表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
うぬぼれ  作者: 北川瑞山
12/14

12

 それにしても、どうにも気分がふさぎ込む。門出の日、快晴、やっと足元の枷を外せたというのに、こんなにもふさぎ込むというのはどういうことなのだろう?不安なんだろうか?まあそれもあるだろうが…。オリオンビールを飲んでみる。しかし気持ちよく酔えない。いやいや、考えてみれば当たり前である。こんなのは所詮客観的に見れば自殺行為なのだ。余程気が塞いでない限りこんな自殺行為には及ばないだろう。寝よう。もうこうなったら、少しでも体力を温存しておいた方がいい。エコノミークラスは寝心地が悪いが、まあどうにか寝られるだろう。

 しかし寝るどころではない。気持ち悪い、頭が痛い。オリオンビール一缶飲んだくらいでこんなに酔いが回るものか、体調が良くないのだろうか?なんだかそれは幸先が悪い。やっぱり寝てしまおう。しかし綿雪のように一面真っ白な雲を眼下に見下ろす高度一万二千メートル上空では、さすがに興奮してそう簡単に眠れそうもない。体調不良と極度の興奮に挟まれて、今度は一転して妙に気分が上がってきた。上がってきたと思った直後に眠りに落ちた。バカである。

 すると夢を見た。深い谷底に、真っ赤な血が吹き出しているような溶岩の川が流れている。溶岩はぶくぶくと濃厚に沸騰していて、こちらにまで熱が伝わってくる。私はと言えば、谷のこっち岸の縁に捕まって、今にも眼下で猛り狂う溶岩の中に落ちぬかとぶら下がっている。私は必死で淵にぶら下がっていた。ずっとぶら下がっていた両手は、もう限界だった。せめて片方の手だけでも休めようと思った。とりあえず利き手の右手を残して、左手を外した。休めた左手はいいが、右手は悲惨である。倍の重みを一人引き受けて、血管が破裂せんばかりである。これでは左手を休める時間もそう長くなかろう。そうして左手を再び淵の近辺に差し伸ばした瞬間、左手がもはや淵に届かない事に気付いた。右手だけでぶら下がっていたとき、どんどん体全体がずり落ちていき、右手でつかまっていた淵はもはや左手の届く範疇にはなかったのだろう。これは苦しい。片手でどうにかぶら下がっているしかない。しかしいつまで?いつまでやれば助けが来る?いつまで頑張ればこの状況を脱出できる?いつまでやればこの努力が報われる?それが分からない。この絶望的な状態がいつ終わるにしてもそれは悲劇でしかないではないか。私が力つきるか、私が自分から溶岩の川へ飛び込むか。結果が同じなら、こんな辛い状態をいち早く脱出した方がいい。私は、ついに手を離した。すると泥のような粘度をもった溶岩が、落ちてくる彼を迎えるべく高く火柱を立てた。禍々しい歓迎だった。

 だが結局彼は溶岩に触れる事もなく、一命を取り留めた。しかしそれはあるアクシデントのためである。アクシデントとは、何やら木の枝か何かに、彼の衣服が引っかかって、溶岩の真っ赤な口に飲み込まれる直前にそこに宙づりになって止まったのだ。宙づりということは、そこから動く事が出来ない状態だ。ましてすぐ足元には溶岩の渦。恐らく、この暑さ(というよりもう熱さ)はこの状況におかれたものでなければ分からないだろう。間近に迫る溶岩は、彼を燃やし尽くさんばかりの熱気を放っている。汗が彼の体全体から吹き出し、そして沸騰せんばかりに熱くなって、彼を責めさいなんだ。彼は身動きができなかった。枝のようなものに引っかかったまま、足元にぐつぐつ煮えたぎる溶岩に炙られているしかなかった。ああ、こんな事なら、私はずっとつかまっていれば良かった。つかまっている腕が辛くても、頑張ってもう少しつかまっていれば、誰かが助けにきてくれたかも知れない。いや、あるいはあのままあまりの疲労のために気絶してそのまま真っ逆さまに落ちて、こんな辛さを味わわずにすんだかも知れない。全くなんて事をしてしまったんだ。これでは死ぬに死ねない。死ぬより辛い。強度を増したサウナにずっと入っているようなものだ。こんな熱さに、人間はどこまで耐えられるのか?そんなものを試しているとしか思えない。何と言う事だ。私にはもう選択肢がないのである。このまま炙られて、少しずつ、少しずつ、死んでいくしかない。どうしようと言ったって、どうしようもない。もう終わりだと言ったって、まだ終わらない。この辛さを如何に表現しようか?表現なんかしても仕方ない。ああ全身汗まみれでびしょびしょだ。喉が渇く。多分死んでもなお炙られ続け、やがては干涸びてミイラのようになるだろう。

