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玻璃のまどろみ、言の葉の塵 ―音のない世界が触れる言葉―  作者: 初 未来


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7/7

第七話 銀世界の点綴

 あの日から、時は流れ、帝都は刻一刻と姿を変え、街路には自動車の警笛が猛々しく響き、人々の装いもまた、よりモダンな色彩へと塗り替えられていた。


 けれど、あの日と同じように雪が降り積もる日、喫茶「白昼夢」だけは、今も深い琥珀色の静寂の中にたたずんでいる。


 雪は、世界の音を奪い去る。小夜は、すっかり馴染んだ「白昼夢」の店主として、今日もカウンターの奥で静かに立ち働いていた。


 かつてのあるじは他界し、彼女はこの場所を引き継いだ。窓硝子に、かつて自分が書き記した結露の跡はもうないが、彼女はこの古い煉瓦の城を守ることを、自らの人生の「句読点」に選んだのだった。


 店内の本棚には、一冊の濃紺の詩集が、背表紙を摩耗させながらも大切に並べられている。あの日、彼が残していった『詩集』。小夜は、時折その最終ページを開く。インクのない、筆圧だけで刻まれた「サヨ」という文字。数え切れないほどなぞったために、その凹凸は少しだけ丸みを帯び、彼女の指先の一部のように馴染んでいる。


――カラン!


 不意に、真鍮しんちゅうの鈴が鳴った。カラン、という響きは、冬の澄んだ空気を震わせ、小夜の肌を小さく叩く。


 入ってきたのは、外套を雪で白く染めた、見知らぬ青年だった。彼は少し戸惑ったように店内を見回し、そして、かつて「彼」が座っていた、あの窓際の席に座った。


 小夜は、音もなく歩み寄る。青年の顔立ちは、かつての彰人に似ていると言うわけではなかった。けれど、その指先が、どこか懐かしい筆跡をはらんで動くのを、彼女は見逃さなかった。青年は、懐から一通の手紙を取り出し、卓の上に置いた。


「……これを、ここへ届けるようにと。父の、遺言でした」


 青年の唇の動きが、小夜の瞳に映る。


『父』


 その言葉が、小夜の胸の中で銀の針のように小さく刺さった。


 差し出された手紙の封蝋は、あの菊の紋ではない。ただの簡素な、けれど丁寧に閉じられたものだった。小夜がそれを受け取ると、手紙からは微かに、長い年月を経た古紙の匂いと、そして、あの時と同じ「異国のインク」の匂いがした。


 小夜は、震える指で封を切る。中から現れたのは、一枚の古びた絵葉書だった。そこには、遠い異国の、海が見える街の風景が描かれている。


 裏を返せば、そこには文字など書かれていなかった。ただ、一面に「光の粒」を模したような、細かな、細かな針の跡が穿うがたれていた。


 小夜は、窓際の陽光にその葉書を透かした。無数の針の穴が光を通し、彼女の手のひらの上に、美しい星座のような光の模様を描き出す。それは、音が聞こえない彼女のために、彼が生涯をかけて作り上げた「光の旋律」だった。


 一枚の葉書を透かすたびに、光が踊り、影が揺れる。小夜にはわかった。彼は異国にあっても、あるいは望まぬ婚姻の中にあっても、ずっとこの「沈黙の会話」を続けていたのだ。


 言葉にすればこぼれ落ちるような、あまりにも純粋な想い。青年は、小夜がその光の模様を見つめる横顔を見て、そっと頭を下げ、珈琲を一口も飲まずに店を去っていった。去り際の足音が、雪に吸い込まれていく。


 小夜は、光り輝く絵葉書を胸に抱き、静かに瞳を閉じた。彼女の世界は、相変わらず静止したままだ。


 けれど、今、彼女の心の中には、帝都の雪をすべて溶かしてしまうほどの、温かな「音楽」が満ち溢れていた。


 ――愛している

 ――さようなら



 ――そして、ありがとう


 光の粒は、彼女の睫毛まつげを濡らし、頬を伝い、琥珀色のカウンターの上に、小さな、けれど輝かしい波紋を描いた。窓の外では、雪が止み、雲の切れ間から一筋の残照が差し込んでいた。玻璃はりのまどろみは、今、静かな目覚めを迎え、二人の言の葉は、塵となることなく、永遠の光となって宇宙そらへと還っていった。



 完

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