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海水は経費で落ちない

人魚は、海ではなく、会社に行く。


尾びれを膝掛けで隠し、車椅子に乗り、人工海水のスプレーを持ち歩きながら、普通の社会人として暮らしている。


この物語は、そんな世界で生きる佐伯美緒という女性の日常と、自分の身体をめぐる選択の話です。

多様性研修のスライドに映った人魚は、胸に貝殻をつけていた。


 私は会議室の一番後ろで、それを見ていた。


 まず、そこからか、と思った。


 人魚だから貝殻。

 外国人だから地球儀。

 高齢者だから杖。

 障害者だから車椅子。

 育児中社員だから赤ちゃん。


 世の中は、分かりやすい絵が好きだ。


 分かりやすい絵は、だいたい本人には少し雑だ。


 スライドの人魚は笑っていた。腰から下が魚で、長い髪をなびかせて、両手を胸の前で合わせている。どこかの海辺で、今から歌でも歌い出しそうな顔をしている。


 私は、自分の膝掛けの下にある尾びれを少しだけ動かした。


 正確には膝ではない。

 でも膝掛けと呼ぶ。


 尾びれ掛けと言うと、急に水産加工場みたいになる。


「現在、日本国内には、およそ千人前後の水棲下肢保持者がいるとされています」


 講師の男性が言った。


 水棲下肢保持者。


 その言葉を聞くたびに、私は少しだけ、どこかの研究所の標本になったような気持ちになる。


 保持している、という言い方も変だ。


 私としては、別に好きで持っているわけではない。

 かといって、嫌いだと言い切れるほど単純でもない。

 生まれたときからあるものを、好きか嫌いかで分けろと言われても困る。


 右手が好きですか、と聞かれても困るのと同じだ。

 ただ、右手は会社の研修スライドで貝殻をつけさせられたりしない。


「一般的には“人魚”という呼称が使われますが、この表現には童話的、見世物的、あるいは性的なイメージが含まれる場合もあります。そのため、近年では当事者の意向を尊重した呼称の使用が求められています」


 講師は真面目な顔でそう言った。


 私はもう一度、スライドを見た。


 貝殻をつけた人魚が、まだ笑っていた。


 意向を尊重するなら、まずこの貝殻を外してほしい。


 でも私は何も言わなかった。


 会議室には三十二人いた。

 営業部、経理部、総務部、人事部。

 普段はろくに話さない人たちが、同じ資料を見て、同じタイミングでうなずいている。


 こういう研修は、年に一度ある。


 去年は「アンコンシャス・バイアス」だった。

 一昨年は「心理的安全性」だった。

 今年は「多様な身体特性を持つ社員との協働」。


 身体特性。


 便利な言葉だと思う。


 尾びれも、鱗も、乾燥も、乗れない階段も、開けにくいドアも、全部まとめて身体特性になる。言葉が大きくなると、困っていることの輪郭が少しぼやける。


 ぼやけたものは、会議で扱いやすい。


「では、ここで皆さんに考えていただきたいと思います」


 講師がリモコンを押した。


 次のスライドに、太い文字が出た。


あなたの職場に人魚の社員が配属されたら?


