第2話 竪琴と図書室
入学二日目の朝、リーゼは下駄箱を開けて固まった。
上履きがなかった。
代わりに入っていたのは、びしょ濡れの布切れだった。よく見れば、それは昨日まで上履きだったものだ。片方は切り裂かれ、もう片方は水に浸けられてふやけている。
「……そう」
リーゼは息を一つ吐いた。
予想はしていた。昨日、四龍の筆頭に啖呵を切った白龍の特待生。目をつけられて当然だ。
上履きを持ち上げると、水がぽたぽたと滴った。使い物にならない。
仕方なく外履きのまま教室に向かった。廊下を歩くたびに靴底が小さな音を立て、すれ違う生徒たちが怪訝な顔をする。
教室の自分の席に着いて、鞄を開けた。
――教科書が、全て破り捨てられていた。
鞄の中には紙くずだけが詰まっている。昨日、教室に鞄を置いて帰ったのがまずかった。寮に持ち帰るべきだった。
龍騎学の教科書。龍化理論の教科書。魔力学概論。紋章術の参考書。どれも特待生に支給されたもので、買い直す余裕はない。
手のひらの上で、破られたページの切れ端がひらひらと揺れた。
きれいな紙だった。ヴァイス家には、こんな上質な紙はない。父が領地の帳簿に使っている紙よりずっと白くて、手触りがよかった。
――泣くな。
リーゼは奥歯を噛み締めた。
泣いたら負けだ。泣いたら、こんなことをした人間の思う壺だ。
「あれ、ヴァイスさん、教科書は?」
最初の授業が始まる前に、教師に聞かれた。全員が教科書を机に出している中、リーゼの前だけが空っぽだった。
「申し訳ありません。少し手違いがありまして」
「手違い? 初日から忘れ物とは感心しませんね。特待生としての自覚を持ちなさい」
教師は呆れた顔で通り過ぎた。リーゼが何も言い返さなかったのは、言い返す意味がないと思ったからだ。「破られました」と言ったところで、証拠はない。
教科書なしで授業を受けた。教師の言葉を一字一句頭に刻み、休み時間に記憶を頼りにノートに書き起こす。それを繰り返した。
二限目、三限目、四限目。
昼休みになった時、リーゼの手は書きすぎてかすかに痺れていた。
「ねえ、聞いた? 白龍の子、教科書忘れてきたんですって」
「忘れたんじゃなくて、最初から持ってなかったんじゃない? 男爵家じゃ買えないでしょ」
「やだ、それ可哀想」
「可哀想っていうか、場違いよね」
廊下で令嬢たちの声が聞こえた。くすくす笑いが、さざ波のように広がる。
その中に、昨日門の前で声をかけてきた赤い髪の少女がいた。目が合うと、扇の裏で口元を隠して微笑んだ。
――ああ、この人か。
確信はなかった。でも直感が告げていた。
リーゼは視線を外し、教室を出た。
行くあてがあったわけではない。ただ、あの教室にいたくなかっただけだ。
× × ×
図書室は、本館の東棟の奥にあった。
迷った。三回角を間違えて、一度は厨房の前に出てしまった。この学園は広すぎる。ヴァイス領なら端から端まで歩いても半刻もかからないのに。
ようやく辿り着いた図書室の扉を開けて、リーゼは息を呑んだ。
天井まで届く書架が、見渡す限り並んでいた。何千、いや何万冊という本が整然と収められている。ステンドグラスの窓から色とりどりの光が差し込み、埃がきらきらと舞っていた。
リーゼの村の教会にある本棚は、三段しかなかった。そこに並ぶ本は全部で二十冊ほどで、リーゼは幼い頃にその全てを読み終えてしまった。
「……すごい」
思わず呟いた。こんな場所があるのか。
破られた教科書の代わりになるものを探そう。そう思って足を踏み入れた時――音が聞こえた。
竪琴の音色だった。
どこから聞こえてくるのだろう。柔らかく、透き通った音が、書架の間をすり抜けてくる。悲しい旋律だった。でも暗くはない。雨上がりに空を見上げた時のような、切なさと希望が入り混じった音。
リーゼは音に引かれるように奥へ進んだ。
書架を三つ抜け、突き当たりの窓辺に、その人はいた。
紅い髪の青年が、窓枠に腰かけて竪琴を爪弾いていた。
午後の陽光が紅い髪を透かして、まるで焔のように輝いている。長い指が弦の上を滑るたび、空気が震えた。
四龍の一人。アレクシス・ローゼンハイン。
リーゼが立ち止まると、弦を弾く指がふと止まった。
琥珀色の瞳がリーゼを見た。
「……ああ、昨日の」
驚いた様子はなかった。むしろ、来るのがわかっていたような穏やかさだった。
