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笑っていたい。心をときめかせていたい。誰がそれを妨げる事が出来るだろう?
話は突然すぎるが、私は神奈川に住んでいた事がある。小田急線沿いの、百合ケ丘という土地だ。幼稚園から小学三年生くらいまでの間なので、もうかれこれ二十年以上前になる。そういえば、雪だるまを作ったエピソードを冒頭に話したが、それがこの百合ケ丘での出来事だった。ともかく、私にとって、この土地は思い出深い場所なのだ。思い出すと、優しい記憶がまるで花畑の芳香のごとくに私を包み込む。私は折角東京に来たのだから、どうせならそこに行ってみたいと思った。突然過ぎるだろうか?しかし私はADHDなのだ。この衝動性こそが私の特性なのだから、致し方あるまい。私はそういうわけで、今買ったばかりのモノレールの切符をスーツのポケットに突っ込み急遽百合ケ丘に行く事に決めた。懐かしい思い出に、胸がときめいた。こんなにも生きている実感を手にするのはどれくらいぶりだろう。
新宿に行き、小田急線の各駅停車に乗った。各駅停車は、空いているので、座る事ができた。私は、手帳を取り出して、先ほどの続きをしたため始めた。今度はやりたくないことではなく、やりたいことを列挙してみた。
やりたいこと
・ 自分の幼少期を辿る(今やっている)。
・ 沖縄に移住する(これもこれからやる予定)。
・ 本を読む(小説、哲学など)
・ 好みの女とセックスをする。
・ 美味いものを食べる。
・ ジャズピアノ、ジャズギターを弾く(今の所弾けないので、誰かに教わりたい)。
・ 長閑な景色を見ながらぼんやりとする。
・ 寝る。
・ とにかくちやほやされたい(やられたいこと)。
やはりバカである。こんなことを書き連ねたところで、決して職業になど結びつかないだろう。世に言う「やりたいこと」「好きなこと」「夢中になれること」とは職業に結びついていなければ認められる事はない。しかし職業に結びつくかどうかなんて、一体誰が決めるのだろう?既存の職業の枠組みに収まっていなくたって、好きが高じて職業になることだってある。だからとにかく、やりたいことを見つけたい。それで食えるか食えないかは、自分次第だ。「なにをやるか」というのは、実は大した問題ではない。本当にやりたいことなら、どうにかして食える。否、食えなくてもそれで満足である。と、信じている。
小田急線は、暫く街中をがたがたと曲がりくねって、下北沢などを通り抜け、経堂に差し掛かった。私は、学生時代、一年程経堂に住んでいた。それとは別に、社会人になって東京に住んでいる時にも、単身赴任の親父の住んでいる社宅があったので、よく来ていた。あの農大通りの入口にかかっている提灯を見ても、つくづく思い出深い街である。電車内から見る限りでは、あの頃と何も変わっていないように見える。東京にいた頃、私はふらふらと飲み歩きながら、会社を辞めようかどうか、ただそればかり考えていた。そして来る日も来る日も、そうした迷いを酒で打ち消し、翌朝から満員電車に揉まれながら出勤していた。無理だ、もう無理だ。そう思いながら、どうしても辞める事が出来なかった。理由はといえば、単純な理由で、次の転職先が決まっていなかったからだ。一度無職になってしまったら、なかなか這い上がる事が難しい日本の労働市場、それが私の足かせとなっていたのだ。まあありがちな話である。ところがどうだろう、私は今こうして何の行く当てもないまま、会社をするりと抜け出してきてしまっている。こんな辞め方をするとは、あの頃は全く思わなかった。あの頃、毎朝毎晩悩んでいたのは何だったのだろう?悩んでいるときは、問題がとてつもなく大きく見えるものだ。しかし行動してしまえば、それは全くもって悩むに足りない問題だったりするのである。悩みなんていうものは、自分の事だから悩ましいのであって、他人の事だとどうだっていいものだ。悩みをこうして客観視してしまえば、実にどうでもよくなる。たとえそれが自分の事でも、過去の自分なんて他人と同じくらいどうでもいいじゃないか。
成城学園前や登戸などを通り、一時間足らずで百合ケ丘に着いた。どことなく懐かしい雰囲気があるような気がしたが、それは自分の気持ちのせいかも知れない。夕方になって、吹く風が少しひんやりとしてきて、胸の奥から心細さが急に湧き上がってきた。駅前のこの雑然とした風景に、私は何の見覚えもなかったのである。そういえば、私が住んでいたのは百合ケ丘ではなく新百合ケ丘だったかも知れない。私は、その時にやっと気が付いた。自分が以前住んでいた土地について、私が何の知識も持っていなかった事に。つまり最寄りの駅がどこで、そこからどのようにしてそこにアクセスするかも分かっていなかった。何となく百合ケ丘に行けば何とかなるだろう、くらいに思っていたのである。何の考えもなく思いつきで来たのだから、こうなるのは当然だ。とりあえず、私は再び小田急線に乗り、隣の新百合ケ丘まで行く事にした。自分でも何をやっているのか分からなくなってきた。
