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うぬぼれ  作者: 北川瑞山
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 自己中心的な人間が幼少期、または青年期を通じて「俺は何者かになる人間だ」という自矜を持って成長することは想像に難くない。だが大抵の場合そんな自矜は思い過ごしであって、実際は自分が想像していた様な何者かにはなれず、それどころか現実世界で生き延びる事に汲々として、気が付けば年を食って「ああ、俺はなんて無駄な一生を過ごしてしまったんだろう」と途方に暮れるのが関の山である。いい歳になってようやく、自分は何も特別な存在などではなかったのだと気が付く。そしてその時に同時に気付くのは、そうした過大な自尊心を守る為に自分がどれだけの犠牲を生んできたかという事実である。

 私は、大学に入るまではずっと自分がミュージシャンになるものと信じて疑わなかったし、大学に入って自分より音楽的な才能、素養のある者を目の当たりにしてからは都合良く方向転換し、税務会計のスペシャリストになって、将来独立して自分の事務所を持ち、金持ちになると信じて疑わなかった。この自分の将来像は前よりも少しだけ現実的にはなったが、しかし私の態度は尊大で、そのくせ何も結果を残せなかった。私は一年程税務会計を勉強することに猛烈に打ち込んだが、結局税理士の試験には一科目も合格できなかった。そうなるとミュージシャンでも税務会計のスペシャリストでもない私はしがないサラリーマンになるしかなかったわけで、心の底ではサラリーマンを軽蔑しきっていて、それになることが嫌で嫌で仕方がないにも関わらず、外面だけは「サラリーマンを軽蔑する奴は世間知らずのガキ」と言わんばかりに落ち着き払って、泣く泣く就職したのである。そこで心機一転、仕事に邁進できればまだ良かったのだが、私の場合、心にがっちりと根を下ろした自尊心のお陰でそれがままならなかった。会社で働きながらも、俺は「こんな所で終わる人間じゃない」と言わんばかりに、仕事そっちのけで資格の勉強に精を出していた。金もないくせに自己投資などと言って予備校の費用に五十万円近くぶち込み、朝起きてから夜寝るまで隙間隙間を見つけては資格取得のための勉強していた。それも学生時代からやっていた税理士の勉強などではなく、何を血迷ったか米国公認会計士などという得体の知れない資格に挑戦し出した。これも恐らく私の強過ぎる自尊心のせいで、どうせやるなら普通の資格じゃ物足りない、という気持ちから来ていたと思う。幸い私は少し英語が出来たので(といってもそう大したレベルではない)、じゃあ英語で税務会計をやったら何だか恰好がつくじゃないかという、誠に安易な理由で始めたに過ぎない。別にそれを取得してどうしようというプランがあったわけではない。強過ぎる自尊心の持ち主というのは、大抵このように極めて気分屋である。自分のこれから進む道という大切な選択を、全てその時のフィーリングで決めてしまうのである。それというのも自分の感性や感覚というのに絶対の自信を持っているからであろうが、そうしたフィーリングなどというものはその時その時の風向きで簡単に変わってしまうもので、大抵一度決めた決断が長続きする事がないのである。私の場合もご多分に漏れず、この試験勉強というのを一年やそこらで頓挫させてしまった。アメリカで試験を受けるためにパスポートを取得し、受験料まで現地の機関に送金したにも関わらず、結局は受験せずに終わったのである。大いなる時間とお金と労力の無駄だったわけだが、その時の私にとってみれば、それによって自分が何かに向かっているという充実感なり満足感なりがあったわけで、あながち無駄ではなかったのかも知れない。この自分にとっての満足感があるかどうか、というのが私の常日頃の行動基準であり、客観的に見て費用対効果がどうなのかという所を全く無視する所に自己中心的な、自尊心過大な人間の特徴があるといってよい。因みに受験を取りやめた事を理由に現地の機関に受験料の返金を要求したら「I’m sorry」などと言われて結局返されずじまいだったのはまあ笑い話である。

 それから私は、やっとの事で本業であるサラリーマンの仕事に精を出し始めた。とは言っても自分がサラリーマンで終わるのはやっぱり嫌だった。私はやはりこの無用にして長大な自尊心を捨てきれていなかったのである。私は、その頃から小説を書き始めていた。それも今のように落ち着いた心境で書くのではなく、自分が大作家になると信じて疑わずに、もはや自分が一世一代の大仕事に取りかかる勢いで、全身全霊をこめて取り組んだのである。すると折角精を出し始めていた本業の方には全く興味が持てなくなり、再び手に付かなくなった。これはもう、宿命であるらしい。自分の自尊心を満たすのに好都合なものを見つけると、それがさも自分の全てであるかのようにして取り組み、それ以外の事が手に付かなくなる。その時はその事業に対して、命を投げ捨てる覚悟で取り組むのだが、それがまた気分でころころ変わるものだから案外飽きっぽいのである。案の定、小説の方もある出来事がきっかけで挫折してしまう。これについて詳しい事は後ほど語るべきときがあるだろう。ともかく、強すぎる自尊心は身を滅ぼす。これは私が身を以て証明してきた事だから、多分間違いない。

 そういうわけで、私は未だに自分の人生を生きられた試しが片時たりともないのである。もっと素晴らしい筈の自分がどこかにいる筈だ。形は違えどいつでも私はこのように考えて毎日を明け暮らしていた。だから今ここにいる自分などは何かの間違いであり、何か悪い夢でも見ているようにしか受け取る事が出来ないのだ。正にこれは自分の人生ではないのだ、とでも言わんばかりに。いや、純粋にそれだけだったらまだ救いようもあるのかもしれないが、私の救いようのない点は、「今ここにいる自分が本当の自分なんだ」という事実に本当は心底気が付いているということである。その上で気付いている自分を欺きながら、信じ続ける自分に酔っているのである。自分の間違いに気付いていながら、それを認めながら、それでも一途に信じ込もうとする自分が好き。もうどうしようもない。こんなだから、誰の忠告も私を更生させることなど出来やしないのである。

 過大な自尊心の割には、何一つやり遂げられなかった。仕事にも興味が無く、毎日をやり過ごすのが苦痛である。飯を食うたびに、ああまた俺は無駄な飯を食ってしまったと罪悪感だけが全身に満ちていく。自分の人生には何一つ意味などない気がしていた。いや、意味なんて無くたっていい。どうせ誰の人生にだって意味なんかありはしないのだ。だがこうして無駄に歳ばかりとっていって、何もしたくない、何にも興味のない、自分一人も満足させられない空虚な人生を送るのだったら、そんなもの無くなってしまった方がまだマシではないか?こういう考えが朝から晩まで頭から離れず、何もかもが投げやりになっていった。仕事ではミスや欠勤を繰り返し、そのくせ辺り構わずの他人批判ばかりするので人間関係も無茶苦茶であった。というか同僚を怒鳴りつけるだけでは飽き足らず、上司にまで矛先を向けて楯突いたりするので、殆ど社内ニート(在籍しているだけで仕事のない人のこと)と化していた。休日はバーに入り浸り、酒や煙草に溺れて、精神を病んで向精神薬や睡眠薬が手放せなくなり、殆ど意識も朦朧としていた。そして呆れた事に、そういうどうしようもなく愚かな自分が、心底愛しくてたまらないのである。


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