 会議室の空気が、少しだけ変わった。


 私の方を見てはいけない、という空気になった。


 見てはいけないと思うと、人は余計に見ている感じになる。首は動かない。目も動いていない。でも意識だけが、後ろの席に集まってくる。


 私は資料に目を落とした。


 同じスライドが、紙にも印刷されていた。


 人魚のイラストは、紙の上でも笑っていた。


 印刷代がもったいない。


「どのような配慮が必要でしょうか。自由に意見を出してください」


 講師が言った。


 前の方に座っていた営業部長が手を挙げた。


「やはり、移動のサポートでしょうか」


「はい。大切ですね。具体的には?」


「段差がある場所では声をかけるとか、重いものを持つとか」


「素晴らしいですね」


 素晴らしいらしい。


 間違ってはいない。


 段差は困る。

 重いものも困る。

 でも、段差がある場所で声をかけられても、段差は低くならない。


 私は資料の端を指でこすった。


 会社の会議室Bには、入口に五センチほどの段差がある。五センチ。普通の人なら、意識もしない高さだと思う。私にとっては、毎回そこで一度、仕事ではない仕事が増える。


 その段差のことは、入社してから三回伝えた。


 一回目は人事に。

 二回目は総務の課長に。

 三回目は、安全衛生委員会のアンケートに。


 返事はいつも同じだった。


「確認します」


 たぶん、今も確認されている。


「他にはいかがでしょうか」


 講師が言った。


 今度は人事の若い女性が手を挙げた。


「水分補給や、乾燥対策ですかね」


「そうですね。水棲下肢保持者の方の中には、皮膚や鱗の乾燥に配慮が必要な方もいます」


 講師がホワイトボードに書いた。


乾燥対策

湿度管理

休憩スペース


 私はそれを見ながら、少しだけ笑いそうになった。


 休憩スペース。


 会社の休憩スペースには、丸いテーブルが三つある。椅子は軽いけど、間隔が狭い。車椅子で入ると、だいたい誰かの椅子の背に当たる。


 休憩するための場所に入るだけで、まず「すみません」を三回言う。


 だから私は、ほとんど自分の席で休む。


 自分の席で休むと、休んでいるようには見えない。

 結果、誰かに仕事を頼まれる。


 この流れまで含めて、休憩スペースと呼ぶなら、まあ、そうなのかもしれない。


「佐伯さんは、実際どうですか?」


 隣に座っていた山崎さんが言った。


 会議室が、さらに静かになった。


 山崎さんは、たぶん本当に普通に聞いただけだ。私と同期で、悪い人ではない。むしろ会社の中では話しやすい方だと思う。


 ただ、普通に聞いただけの言葉が、会議室では急に大きくなることがある。


 講師が少し困った顔をした。


 たぶん、当事者に突然話を振らないように、というルールがあるのだろう。

 そういうルールがあること自体は、ありがたい。

 でも、そのルールが守られている空気も、少し面倒くさい。


 私は顔を上げた。


「実際ですか」


「うん。湿度とか、やっぱり大事なのかなって」


 山崎さんが言った。


 私は少し考えた。


 ここで真面目に話すこともできる。


 鱗の間が乾くと、ひび割れる。

 長時間の空調はきつい。

 真水だけでは肌が荒れる。

 人工海水を使う。

 車椅子の座面に尾びれ専用のクッションが必要。

 急な避難訓練のときは、階段しか使えないルートだと困る。


 言いたいことはたくさんある。


 でも、それを全部言うと、会議室全体が「勉強させていただきます」という顔になる。


 その顔を見るのが、今日は少ししんどかった。


「湿度も大事ですけど」


 私は言った。


 全員が、私を見た。


「それより、会議室の入口の段差をなくしてもらえると助かります」


 会議室が一瞬、変な沈黙になった。


 私は続けた。


「今日も入るとき、少し引っかかったので」


 講師がすぐにうなずいた。


「非常に重要なご指摘ですね。環境整備という点では、まさに合理的配慮の具体例です」


 具体例。


 私は具体例になった。


 前の方で、課長が少しだけ背筋を伸ばしたのが見えた。


 たぶん、自分の部署の話だと思ったのだろう。

 実際、自分の部署の話だ。


 山崎さんが小声で言った。


「ごめん。余計なこと聞いたかも」


「別に」


「ほんと?」


「うん。言う機会になったし」


「それならよかった」


 山崎さんは少し安心した顔をした。


 私は、いい子だなと思った。


 でも、いい子だなと思うと同時に、なんで私が安心させる側なんだろう、とも思った。


 こういう気持ちは、置き場所に困る。


 怒るほどではない。

 でも、何も感じなかったことにはできない。


 講師は次のスライドに進んだ。


当事者を特別扱いしないことも大切です


 また人魚のイラストが出た。


 今度は、車椅子に乗っていた。


 ただ、尾びれの置き方がおかしかった。座面から横にはみ出している。あの角度だと、エレベーターの扉に挟まる。あと、尾びれの先が床に触れている。乾燥以前に、普通に痛い。


 私は資料の余白に、正しい位置の尾びれを描いた。


 車椅子の前に、少し長めのサポートをつける。

 尾びれの先が下がらないように、柔らかいベルトで支える。

 座面は少し傾ける。

 体重が腰だけにかからないようにする。


 たぶん、これを描いた人は知らない。


 知らないこと自体は悪くない。


 でも、知らない人が作ったものに、知っている人が毎日合わせることになる。


 それは少し、疲れる。


研修が終わると、課長が近づいてきた。


「佐伯さん、さっきの段差の件だけど」


「はい」


「前にも言ってくれてたよね」


「はい」


「ごめん。止まってた」


「はい」


 私はそれ以上、何も言わなかった。


 課長は悪い人ではない。

 むしろ、謝れるだけいい人だと思う。


 でも、いい人が謝るだけでは、段差は残る。


「簡易スロープ、見積もり取ろうと思うんだけど」


「はい」


「総務で対応するから」


 私は少しだけ驚いた。


「私が取りますか?」


「いや、こっちでやるよ。佐伯さんが使うものだからって、佐伯さんにやってもらうのは違う気がするし」


 私は課長を見た。


 課長は少し気まずそうに笑った。


「研修、意味あったな」


 そう言われると、こちらも笑うしかなかった。


「そうですね」


「たぶん、三万くらいであるよね」


「ものによりますけど、それくらいからあります」


「詳しいね」


「使う側なので」


「ああ、そうだよね」


 課長はまた気まずそうにした。


 私はその顔を見て、少しだけ意地悪な気持ちになった。


 でも何も言わなかった。


 人は一日で完璧にはならない。

 会社も一日では変わらない。

 段差も一日では消えない。


 ただ、今日は少しだけ、段差の話が段差の話として扱われた。


 それだけで、まあ、悪くはなかった。



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