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玻璃のまどろみ、言の葉の塵 ―音のない世界が触れる言葉―  作者: 初 未来


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第六話 玻璃の終幕、永遠の余白

 雪は、帝都のすべてを等しく白濁した静寂へと誘っていた。先ほどまでの喧騒が嘘のように、小夜が立ち尽くす路地には、ただ凍てついた空気だけが滞留している。彼女の頬を濡らしていたのは、雪が溶けた水滴か、あるいは、熱を失った涙だったのか。小夜にはもう、その区別さえつかなかった。


 彼女は、濡れた着物の裾を重そうに引きずりながら、再び喫茶「白昼夢」へと戻った。扉を開けると、そこには彼女が去った時と変わらぬ、よどんだ琥珀色の時間が流れていた。


 ――カラン……


 力なく鳴った真鍮しんちゅうの鈴が、冷え切った彼女の耳たぶを、優しく、けれど残酷に叩く。


 店内には、主を失った珈琲の香りが、幽霊のように漂っていた。小夜は、彰人が座っていたあの窓際の席へと、吸い寄せられるように歩を進める。卓の上には、彼女が床に落としたはずの、あの白い手紙の残骸が、誰の手によってか再び静かに置かれていた。


 彼女は、震える手でその席に腰を下ろした。椅子の座面には、まだ微かに彼の体温が残っているような錯覚を覚える。小夜は、その存在しない熱を抱きしめるように、深く身を沈めた。


 窓外の景色は、次第に夜の色に侵食されてゆく。ガス灯が一つ、また一つと灯り、雪を透かして極彩色の光のつぶてを店内に投げ入れる。ステンドグラスを透過した瑠璃色の光が、小夜の白い手首を静かに横切った。それは、まるで彼が最後に見せた、あのかげりを帯びた視線のようでもあった。


 ふと、卓の隅に、一冊の真新しい訳本が置かれていることに気づく。装丁は深い濃紺の布張りで、金箔押しで彼の名が刻まれていた。それは、彼が心血を注いでいた西洋の作家の詩集だった。


 小夜は、その本を手に取った。まだ糊の匂いが残る、新しい紙の感触。彼女がページをめくると、そこには彼が紡いだ、流麗な日本語の詩が並んでいた。


「かつて、この世ならぬ美しき場所にて――」


 小夜は、その文字の一つ一つを、指先で愛おしくなぞる。耳の聞こえない彼女にとって、読書は、魂と直接対話する唯一の手段だった。彼の選ぶ言葉は、どれもが鋭利な硝子の破片のように美しく、そして、触れれば血が滲むほどに悲しい。


 ページを捲るたびに、小夜の目には、彼と過ごした午後が走馬灯のように浮かんでは消えた。珈琲をかき混ぜる匙の動き、眼鏡を直す仕草、そして、言葉を飲み込む瞬間の、あの微かな喉の震え。そのすべてが、この本の中に閉じ込められている気がした。


 やがて、本は最終ページへと辿り着く。そこには、詩の続きはなかった。ただ、広大な空白が、冬の雪原のように広がっているだけだった。


 小夜は、その余白を見つめた。何かがある。


 彼女は、窓から差し込むガス灯の光に、ページを斜めにかざしてみた。すると、そこにはインクの痕跡ではなく、鋭い万年筆の先で、紙を押し潰すようにして刻まれた「文字」が浮かび上がった。それは、インクを載せずに、ただ筆圧だけで刻印された、目には見えない「触れるための言葉」だった。


 小夜の指先が、その凹凸を捉える。


『 サ ヨ 』


 最初に触れたのは、自分の名だった。紙の繊維が、彼の強い筆圧で潰され、微かな溝を作っている。小夜は、その溝に自分の指先を沈めた。まるで、彼の指と、時を超えて指切りを交わすように。


『 君 の 静 寂 の 中 で 、 僕 は 初 め て 真 実 を 聴 い た 』


 文字をなぞるたび、小夜の胸の奥で、せき止めていた感情が熱い奔流となって溢れ出した。


『 こ の 声 は 、 誰 に も 届 か な い 。 音 の な い 世 界 に 住 む 、 君 に し か 。 』


 指先が、震える。紙の凹凸を通じて、彼の体温が、彼の魂の叫びが、直接彼女の血管へと流れ込んでくる。


『 愛 し て い た 。 琥 珀 色 の ま ど ろ み の 中 で 。 さ よ う な ら 、 僕 の 光 。 』


 最後の「光」という文字の最後の一画は、そのまま紙を突き破らんばかりの強さで、そして、名残惜しそうに掠れて消えていた。小夜は、本を抱きしめたまま、声を上げずに泣いた。


 彼女の住む静寂の世界に、今、かつてないほどの轟音で、彼の声が響き渡っていた。それは、どんな音楽よりも美しく、どんな言葉よりも重い、愛の調べだった。


 窓の外では、雪が激しさを増していた。帝都を白く塗り潰し、すべての境界線を消し去ってゆく。彼が去った道も、二人が座った椅子の跡も、いつかは雪の下に埋もれてしまうだろう。


 けれど――小夜は知っていた。


 この指先に残された、目に見えない刻印がある限り。彼女は、永遠に彼と共に、この硝子の深海で、まどろみ続けることができる。小夜は、濡れた睫毛まつげをゆっくりと閉じ、彼が最後に触れたページに、そっと唇を寄せた。紙の冷たさの中に、確かに感じた。彼が最後に吐き出した、切なくも甘やかな、溜息の温度を。


 喫茶「白昼夢」のランプが、静かに揺れて、消えた。後に残されたのは、降り積もる雪と、音のない世界に咲いた、一輪の透明な愛の記憶だけだった。

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