「ごめんなさい、邪魔をするつもりは」
「邪魔じゃないよ」
アレクシスは微笑んだ。柔らかい笑みだった。昨日教室で見た時は遠くからだったが、近くで見ると、その美しさは四龍の中でも別種のものだった。ルシアンが冬の月なら、アレクシスは秋の夕焼けだ。
「教科書を探しに来たの?」
リーゼの足が止まった。
「……ご存じなんですか」
「噂はすぐ広まるからね、この学園は。教科書を忘れた特待生の話、もう学園中に回ってるよ」
「忘れたんじゃありません」
言ってから、しまった、と思った。言うつもりはなかったのに。
アレクシスは竪琴を膝に置いたまま、静かにリーゼを見ていた。責めるでも、憐れむでもない。ただ、聞いている。
「……破られていました。鞄に入れていた教科書が全部」
「そう」
短い相槌だった。それ以上何も聞かなかった。『誰に?』とも、『大丈夫?』とも言わない。
代わりにアレクシスは窓枠から降り、書架の間に消えた。しばらくして戻ってきた時、その腕には数冊の本が抱えられていた。
「龍騎学、龍化理論、魔力学概論。参考書としてはこのあたりが教科書と同じ範囲を網羅してる。こっちの方がむしろ詳しいかもしれない」
リーゼの前に本が差し出された。
「……え、でも、これは図書室の」
「貸出手続きすれば持ち出せるよ。僕が推薦者欄に名前を書いてあげる。上位貴族の推薦があると貸出期限が延びるんだ。……嫌な制度だけどね」
リーゼは差し出された本を見つめた。
どれも革張りの立派な装丁で、ヴァイス家の年収でも買えないような高価な書物に見えた。
「どうして」
「どうして?」
「どうして、助けてくださるんですか。わたしは白龍の男爵令嬢で、あなたは四龍で――」
「竪琴を聴いてくれたから」
リーゼは目を瞬いた。
「え?」
「さっき、きみが入ってきた時。普通の人は僕が弾いていると気づくと逃げるんだ。四龍に見つかりたくないから。でもきみは逃げずに聴いてくれた。……嬉しかったんだよ、単純に」
アレクシスが笑った。今度は少しだけ寂しそうに。
「四龍の一人にも、一人で竪琴を弾きたい昼休みがあるんだ。きみと同じで、ちょっと教室にいたくない日がね」
リーゼは本を受け取った。ずしりと重かった。
「ありがとうございます」
それしか言えなかった。でも精一杯の気持ちを込めた。
「泣かないんだね、きみ」
アレクシスが静かに言った。
リーゼは本を抱きしめたまま、まっすぐに前を見た。
「泣いたら、ここにいる意味がなくなるので」
アレクシスの琥珀色の瞳が、ほんの少し見開かれた。それからふっと微笑んで、再び窓枠に腰かけ、竪琴を構えた。
「いい答えだ。……もう少し弾いていい? きみがいると、なんだかいい音が出る気がするんだ」
「どうぞ。わたしはここで読ませていただきます」
リーゼは窓辺の床に座り、借りた本を膝の上に広げた。アレクシスの竪琴が再び鳴り始める。
今度の旋律は、さっきより少し明るかった。
× × ×
そのやりとりを、書架の影から見ている者がいたことに、二人は気づかなかった。
ルシアン・ヴォルフリートは、書架に背を預けたまま動かなかった。
図書室に来たのは偶然だった。昼休みに一人になりたくて、アレクシスと同じ理由でここに来ただけだ。
白龍の娘が泣いているだろうと思っていた。教科書の件は耳に入っていた。下駄箱の件も。エルザあたりの仕業だろう。くだらない。
泣いてうずくまっている白龍を見たら、やはりつまらない女かと――そう確認するつもりだった。
なのに。
泣かなかった。
あの娘は泣かなかった。
破られた教科書の代わりを探しに来て、アレクシスの竪琴を聴いて、「泣いたらここにいる意味がなくなる」と言った。
あの目だ。
昨日、教室で俺に食い下がった時と同じ、真っ直ぐな目。怒りでも虚勢でもない。折れていないだけだ。ただ、折れていない。
ルシアンは自分の胸の奥がざわつくのを感じた。
名前も知らない苛立ち。理由のわからない引っ掛かり。アレクシスがあの娘に笑いかけた時、一瞬だけ何かが軋んだ。
くだらない、と思った。白龍の小娘一人に、何を。
ルシアンは音を立てずに図書室を出た。
廊下を歩きながら、蒼い瞳を細める。
――泣かない白龍か。
頭の中で、あの真っ直ぐな目がちらついて消えない。
それがどうしようもなく、腹立たしかった。




