第五話 千切れた手紙、凍える追跡
その日の午後、帝都は薄氷を纏ったような鉛色の空に覆われていた。喫茶「白昼夢」は、いつもよりも客足が遠く、店内に充満する静寂は、まるで誰もいない深海のような、息苦しいほどの透明さだった。
久世彰人が、珍しく、店内の奥まった席に座っていた。彼の前には、深煎り珈琲のカップではなく、封のされた白い手紙が置かれている。そして、書きかけの翻訳原稿も、いつもより筆圧が強く、乱雑な線で埋め尽くされていた。
小夜は、その手紙の「存在」に気づいた。彼の指先が、その封書の上を何度も、まるで躊躇うように撫でていたからだ。彼の瞳は、遠い過去を、あるいは来たるべき未来を夢見るように、焦点が定まらなかった。その視線の揺らぎが、小夜の心臓を、冬の小鳥の羽音のように小さく震わせる。
やがて、彰人は珈琲を一口も飲まずに立ち上がった。彼は、手紙を懐にしまうことなく、そのまま卓上に残して店の扉へと向かう。
――カラン
真鍮の鈴が、いつもより重々しい音を立てたように、小夜の肌を打った。彼の重い外套が、冷たい風と共に店内の空気を掻き乱し、レースのカーテンが微かに揺れる。
小夜は、その場から動けなかった。卓上に残された白い手紙。それは、彼が「忘れ物」として意図的に置いていったものなのだろうか。それとも、単なる彼の心迷いの、不確かな残滓なのだろうか。
彼女は、まるで氷の上を滑るように、音もなく卓へと近づいた。手紙の封蝋は、彼の家紋であろう、古びた菊の紋が刻まれている。裏返せば、それは見知らぬ高貴な女性の名が、流麗な筆跡で綴られていた。
小夜の指先が、その文字をなぞる。それは、彼女が読み解く彼の言葉とは違う、冷たく、硬質な、そして決定的な「別離」の匂いをはらんでいた。
その時、小夜の視界の端で、手紙の隅に、極めて微かな、けれど見覚えのあるインクの滲みを見つけた。それは、彰人が翻訳原稿に、小夜への密かな思慕を忍ばせる時に見せた、あの「筆跡の乱れ」だった。
慌てて封を破ると、そこには、正式な縁談の話と、彼が帝都を離れる日が記されていた。そして、末尾には、彼が書き損じたであろう、千切れるような筆致で言葉の残骸が、小さな染みとなって残っていた。
――申し訳……
小夜の頭の中で、全ての音が消失した。いや、元より彼女の世界に音は無い。だが、今、彼女の魂の奥底で、何かが激しく、そして決定的に砕け散る音がした。手紙が、彼女の震える指の間から、音もなく床に滑り落ちる。
(行かなければ……)
その衝動が、彼女の全身を稲妻のように駆け巡った。小夜は、エプロンを外すのも忘れ、店の扉へと駆け出した。足元から舞い上がる埃の粒子が、窓から差し込む冬の光の中で、千切れた言葉の塵のように乱舞する。
古びた扉を押し開け、小夜は雪が舞い始めた帝都の街へと飛び出した。
扉を一歩踏み出した瞬間、そこは「静寂」という守られた檻の外だった。
視界に飛び込んでくる情報のすべてが、棘なって彼女の肌を刺す。走り去る自動車の排気ガスと、濡れた地面が放つむせ返るような匂い。人々の口から吐き出される白濁した息の群れは、意味を持たない記号の奔流となって小夜の平衡感覚をかき乱した。
耳は何も捉えない。けれど、石畳を叩く馬車の蹄の振動が、鋭い電気信号のように足の裏から背骨を駆け上がり、脳を直接殴りつける。すれ違う男たちの怒鳴り声は、歪んだ唇の形となって網膜を焼き、まるで形のない巨大な怪物が街全体で暴れているような錯覚を覚えた。
普段の「白昼夢」が穏やかな水底だとしたら、ここは狂った嵐の渦中だ。
小夜は自分の耳を両手で塞ぎたくなった。何も聞こえないはずなのに、世界が放つ「存在の音」があまりにもうるさくて、視界が白く明滅する。それでも、その光の洪水の中に、ただ一つ、自分を繋ぎ止める細い糸のような「彼の背中」だけを求めて、彼女は震える足を踏み出した。
吐く息が白く、瞬く間に霞む。肌を打つ冷たい風が、彼女の頬を赤く染め上げた。普段は静かで、光の移ろいだけで世界を認識していた彼女の目に、街の喧騒は、色とりどりの洪水のように押し寄せた。
煌々《こうこう》と灯るガス灯の明かりが、雪の結晶に反射して無数の光の破片となり、彼女の瞳を刺す。すれ違う人々が纏う、様々な匂い。それら全てが、普段の静謐な世界とはかけ離れた、生の、そして混沌とした「音」として、彼女の全身を叩きつけた。
(彰人さん……!)
声にならない叫びが、喉の奥で詰まる。彼女は、雪に濡れた石畳を、着物の裾が跳ねるのも構わずに駆け抜けた。足元が滑る。一度、大きく体勢を崩し、両の手を地面についた。冷たい雪が、直接掌の皮膚を焼き付ける。けれど、痛みすらも、今は彼を見つけるための動力源だった。
人々の波を掻き分け、視線の先を探す。雪が降りしきる中、背の高い彼の後ろ姿は、どこか遠くに見えた。彼の外套が、風に煽られて大きく翻る。小夜は、その見慣れた後ろ姿を、失われた希望の残像のように追いかけた。
しかし、人波は彼の姿をあっという間に呑み込み、雪が降り続く視界は、瞬く間に彼を掻き消した。小夜は、肩で息をしながら、立ち止まった。
どこまでも続く、白い雪道。そして、彼の姿が消えた道の向こうには、ガス灯の淡い光が、まるで彼の消え入りそうな存在を惜しむように、儚く揺れていた。彼女の指先は、今も千切れた手紙の、あの「申し訳……」というインクの染みを覚えていた。
小夜の心は、凍てつく帝都の空の下で、音もなく、ただ静かに、砕け散る雪の結晶のように散っていった。