小田急線の車両の中で、何故か父母の事が思い出された。と言っても、悔恨とか、懺悔の気持ちではない。あんな自分の安泰な老後やら、親戚やご近所の評判ばかりで頭が一杯の、「お前のために言ってやってるんだ!」が口癖の説教魔どもに未練なんてない。もう金輪際あいつらと顔をあわせなくて済むのだと思うと、気持ちが何やら明るくなってくる。大体こんな無意味な命を勝手に産み落とした時点で罪深い奴らなのである。
気が付くと、二人のスーツ姿のサラリーマンが、一つの空いた座席を譲り合っていた。各々が卑屈な笑みを浮かべ、掌で座席を指しながら首だけでお辞儀をしあっている。
「どうぞ」
「いや、どうぞどうぞ」
「いやいや、どうぞどうぞ、ほんとに」
世の中の殆どの人がこんな事ばかりに明け暮れ、無意味な一生を食いつないでいるのだという事実は何と虚しい事だろう。自分だって無意味な一生をこれでもかと食らいつかんばかりに繋いできたわけだが、もう終わりだ。もう私は、少々手荒な真似はしたが、こういう生きながらえることだけが目的の俗世間と縁を切ってきたのだ。私はもう、彼らの仲間ではない。
などという事を考えていたら、乗り過ごして、新百合ケ丘の一つ先の柿生まで行ってしまった。これだからADHDはダメである。何をやっても何かやらかす。
そんなわけで、新百合ケ丘には予定より遠回りして降り立った。相変わらず外は明るい。しかし時計を見ると、もう六時を回っていた。夏至も近いので、日が長いのだ。明るいうちに行って帰って来ようと思った。
新百合ケ丘は、都会のような田舎のような微妙な所だった。駅前には大型のスーパーやら駅ビルがあって、オフィスビルなんかもかなり背の高いのが林立しているのだが、どことなくそれらがこざっぱりし過ぎていて殺風景なのだ。尤も、こういう雰囲気は私が当初から抱いていたこの辺の記憶と合致していて、やっぱりなと、私は妙に納得していた。
以前の住居までの道のりが分からないので、駅前からタクシーに乗って、とりあえず私の通っていた南百合ケ丘小学校に行ってもらう事にした。そこからの通学路だったら記憶にあるので、自分で歩いていけるだろう。
南百合ケ丘小学校には、十分もかからずに着いた。本当に、何一つ私の頃と変わっていなかった。校門の前にある小さな文房具屋までそのままあった。あまりにも何から何まで記憶のままなので、時間の感覚がおかしくなった程だ。二十年くらいでは何も変わらないものなのかも知れない。街も、人間も。変わったのは、それらを取り巻く手段とか、ソフトの部分だけ。校舎の目の前の花壇に咲いている紫陽花でさえ、あの頃と同じような気がしてくる。私はタクシーを降りて、伸びをしつつ懐かしい匂いを胸一杯に吸い込んだ。さっきまでの雨の匂いが嘘みたいだった。
本当に閑静な所だった。人っ子一人いないといってもいいくらいの閑散とした住宅地の細い路地を、私はゆっくりと歩いた。子供の頃、下校の途中で熟れた実を分けてもらった民家の柿の木、友達と指の間接をいくつ鳴らせるかを競った路端、車同士の衝突を目撃した交差点、「ピン逃げ」などと言って、民家の呼び鈴を鳴らして走って逃げた裏道(要はピンポンダッシュである)。見ず知らずの黒人の男に、出会い頭に声をかけられ、ほっぺの肉をつままれたその辺り。それらの様子が夕日のきめ細やかな光の中に浮かんでくるくらい、あの日のままの情景がそこにはあった。思い出って、何はなくても貴重で、ありがたいものだなと思った。自分が今日まで生きてきた証しだ。
生きているってありがたいな。それでも私はそのありがたさに安住している訳にはいかないのだ。今はそれでいいかも知れない。あるいはずっとそれでいいという人もいるかも知れない。それも人それぞれだが、それにしても生きることがありがたいのは、なんだかんだ言って平和で健康だからなのだ。平和じゃなかったら、健康じゃなかったら、きっとありがたくも何ともない。しかし平和だからその生涯に価値があるのか?戦時中に生まれると価値がないのか?そうではないだろう。人間に、その生涯に価値尺度なんて何もないのだ。人間というこの全くの偶然の産物にいいも悪いも、素晴らしいも下らないもないのだ。素晴らしい人生。それもあるだろう。だがそういう価値尺度を超えて、自分の価値観をまっさらにして、それでもなおかつ素晴らしいと思う事が多々ある。それはもう感情だから、その日の微妙な体調とか、天気とかそういう要因によっているのかもしれないが、素晴らしい事は確かにある。二十年前の少年時代を思い起こすのは、その現場に立ち会うのは、素晴らしいものだ。こんな自分もあったのだと、恥ずかしながら発見するのは、いいものだ。生活に疲れた私は、その時自分の記憶の中にささやかな慰藉を見た。自分の中には怒りと絶望と、それから恐怖をしか見出さなかった私が、そして慰藉や希望を求めてその生活圏を飛び出してきてしまった私が。こんな些細なことで、人は変われるものだろうか。思い出に浸る事は素晴らしい。それは善悪の概念を捨て去った上でなお素晴らしい。生きている事はやはり素晴らしいのだ。しかし私はそれが分かっていながら、そこに安住していてはならない。敢えて破滅を欲していなければならない。なぜならそうした素晴らしさも、色褪せてくれば、たちまち価値尺度による素晴らしさに変わってしまう。私はそこに安住せずに、いつでも生まれたての素晴らしさに触れていたい。それは所謂「幸福」を指向する事では全く叶わないことだと確信している。私には変化が、行動が必要だ。