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うぬぼれ  作者: 北川瑞山
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 私は、こうなることを、大分前から予想していたような気がします。これも一つの生き方ではないかと、今もって思います。これで良かったなどとは思いませんが、それでもこうなるべくしてなったという気がします。

 今までの私の人生は、ナルシシズム、要するに自己愛との戦いでした。私はその戦いの一戦一戦に悉く敗れ、自分を傷つけ、自己否定をするふりをながら、それでいて内心では絶えず他人を攻撃する事によって、何とかこのナルシシズムを守り通してきたのです。それはもう必死の、このナルシシズム自体と戦う事などとっくに諦めた者の必死さでした。あるときは芸術に入り浸り、またあるときは酒に酔い、またある時は障害者を装い、それを理解してくれない他人を絶えず軽蔑する事によって、自分の無能さ、弱さ、不完全さを何とか隠し通し、その証拠となるものに言い訳を与えてきたのです。そうする事で何とか自分の無能さを自分で認める事をしなくて済むように差し向けてきた、言わば自分に対して嘘をつき続けてきたと言えましょう。私だって、本当は自分がとんでもない無能な人間である事くらい、心のどこかでは分かっているのでした。そして同時に、それを認めてしまう事がどうしてもできなかった。どうしても自分の無能さに、弱さに、不完全さこそに価値があると思い込みたかった。この自分に対する隠蔽工作を続ける事で、何とか私は食いつないできたのです。そのやり方は実に巧妙でした。見かけ上は、それは自己批判、自己否定なのです。だから誰も容易に私を批判する事などできません。そうした数多の分厚い自己批判の層の中核には、おぞましい程凝縮された他者批判、社会批判が厳然と存在するのです。そして自分のこの見せかけの自己批判に翻弄される周囲を見ながら、ああやっぱりこいつらには自分の事を理解する資格などないのだと、微かな喜びに満たされていました。理解されない事が、私の矜持であった、などと言うとまるで三島の『金閣寺』のようですが、正にそういう側面が私にはあったと思います。

 思うに、私自身この巧妙な「自己批判に見せかけたナルシシズム」に長年騙されており、そして心のどこかではそこから逃れたい一心ではなかったかと思います。つまり自分の無能さ、弱さ、不完全さを潔く認めきり、それに対して開き直るのではなく、きちんとそれに向き合う形で、正しく自己批判をして生きていきたい、と心の底では思っていたのだと思います。今回のおそまつ極まる逃避劇には、そうした意味があったものと思われるのです。職場とか人間関係なんかからではなく、また両親の束縛なんかからではなく、自分のナルシシズムからの逃避です。なので、私は何となく、こうなるべくしてなった、という気がするのです。

 こうなったら、もう自分の無能さも、弱さも、不完全さも全て認めて、しかもそれを前向きに捉え、心から反省し、一歩ずつ、進んでいくより他ありません。それが何よりの心の幸福ではないかと、今では本当にそう思います。それで生きづらいこともあるでしょう。欲しいものが手に入らないこともあるでしょう。私なんかは、ちゃんと仕事に就けるか、家に住めるかも分かりません。でも、他人と比べることなく、また我が身の不幸を恨むことなく、その場その場で精一杯やろうと思います。それが私の責任だと思います。

 『人間失格』の主人公が最後まで幸福になれなかった理由は、彼の狂人的な弱さのせいではなく、その弱さを認めることができなかったせいだと、今では思います。その証拠に、言葉の端々に、「俺はこんなに頭がいい」「俺はこんなに女にモテた」という自意識が覗いています。これが私の言うナルシシズムで、やはり自分を否定し、自虐の限りを尽くしておきながら、心のどこかでは、本当は有能で優秀な筈の自分を理解できない他人が、社会が悪い、と思っている。そしてそうした単細胞な連中よりも自分はどれだけ高級か分からない、という態度を堅持し続け、そのまま物語は終わっている。勿論、太宰自身がそういう人種だったかどうかまでは分かりませんし、この作品の文学的価値を否定するつもりは毛頭ありません。むしろこれほど克明な形で弱い人間の心のうちを曝け出したことに畏敬の念すら感じますが、それでもやはりこの作品の精神を、そのまま鵜呑みにしてしまってはいけないと思うのです。

 日本人の幸福度が他の国に比べて低いとか、自殺率が高いとか、これほど豊かな国においてどうして?とか、そんな議論をたまに聞きます。日本人という民族は、全体的に言ってどうもこの自己批判に見せかけたナルシシズムが強い民族なのではないかと、私には思われるのです。島国だからでしょうか?他者とのコミュニケーションを極端に恐がり、自分の周りに壁を作り、絶えず謙譲の美徳などと言って自己否定を口にはするのですが、その内実は極めて自尊心にみち、他者に対する軽蔑、敵対心、あるいは無関心ではち切れそうになっています。そしてまた、お互いにそのことが分かっているからこそ信頼し合えず、増々コミュニケーションを恐れ、壁を作るといった具合です。こうした状況で絶えず自尊心を破壊される状況に晒されている私達が、幸福になれる筈がありません。自尊心が他人との比較における勝利によって満たされるものであるならば、自分よりも恵まれた者がいる以上、どうしてそれが完全に満たされることがありましょうか?私達のいる現代社会は特に、そうした恵まれた他者の情報が限りなく入ってきてしまう環境なのです。これではどうやったって幸福感を感じることなどできません。一瞬感じられたように見えても、すぐに贋作を掴まされたことに気付き、またしてもナルシシズムが頭をもたげるでしょう。

 しかしこのナルシシズムを悪者にばかりもできません。それがなければ、人生に張り合いがなくなってしまうでしょうし、ナルシシズムの虜になった他人から身を守ることもできません。ナルシシズムは誇りとか、自己防衛本能と言い換えることも出来ますから、全くなくすということもできないでしょう。つまり、このナルシシズムを正当な範囲でどう抑えるかが…。


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