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玻璃のまどろみ、言の葉の塵 ―音のない世界が触れる言葉―  作者: 初 未来


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第四話 硝子の深海

 雪は、音もなく帝都の街を埋めてゆく。喫茶「白昼夢」の窓硝子は、外気の冷たさと店内の微かな熱気に挟まれ、白い溜息のような結露をまとっていた。小夜は、その曇った玻璃はりを指先でなぞる。指先に伝わる凍てつくような冷感は、彼女にとっての「冬の音」だった。


 彼女の世界は、常に深い水の底にある。人々の話し声は泡のように消え、街の喧騒は遠い波音よりも静かだ。


 幼い頃から、彼女はこの静寂という名の檻に住んでいた。他人が享受する「音」という色彩を奪われた代わりに、彼女には世界の「輪郭」が鋭敏に見えた。風に揺れる街路樹の葉の震え、誰かが吐き出した言葉が虚空に描く揺らぎ、そして、感情が瞳の奥で爆ぜる火花。


 小夜は、カウンターの陰で、自らの耳たぶにそっと触れた。冷え切った指先が触れる耳は、装飾品のように沈黙し、何の役目も果たしていない。以前は、この耳が疎ましかった。世界から切り離された孤独を証明する、呪われた肉の一部だと思っていた。


 ――けれど


(あの人の、声を知りたい)


 彰人と出会ってから、その呪いは甘やかな渇望へと姿を変えた。彼が語る時、その喉元が微かに震える様を小夜は見つめる。鎖骨の間に潜む、声の震源。もし、そこに耳を押し当てることができたなら。骨を伝う彼の「音」を、私の魂は直接受け止めることができるのだろうか。


 小夜は、彰人がいつも座る椅子の背もたれを見つめた。彼が唇を動かすたび、小夜はそれを自身の視覚という翻訳機にかけ、言葉を組み立てる。けれど、言葉の意味は理解できても、その言葉に含まれる「温度」や「湿り気」、彼特有の「響き」までは、光の動きだけでは捉えきれない。


 例えば「愛している」と彼が言ったとして。それが、春の陽だまりのように穏やかな色をしているのか、それとも、燃え盛る劫火のように赤い熱を持っているのか。音が聞こえないということは、彼の心の「彩度」を、半分しか知ることができないということだ。


 そのもどかしさが、小夜の胸を爪でひっかくようにうずかせた。彼女は、店内に置かれた古びたピアノの蓋をそっと開けた。誰もいない薄暗い空間で、鍵盤の一つを押し下げてみる。指先に伝わる、鈍い振動。それは、彼女の身体を貫き、内臓を揺らし、そして消えてゆく。


 ――これが、音


 目に見えず、触れられず、けれど確かに存在する、透明な暴力。彰人の声も、きっとこのように、誰かの心を震わせているのだ。彼が読み上げる詩の余韻が、私以外の誰かの耳には、天上の音楽のように響いているのかもしれない。そう思うと、小夜の心には、泥のような嫉妬と、救いようのない疎外感が静かに沈殿していく。


 彼女は、ピアノのふたを音も立てずに閉じた。


 ――彼女にとっては、世界はずっと音も立てていない――けれど……


 ふと、昨日彼が原稿に残した、インクの滲みを思い出す。彼は、小夜が「聞こえない」ことを知っている。だからこそ、彼は言葉をつづる時、一画一画に祈りを込めるように、筆圧を強く残す。紙の裏側に浮き上がるほどに刻まれた、彼の言葉の痕跡。それは、耳を持つ人々が決して触れることのできない、小夜と彼だけが共有できる「触れる声」だった。


「……あ」


 小夜の唇から、小さな吐息がこぼれた。自分の不自由な耳が、彼との特別な断絶を、逆説的に「特別な絆」に変えてくれているのだとしたら。この静寂は、彼を愛するための、聖なる礼拝堂なのかもしれない。窓の外、雪の結晶が硝子に張り付いては、体温に触れて涙のように溶けていく。小夜は、その消えゆく水の跡を愛おしく見つめた。


 いつか、この静寂が彼を連れ去ってしまう日が来るとしても。この深い硝子の海の中で、彼の言葉の塵を拾い集める今の時間は、まどろみのように美しく、そして切なく、彼女の全身を浸していた。


 ――カランッ


 入り口の真鍮しんちゅうの鈴が、彼女の皮膚を叩いた。


 小夜は、背筋を伸ばし、エプロンのしわを一つ、丁寧に伸ばした。


 彼が来る。


 言葉の届かない世界で、光と影、そして微かな振動だけを頼りに、彼女は再び、彼という名の「調べ」を迎え入れる準備をした。

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