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『おいっ、エリー!お前本当に王太子殿下に失礼なこと言わなかっただろうな?!殿下と一体何を話してたんだ?』
……ライー兄様? どうして昨日殿下といたことを知っているの??
『エリー、いいか、殿下が優しいからって調子にのるなよ。 王族は腹で何を考えてるか分からないんだからな。お前が殿下に無礼な事でも言って、俺達が王宮に出禁にでもなったらどうするんだ! 次はお前から目を離さないようにするからな!」
ひどい! ライー兄様、私もう子供じゃないのよッ! なのに殿下に失礼な事言う訳ないじゃない!!
『とにかく、母上にはちゃんと隠さずにリボンを無くしたことを言うんだぞ!』
えっ? リボン? お母様?? あぁ、おかしいと思ったら、あの時の、昔のことね、初めて王宮に行った時のこと……。あの日はお母様が用意して下さったリボンを無くしたり、思わず殿下とお話したり、色々あって……。でも、どうして今更そんな話が出てくるの?
◇◇◇
『まあ、何てことっ! エリー、お前のお転婆振りもなんとかしないといけないわね。 ライー、お前もしっかり妹を見ておかないと駄目でしょう!』
あぁ、お母様! 亡くなったんじゃなかったのね! 今までどこに行ってたの? それに、今頃どうしてそんな事を仰るの??
『これからお前も宮廷に出入りするのだから、もっと礼儀作法や言葉遣いを厳しく躾ますからね。 しっかり身につけないといけませんよ!」
お母様、分かったわ、きちんとお行儀良くして、王宮に出入り禁止にならないように気をつけるから! もういいでしょう?!
「おい、エリー! おいっ!」
お兄様まで! もうご迷惑かけないから、そんなに怒らないで!!
「おい、起きろ! エレーン!」
えっ??
「やっと起きたか! 今頃何で寝てるんだ!?」
(あれ、お兄様!? 何? さっきのは……夢? あぁ、そういえば昨日なかなか眠れなくて、朝食の後、本を読んでいたら、つい、うとうと眠くなって寝てしまってたんだわ)
「おい、すっかり目が覚めたか? だったら、早くそのシワくちゃのドレスを整えろ! 急に客人が来たんだ!」
「えっ? お客様っ!? どなた??」
エレーンは寝ぼけた頭で長椅子から立ち上がり、スカートの皺を必死に伸ばす。
「マティアス様だ! 王太子殿下の側近で、もちろんお前も知っているだろう。バルト公爵家の嫡男で殿下方とも御従兄弟同士だ。そんな高貴なお方が、うちのボロ屋敷に来たばかりか、何故かお前と話をしたいと言っている! いいか、これ以上お待たせする訳にはいかないのは分かるだろっ! 早く支度するんだっ!!」
「えっ!? マティアス様!? 急に一体どうして?」
「知らん! 俺こそ訳が分からんがとにかく早くしろ! ったく、お前ときたらなかなか起きないからえらく時間がかかったぞ」
「早くしろと言われても! あぁ、そんな、急に無茶言わないで!」
「ああッ! なんてみすぼらしいドレスなんだ! しかも皺がっ! だがもうこれ以上はお待たせできない! ったく、こんな時間にドレスのまま椅子で寝る淑女がどこにいる! さっ、行くぞ!」
ライアスは足早に客間に向かう。
エレーンは兄に続いて小走りしながら、懸命にスカートの皺を伸ばして、手櫛で髪を整えた。
(マティアス様が私に話!? 今までお話するどころか、お近くに寄ったことさえないのに? 一体何の用なのかしら……)
マティアス・バルトのことは滅多に王宮に行かないエレーンでもよく知っている。
王太子の側近として、常にジルフォードの隣にいるので遠くからなら何度も見たことはある。
宮廷の中で抜群の美男で長身、しかも上級貴族の筆頭である三大公爵家の嫡子。
従兄弟ということもあって王子達の信頼も厚い。下々の者にも気さくに声を掛けるなど、気取った所も気位が高い所も全くない。
常に女性が隣にいるので口が悪い者からは軽いとか、女たらしだとか色々言われているが、当の本人は全く気にしていないどころか、逆にそれが名誉なことだと思っているらしい。