 多分そんな事を考えていたと思う。そのうちに私はうなされて目が覚めた。酷く寝汗をかいていた。まだ飛行機は中国地方上空辺りを飛んでいる。私は、崖っぷちから手を離して、真っ逆さまに落ちてしまったのだろうか?いずれは木の枝に引っかかるのか?

 暗澹たる気持ちのまま、持ってきたiPodで音楽を聴いた。シャッフルしたら、イエスのなんだか長ったらしいプログレ。それを何故か我慢して聴き続け、それから次はビル・エバンスとジム・ホールのコラボジャズ。ジャズはいいね。沖縄でジャズギタリストにでもなろうか。ジャズキター弾けないけど。私は、無理にはしゃいでみた。

 沖縄に着陸したのは、昼の一時過ぎくらいだったと思う。預けた手荷物もない私は、ベルトコンベアを通り過ぎて、空港で飯を食った。ありがちな沖縄そば。別にどこで食っても同じ味だと思った。まあ普通現地で食べるのは、気分的には格別なのだろうが、旅行者でもない、スーツ姿の私の場合は前途が不安でそんな気分にもなれなかった。ただ、もずくの酢の物が添えられていたので、海のもずく(藻屑)などといういい間違いを思い出し、一人で思い出し笑いをかみ殺していた。飯を食った後には、暑くなって上着を脱いだ。さんぴん茶も飲んだが、普通のジャスミンティーだった。私は、沖縄に来ればもっと感動的な事が起こる、いや、全てに感動できると思っていたのだが、さっぱり感動しない。それどころか何を見ても面白くないのだ。哀れ、仕事がない、金がない状態において、人間は感動などできるものではないのだ!これはしたり。しかし来てしまったものは仕方がない。ここに暫く居続けよう。暫く?その次にいく当てでもあるの?特にない。

 どこにも行く所がなかったので、とりあえず住む家を探そうと思った。近くの本屋で無料の不動産情報誌をもらって、近くの不動産屋に向かった。どうやら、ゆいモノレール沿いにあるらしかったが、地理不案内なのでタクシーに乗った。モノレールに乗っていける所にタクシーで行くようでは、手持ちの資金はすぐに底をついてしまうだろう。これからは倹約に努めるが、まずは初期投資ということで納得しよう。それにしても外はうんざりする程の快晴である。天気にだけはやたら恵まれる。

 タクシーの運転手は私の身なりがスーツなのを見て、

「お仕事ですか?」と訪ねてきたが、

「いいえ観光です」と何故か意味のない嘘をついてしまった。仕事という事にしておいても良さそうだったのに、それでは嘘っぱち過ぎるし、かといって本当の事情を語るのは何だか面倒くさかった。それで中途半端な嘘をついた。もうどうしようもない。

 不動産屋に着くまでには、思ったより時間がかかった。2970円。これも初期投資。3000円渡して、お釣りはいいですよと言いそびれた。倹約、倹約。

 着いたのは小さな店舗の不動産屋で、雰囲気がよく、入りやすかった。私は躊躇いもなく、そこに入っていった。中で待っていたのは、アロハシャツを着た、背の低いずんぐりとした体型の中年男性で、沖縄の人らしく色黒、人の良さそうな顔立ちの人だった。私は何となく、安心した。この人に相談すれば、何とか家くらいはどうにかなるのではないか。そう思われた。私は、入口付近の椅子を勧められ、カウンター越しに中年男性と対面した。

