桜月夜に君に逢う
夜風が心地良い日だった。目の前で漆黒の髪がさらりと揺れた。顔にかかってしまった美しい黒髪を白く細い指で払うその姿は、この暗闇の中では幻想的に浮いて見えた。そして、どこか恐ろしさも感じられた。
彼女――柊は、美しくて儚げでふわりとどこかへ消えてしまいそうな、そんな女だった。
その夜も風と共に舞う桜の花びらのようにどこかへ消えて行きそうだった。
「このまま何処かへいきたいわ」
柊の優しい声が暗闇の中、妙に浮いて聞こえる。耳に刻みやすいようにしているかのようだった。
「どこへ?」
「どこかへ」
柊がそう願うのなら僕はなんだってしてやりたくなった。
今すぐにでもその細くて白い腕を掴み、徐に攫ってしまいたい。
そんなことを考えていると何時の間にか彼女の細くて白い手首を掴んでいた。
「そんなことしなくても、逃げないわ」
柊は力なく微笑んだ。
その表情からは生気がなく、ただ、口元を緩めているだけだったがそれでも美しかった。僕は息をのむ。もちろん柊のあまりの美しさに。
「僕を置いていかないで」
気づけばそんな掠れた声が響いた。この静かすぎる、真っ白な部屋には煩いくらいの掠れ声が。
一瞬、誰の声かわからなかった。
――僕なのか?
僕も柊も驚いたように瞳を丸くした。
そんな二人の前に、静寂が待ってましたと言わんばかりに戻ってきた。べつに待ってなんかいなかったが、不思議と悪い気はしなかった。
静寂が存分に居心地良くしている。
「ふふ」
柊の控えめな笑い声がこぼれた。
僕は自分の情けなさとか、泣き出したい衝動とか、夜中に佇んでいた柊の姿とか、手をつないで歩いた光景とか、様々な感情と押し寄せてくる思い出にどうにかなりそうだったのに、柊のはにかんだ表情を見ると吹き飛んでいった。
「私が貴方を置いて何処かへいくなんてありえないわ」
うそつきだ。
彼女はとても残酷な嘘をつく。
それでも、僕は掴んでいた手に力が入りすぎないように気を遣いながら指先の方へ移し、彼女の細く白い指に絡めた。
◇ ◇ ◇
この独特な空間が嫌いだった。
しみったれた、澱んだ空気が嫌いだった。
嘘しかつかない彼女も、それを援護するかのような大人たちの態度も、何もかもが嫌いだった。
――なにより。
なにより嫌いなのは、何もできない僕だ。
僕は喉仏が上下にひくひくと痙攣を起こしているのにもお構いなしに息を大きく吸い込んだ。案の定、空気は震えて深呼吸さえうまくできなかった。
それでも僕は笑った。
柊も微笑んだ。
柊の肩越しにある窓の向こうから夜風に舞った桜の花弁が入り込んできた。
…僕たちは手に手を取り合い、支え合って生きてきたのだろうか。
寄りかかった僕を柊が支えていただけなんじゃないか?
できることなら泣き叫んで、縋り付きたい。
僕をおいて天国なんか逝くなよ、と。
どうしても逝ってしまうのなら、いっそ僕の前になんか現れてほしくない。
そんな馬鹿げたことまで考えてしまう。
それでもやっぱり、僕は柊に逢う。
…今日は、夜風に舞った桜の花弁が柊にとても似合っていた。