを裏切るのです。
次から次へと目から滴り落ちる水の訳も分かりません。
何もせず、彼女の傍らに居る日々が続きました。
一方、天女は自分の体が薄く軽く、羽衣を纏っていた時に段々と近付いているのを感じていました。
ただ顔だけが動かせなくて、目の前の彼を見ていることしか出来ません。
彼からはとにかく強い悲しみを感じ、天女は彼を救おうとしました。……が、ここに来て彼女は悟るのです。
自分はもう、何も出来ない。
体に残っている力だけのことではありません。
天女にとって彼は救いたくても救えない存在だと気付いてしまったのです。
彼が彼女に願ったことは2つ。
「傍に居て欲しい」
「羽衣を捨てて欲しい」
2つとも悲しくて苦しくて切実な願いで、それを正しく聞き叶えたつもりでした。
それでも、彼が全く救われていないことに彼女は気付いていたのです。
むしろ願いを叶える度に深く重く息苦しいほどの思いが彼の中で増幅しているのを感じていました。
今この瞬間も強くなっている思いが膨らめば膨らむほど、救いたい気持ちが大きくなります。
しかし叶えれば叶えるほど彼を救うことは出来ないのです。
救いたい、救えない。
どうすれば―――…
その葛藤の中で彼女は思いました。
“彼をもっと知っていたら、何か出来たかもしれないのに”
機械的な反応しか持たなかった彼女から生まれた異質な感情は、過ごしてきた時間の中で見た彼の記憶と共に別の感情を呼びます。
――――思えばこんなに簡単なことを願ってきたのは、この人が初めてだった。
飢饉を救ってくれ、戦争中の息子を守ってくれなど、たくさんの願いを叶えてきた。
願いを叶えて救うことだけが、存在意義だった。
でも彼は、ほとんど何もしない私に価値を見出だしたのだ。
その思考に至ったとき
熱を感じたことなどない体の奥がほのかに温かくなった。
何も分からないのに、流れたことのないものが頬を伝ってくる。
彼をもっと知りたかった。
「来、世は」
聞こえていないかもしれない。
それでも伝えたい気持ちが声になる。
「あなたの、…めに、生き、た…い…」
それが、他者を区別したことのない彼女が
初めて持った自分の意思だった。
徐々に色んな機能が閉じていく。
それでも恐怖は無かった。
獣人の彼は、傍らの存在がこと切れたのを感じていました。
消えて欲しくなくてしたことが、結果的に彼女をより早く彼の元から遠ざけてしまったのです。
彼は体中が痛くて堪らなくて泣き続けました。
どことは分かりません。でも体のどこかにはっきりと大きな傷がついたことは分かりました。
彼女の傍に座り続け死んでしまったのかと言うほど微動だにしなかった彼が動いたのは、背後で物音がしたときです。
次いで聞こえるのは、獣のうめき声。
いつになく重い体で振り返れば一匹の獣が天女を食い入るように見つめていました。
その瞳の中に飢えを感じて、彼はその獣と相対します。
――――今すぐ逃げろ。
心の声が聞こえます。
幸いにも獣が狙っているのは背後の天女のみ。
今すぐここから立ち去れば危害を加えられることは無いでしょう。
弱った体に深手を負うと致命的です。
しかし獣人は動きませんでした。
喉から溢れるのは獣と同じうめき声。
獣人はこれまでに感じたことのないような怒りを獣に感じたのです。
――これを食べようというのか。
その牙で傷付け、八つ裂き、無惨に食い散らかそうというのか。
どうしようもない怒りが全身を支配して吠えます。
背後の存在は、自分の番でも、子供でもないのに。
更に言うなら守る意味もなく、既に死んでいる身です。
獣人の行動は、常なら考えられないことでした。
獣人は襲いかかってきた獣に己の左手を差し出し、食いちぎろうと激しく頭を振る獣の横顔を持ち前の剛力で何度も殴りました。
幾度も殴り、耐えきれず獣が口を開けた所で柔らかな腹を蹴りあげます。
それは獣が呼吸を止めるまで続きました。
骸と化した獣の前で
獣人は自分の力に感謝しました。
しかし、辺りに漂う獣と己の血の臭いに
釣られてまた他の獣が来るのは時間の問題です。
そこで獣人がしたことは、天女の体を深く深く土の中に埋めることでした。
獣人が穴を掘るのに使ったのは自分の太く鋭い爪のみ。
焦る心と裏腹に力は出ず時間はかかりましたが、無事に天女を寝かせられる場所が出来上がりました。
そこに優しく天女を寝かせ、彼女に土を掛けていきます。
はやく、はやくという思いしかありませんでした。
全身の痛みも、筋肉の軋みも、手足の震え、激しい頭痛、視界不良……
関節という関節から妙な音が鳴り、口から血の呻きを出しても体を動かし続けました。
そうして天女を土深くに隠すと、神経の糸が切れ獣人はその上に身を横たえます。
見える空は、自分の視界が悪いのか、今日があいにくの曇りなのか分かりませんが酷く色褪せて見えました。
木の緑も灰色に、花でさえも萎れて見えます。
……いえ、空の色など、いつ気にしたというのでしょう。
彼にとっての空とは天気が読めればそれで良いものでした。
木の瑞々しさも、花の色彩も、彼は気にしたことなどありません。
それでも空を見たのは、木の緑を、花の鮮やかさを見たのは―――……
そこにいつも彼女がいたからです。
あれほど鮮やかに思えた空に味気なさを感じ土に頬を寄せると、己の血が染み込んでいくのが見えました。
獣人は思います。
もし、この血が流れ流れて、彼女に届くのならば
私の命が溶け込んで、彼女が生き返るのならば
そう想像して、彼は口角を上げました。
もしそうならば、自分の命が終わりを迎えても良いような気がしたのです。
ですがいくらそう思ったところで
彼女はもういません。
羽衣を燃やしたときのほの暗い喜び。
弱っていく彼女。
思考を掠めるのは、
彼女の最後の言葉でした。
もし次が、あったのなら。
「もっと、たい、せつに、したい……っ」
その声が、空に届いたのかもしれません。
目を開いたまま乾いていく彼の代わりに
いつまでも、いつまでも
空が涙を流していました――――……
終