トワの大いなる学習帳:「メガネ」
どうやら本を読んでいる最中にうたた寝してしまったらしい。俺はロダンが制作したブロンズ像のような姿勢を解き、立ち上がって白い部屋を眺めた。夢の部屋自体はいつもと変わらない無味無臭な有様だったが、肝心の部屋の主が見当たらない。こういうことは今までもあった。トワという少女は放蕩な人柄であったため、何をするのか、何をしているのか全く予想がつかないところがある(浮遊するだの瞬間移動をするだのということを抜きにしてもである)。恐らく俺には思いもよらないことをしているのだろうな、と俺は片手の文庫本をスキニージーンズの尻ポケットに詰め、部屋の中央で座して待つことにした。
「おはよう」
振り返ると少女がこちらを見下ろしていた。唐突に質問責めに合うのは友人としてどうも味気ないので、先日俺は少女に出会い頭に挨拶を交わすことを提案した。その結果、夢の中での挨拶ということで皮肉もこめて「おはよう」が暫定したのだが、こうして改めて実践するとなんだかバイトの入りの挨拶みたいで気持ちが休まらないな。
「おはよう。どこ行ってたの?」
「?」
少女が「何を言ってるんだ、コイツは」とでも言いたそうにポカンとした表情で俺の顔を見る。はぐらかしているのかもしれないし、記憶に無いのかもしれない。あるいは何処にも行っていないのかもしれない。少女が少女自身のことを何も分からないのと同様に、俺にもこの少女を形作る組成や原則のことを何も分からないのだ。
「これ、何?」
少女がしゃがみ込み、座っている俺と目線の高さを揃えると、俺の眼球に向けて一直線に指を突き出してきた。反射的に瞑ったまぶたをそっと開くと、指は眼球の手前の透明な板に阻まれてピタリと止まっていた。
「あぁ、メガネのことか」
そういえば本を読んでいたのだった。俺は本を読む時だけメガネをかけるので、よく友人にからかわれている(その友人からの去年の誕生日プレゼントは老眼鏡のカタログだった)。
「メガネ、何?」
「メガネっていうのは、ものを良く見るための道具だよ」
少女は目を丸くした。
「それをつけると、より物事を理解出来る?」
微妙にニュアンスのズレを感じたが、俺は便宜的に頷いた。“便宜的頷き”以上にこの世界で役に立つスキルは無い。もし新たにこの部屋を訪れる有望な若者が俺の前に現れたら、俺は真っ先にこの技術を相伝するだろう。
トワは納得したようにふんふんと首を小さく縦に振っていた。
「ディンもジギもつけていた。私は疑問に思っていた。ふぁっしょんというものかと仮定した」
「まぁファッションでつけてる奴もいるけどな」
「ジギなどは、黒いメガネ、つけていた。見難いのではと思ったが、見易くしていたか」
「それファッションだな完全に」
「女もメガネ、つける?」
そういえばトワは自分以外の女性と出会ったことが無いのだった。男が悉くメガネをかけているのを目撃したため、性差があるのか言及したいようだった。
「あぁ、かけるぞ」と俺は目を閉じ、メガネをかけた女子を脳裏に思い浮かべて大仰に何度も頷いた。「どんどんかけるべきだ」
少女が貸してくれと言わんばかりに俺の前に小さい手を器にして差し出した。この夢の世界では、俺が起床し現実へ帰る際に身につけていないものは部屋内に自動で保管される仕組みになっている。さすがにメガネをこの世界に残していくわけにはいかなかったので、俺は「返せよ」と念を押して少女の掌にメガネを乗せた。少女がぎこちなくツルを開き、俺のジェスチャーを真似て耳にかける。
「うっうぉぉ・・・っ」
目を開けた途端少女が左右に揺れ出す。手は前に伸ばし、何かを掴もうともがいていた。何だかユニークな祭事の祈祷みたいだな、と俺は笑った。
「ぐっうっ」
俺は伸びてくる手をひらりひらりとかわしながら、一頻り少女の蹌踉とした足取りを堪能した後でメガネを外してやる。
「目が・・・うぅ・・・」
トワは強く目を瞑りゴシゴシとこすった後で、今度は顔が縦に伸びそうな程大きくパチパチと瞬きを繰り返しながら言った。
「また謀った。アキラ、また謀ったな・・・」
「ハハハッ、なんだその顔」
今日学んだこと
メガネ・・・事象の本質を捉えることを手助けする装置。
・真理を探究する際に有効。
・人により適正が違うとのこと。誤ったメガネは視覚破壊兵器となるため危険。
・防具では無いが、上記の通り武器にはなる。