「お仕事帰り?」

やはり聞かれた。

「いえ、あの、沖縄は今来たばかりなんです」

私はこの際、正直に話そうと決意した。これは恐らくこの不動産屋を信用しての事だったと思う。彼について何一つ知らないのに信用などとおかしな話だが、彼には何かしら人を安心させる雰囲気があったのだ。何より、一人きりでここへ来た私にとって、少しでも頼れる人間がいるということは、とてもありがたかった。

「へえ、今来たばっかり?」

「はい、今来て、住居も決まっていなくて、それでここに来たんです」

「へええ」

彼は感心したように腕を組み、仰け反った。毛むくじゃらの腕だった。冷静に見ればむさ苦しいだけなのかも知れないが、その時の私にはそれすらも頼もしく思えたものだ。

「すると、突然こちらに転勤が決まったということで?」

そうか、普通に考えればそうなるのか。しかしそれを敢えて聞くという事は、そこに一抹の疑いがあるのかも知れない。ここはやはり正直に言うべきだろう。

「いいえ、実は関東で働いていたのですが、会社を突然飛び出してきてしまったのです。そのままここへ来てしまいました。それでまず家を探そうかと」

彼は驚いたように大きな目を見張っていたが、状況を飲み込むと、弾けるように笑い出した。ああ、こんな突拍子もない状況を話しても笑ってくれる。非難したりせずに、受け入れてくれる。私は嬉しくなって、つられて笑い出した。

「それはなかなかだなあ」

彼はまだ笑みを浮かべたまま、そう返答した。

「はい」

私は彼に対して極度に従順になっていた。だが次に言われた一言で、私は瞬時に我に返らざるを得なかった。

「まず仕事が決まっていない事には、家も紹介できないんだよなあ」

そうか、そういうものなのか。三十近くにもなって世間知らずにも程がある。私はその後、彼とどんな会話を交わしたか覚えていない。とにかく恥ずかしくなって、不動産屋を後にしたのだ。少なくとも、どうやって仕事を探せばいいのか、などという馬鹿げた事を聞かなかった事は確かだ。そんなことは不動産屋に聞くことではない。

 外は蒸し暑かった。気紛れな沖縄の空は、さっきまで快晴だったのに、今では雨が降ってきそうなくらい暗く曇っていた。

 仕事が決まっていないと家が紹介できないと言っていたが、考えてみれば、仕事の方こそ住所不定じゃどうしようもないんじゃないのか?それもよく分からない。よしんばそれで仕事が決まったって、どうせろくな仕事じゃないだろう。家が決まったって、タコ部屋かも知れない。もう考えるのも面倒くさい。ここへ来れば、何とかなる。そんな甘い考えに、なぜ自分の人生を投げ打ったのだろうか?私は湿気を含んだ暑気のなか、ふらふらと歩き、ホウオウボクが真っ赤に乱れ咲いた木の下で、膝を抱えてうずくまった。暗闇の中で、肌で感じる、この南国の風と匂いだけが、私の現実だった。

 いや、しかしこれでよかったのだ。これが私の望んだ、私の意志で決めた道だったのだから。誰かに利用されながら、自分の軽蔑する人間に軽蔑されながら、鬱々とし、日に日に衰えていくよりはマシだったのだ。これからどうなるかは分からない。考える気力もないが、しかし私はともかく全身を絡めとっていた支配を脱したのだ。それでよしとしようじゃないか。それにしても、本当に疲れた。とりあえずぐっすりと眠りたい。それからもう一度考え直したい。

 雨が、少しずつ降ってきた。私はうずくまったままそれに打たれていた。手帳に書いたやりたくない事、やりたい事リストが少しだけ脳裡を過ったが、その時は見る気も起きなかった。雨あしは強くなるばかり。まるで私を優しく諌めているように。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