自分とはまさに別世界の人間で、一生近くを通り過ぎることすらないと思っていたが、まさか話をすることになるとは夢にも思わなかった。
(あぁ、どうしよう…きっと昨日のことなんだわ。お兄様の前で何を言われるのかしら。それより私、ちゃんと立ってられるかしら……)
エレーンは自分の顔から血の気が引いて行くのが分かった。
(きっと殿下との事を耳にしたか何かなんでしょうけど、私のこと、気に入らないに決まってるわ。二度と王宮に来るなって言われたらどうしよう。お兄様が発狂してしまうわ……)
そんなことを考えているうちに、とうとう客間に着いて、ライアスが扉をノックした。
「失礼しますっ! マティアス様、大変お待たせ致しましたっ! 妹のエレーンを連れて参りました」
客間の扉が開き、部屋の奥の窓際に立つ長身の男性が振り向くのが見えた。
色素の薄い金茶の髪は太陽の光で完全に金色に見える。真っ直ぐでサラリと伸びた長い髪は首の後ろ辺りで一つに束ねてある。
長く形のよい眉の下に、絶妙なバランスで配置された目、スッと通った鼻筋。彼の完璧に整った顔立ちは息を呑まずにはいられないほどで、切れ長のヘーゼルと深緑色のオッドアイが真っ直ぐエレーンに向けられた。
(すごい美形!! 顔が整い過ぎてて、怒ると余計迫力が出そう!!)
エレーンはマティアスに睨まれるかと思ったが、意外にも向けられた目は優しく、顔には満面の笑みが浮かんでいた。
「やあ! 急に押しかけて申し訳ない、エレーン・マリア・ハルト嬢。気安くエレーンって呼んでいいかな? 僕はマティアスだ、よろしく!」
「……えっ? あっ、は、はい! どうぞエレーンとお呼び下さいませ。よ、よろしくお願い致します!」
マティアスは笑みを崩さず今度はライアスの方に顔を向けた。
「ライアス君! 君が大事な妹君を囲うのは分からないではないが、こんな可愛いお嬢さんを宮廷に滅多に出さずに、深窓の令嬢にしているなんてダメじゃないか! 母君の喪も明けたことだし、これからはもっと頻繁に宮廷に来させてくれたまえ!」
「……はっ?? あ、は、はい! 承知致しました!」
ライアスはいきなり予想外の言葉をかけられ、取り乱した。
そしてすぐ腹の中で憤慨した。何故ならエレーンが滅多に宮廷に顔を出さないのは、なにも自分が妹を外に出したくないという訳ではなく、当の本人が何かと理由をつけて出ないからだ。
ライアスは心外だと言わんばかりに妹に鋭い目線を向けた。当の本人は口を開けて固まっている。
「よかった! 実は今日来たのは、ぜひ直接確認させてもらいたかったんだ。一週間後の舞踏会の招待客リストに君達の名前がなかったけど、何故なんだい?」
「あ、はい、その事でしたら、当日私は父に代わって遠方の領地へ行く用がありましてーー」
「そうなんだ、残念! でもそれならライアス君に代わって僕がエレーンをエスコートするよ。宮廷から迎えの馬車を用意してもいいし」
「は?? あ、い、いえ! 妹ごときの為にそのようなことをしていていただくわけには――」
「全然。遠慮はいらないよ」
「し、しかし……ご迷惑では?」
「迷惑なら自分からこんな申し出はしないよ。エレーンさえ迷惑でなければ……」
マティアスはエレーンの様子を伺おうとする。ライアスはすかさずこう言った。
「いえ!!妹が迷惑に思う事など断じてありません!身に余る光栄です、マティアス様!!」
「そっか。じゃ、決まりだね。では僕はこれでーー
「マティアス様!今、お茶をお持ちしますので…!」
ライアスは慌ててマティアスが帰るのを止めようとした。
「ああ、せっかくだけど、すぐに王宮に戻らないといけないんだ。それにこれ以上君達の貴重な時間を奪う訳にはいかないしね」
「いえ、そんな我々は!マティアス様こそお忙しい中、わざわざーー
「ぜひ今度ゆっくりお邪魔するよ。では、エレーン、ごきげんよう」
マティアスはエレーンの甲に別れの口づけをし、ライアスには握手をしてハルト家を後にした。
ハルト家の兄と妹はマティアスを見送った後もしばらく茫然とその場に立ち尽くしていた。